私本太平記の「黒白帖」
- 私本太平記の最後の「帖」となる「黒白帖」は尊氏が死んだ1358年で終わる。最初の「あしかが帖」は1321年から始まった。だから「私本太平記」は37年の歴史小説である。古典太平記は1368年までの50年間だ。「黒白帖」は病床での執筆だった。完成後間もなく死去された。本「帖」のみは急テンポで物語が進む理由のようだ。
- 先帝となられた後醍醐は吉野の金峰山に吉野朝廷を開かれる。尊氏は丹波に避難させていた家族を呼び寄せる。嫡男の千寿王は9才、藤夜叉が生んだ不知哉丸は15才であった。不知哉丸は元服して直冬と名のり、尊氏の弟・直義の養子になる。後日のお家騒動の一方の目になる。義貞の金ヶ崎城は落城し、義貞の子義顕も、尊良親王も自刃。飢えた城兵は兵馬まで喰って命を繋いでいたという。義貞と義助は脱出し、なお越前の杣山城に拠って抵抗している。
- 先帝は活発だった。弱冠20才の奥州鎮守府将軍・北畠顕家が召集に応える。上にいただく義良親王は11才。彼らにとって今回の京都遠征は非常に困難だった。多賀ノ鎮守府すら守りきれず、福島の伊達郡霊山に拠点を移していた。足利勢優勢が固まった当時は、長途京都までのあらゆる場所で敵対勢力と渡り合わねばならなかった。それでも1万の兵で、不破の関で戦い、小山城を抜く。利根川徒渉戦を勝ち抜き、鎌倉を陥れた頃はもう冬であった。美濃路は不破、関ヶ原、垂井、青野原すべて敵勢で充満していた。はやくも京都から直義の指揮下に、数万の兵力が幾手にもわかれて、待っていた。一度は凹んだ足利の関東勢も追撃してくる。奥州軍兵力は2万まで膨れていた。顕家はいったん引き返して追尾軍を蹴散らし、北伊勢から奈良に向かう。
- 顕家が奈良に入ると尊氏も安閑としておれず本気を見せる。顕家は義良親王を吉野に送り、自軍を摂津河内に向ける。奥州兵は強かった。天王寺では細川を一敗地に塗れさす。しかし師直の本格的大軍の前についに21才で戦死。死の前の上奏文には朝廷人の驕りを批判する強い言葉が述べられていた。退勢の中で召集に呼応しようとしたあせりからか、義貞は福井市の燈明寺畷で討死。四国九州の先帝方も地元の戦いに精一杯で、上洛など思いも及ばぬ有様であった。
- 回天を期して先帝は、義良親王(12才)を旗頭とする東下の軍勢を再編成し、52隻の大船に分乗させて伊勢から陸奥を目指させる。従うは北畠顕信(顕家の弟:陸奥の新鎮守府将軍)、結城宗広らであった。結城家は鎌倉以来の名門だが、足利側と先帝側に分かれて争っていた。宗広は白河結城氏で、茨城県の結城市あたりに地盤があったのだろう。だが吉野朝廷の不運は続く。彼らは台風らしい時化のためにちりぢりに漂流し、義良親王は吉野に戻る。翌年夏先帝崩御。御年52才、風邪が原因という。崩御の前日、各皇子が東西に転戦中で、吉野におわす親王としては唯一人になっていた義良に、譲位が行われた。後村上天皇である。正行が数100をつれて新帝の行宮に参内する。
- 夢窓国師は後醍醐の師であり尊氏の師である。嵯峨の亀山御所跡に夢窓国師を開山の師とする天竜寺が建立される。尊氏が後醍醐先帝の菩提を弔おうとする気持ちが、そもそもの発心のはじめであった。莫大な経費は天竜寺船の交易利益で賄った。天竜寺船とは後世の御朱印船のようなもので、貿易独占特許船のようだ。元からはインフルエンザ(天竜寺風邪)もやってきた。後醍醐先帝の7回忌に当たる日が仏事初めだった。盛大な落慶(竣工)式典。時の権力者の勝利宣言でもある。地方は小競り合いに明け暮れていたが、都には平和と繁栄が戻った。天竜寺景気と呼ばれた。
- 北朝は無能だった。有能の廷臣は南朝に逃れ出たという。尊氏は公卿のほぼ独占だった朝廷の位階まで一族に分配してしまう。勝者の驕りを端的に示したのが師直だった。彼の、時には手兵の手で姫掠いも辞さぬと云う、貴種だけを狙った女遊びは童謡にまで謳われるほどで、師直はそれを隠そうともしなかった。彼は将軍家執事の要職にあり、尊氏の信頼を得て権勢並ぶものがないほどであった。女の立場は弱かった。帝や貴族からの引き出物であった例が記録に見られる。妻問い婚の風習はとっくに失われ、父権が強化されていた。旧支配体制側の困窮の有様が載っている。伝来の荘園は細り、宮廷はさびれ、心からしておちぶれていた。
- 公卿侮辱に出るだけでなく、武士たちはしばしば宗教へも揶揄と驕慢を故意にしたとある。上皇の御車の先駆けの随身が喧嘩を売られ、矢が御車に突き刺さった椿事、道誉の一行が妙法院(天台座主の亮性法親王)御所の焼討ちを行ったこと、天王寺荘園横領事件などが上がっている。天王寺塔の九輪の宝鈴が鋳つぶされたのが始まりで、河内和泉の古寺の塔は、塔の簪花たる飾りを失い、宝鈴はみんな武士の酒瓶に化けてしまったという。これらの原因の一つには、北朝に仕えていた公卿の卑屈ということもある。
- 四条畷の合戦で正行は戦死する。数千の正行軍にたいし、師直軍は3、4万を数えた。無謀に近い突撃だったとある。吉野朝廷の実質総帥は北畠親房だった。彼の狭量の国粋主義的叱咤が、出征にあたって参内した正行を追いやったと書いてある。正行は病身で小柄だったようだ。総瓦解の南朝勢を追って師直軍は吉野山頂に侵入し行宮、仏閣を焼いたが、朝廷はすでに賀名生(吉野から南西に20kmほどか)に退散していた。十津川、天河の郷民の抵抗で、師直は追跡を諦め京都に戻る。南朝にはもはや名を上げられるほどの武将はいなかった。楠木家を継いだ正行の弟・正儀は一途な忠臣を指向しなかった。
- ここからは本HPの「観応の擾乱」('18)と重複する。もっともそれとは異なり、本書は歴史小説だから、情感を込めて歴史を説明するので、納得しやすいように出来ている。南朝封じ込めに成功した直後から、足利家のかねてからの内訌が表面化する。まず師直が罷免される。彼は謹慎を装いながら、弟・師泰と1万数千の軍勢を京都に集め、尊氏の邸を取り囲む。邸には師直指弾の直義が逃げ込んでいた。尊氏は恫喝に屈したと見せて直義の直参武将を引き渡し(のちに流刑先で暗殺)、直義を引退させ、副将軍役を我が嫡男・義詮に代わらせた。直義には尊氏−師直枢軸の証と見えた。
- 直義の養子・直冬が西国で反尊氏−師直の軍を進める。直義は河内に逃れ南朝に降伏する。尊氏と闘うには名分として南朝が必要だった。南朝に下る足利勢が続出。尊氏は蹴散らされ、1千ほどの軍勢になってから西宮に近い武庫川で、師直と師泰を出家させて高野山に送ることで和解する。でも師直、師泰ほか一族はほぼ全員が道中で暗殺された。
- 尊氏−義詮勢が盛り返す。直義は京都を脱出しいったん北国に向かい、そこから関東へ下る。しかしそこは依然尊氏の名声が衰えぬ場所であった。尊氏は南朝に降伏を申し出、3度目に受け入れられる。無節操なことおびただしい。しかしどの武将も当世はこれが当たり前だった。南朝に直義討伐の勅を貰う。道誉は反師直で直義に与していたのが、尊氏軍の東国下りに合うと、7千を牽きいて参加する。尊氏軍がこれで倍増したので、存在感を高めるいい機会になった。直義は伊豆で降参する。
- 尊氏は直義を毒殺する。47才だった。病死と発表された。直義派武将の軍、新田遺児遺臣の軍、北畠奥羽軍、宗良親王軍などの動静に、関東でも尊氏は安閑としておれなかった。京都は義詮が留守を守っていたが、宰相・親房の遠大な策謀が徐々に姿を見せ始め、尊氏の帰京を急使が促していた。尊氏は道誉を引き返させる。南朝への降伏にともない北朝は三種の~器や重要書類を引き渡す。存続すら危ういと見た廷臣は、続々と賀名生の南朝詣でに走る。尊氏は2−3千の軍勢で反尊氏の大軍を打ち破り、関東を再支配する。
- 後村上天皇が賀名生の行宮から住吉、天王寺、男山八幡を通り京都に還幸された。尊氏を京から引き離しての還幸は親房の戦略だった。7−8千の北畠顕能、千種顕経、楠木正儀、和田、越智、神宮寺などの南軍の精鋭が入京する。義詮は京を脱出し近江の道誉のもとに走る。道誉が執事のような立場になって行く。北朝上皇らは賀名生に拉致された。この南朝天下は100日だった。尊氏勢が盛り返し京都包囲の勢いを見せたのである。後村上天皇は道誉指揮の大軍に囲まれた男山からかろうじて賀名生に逃げ帰る。尊氏−義詮は後光厳天皇を擁立する。受禅、上皇の詔、神器のいずれもなかった。1年後今度は九州から直冬の大軍が上洛、義詮は後光厳天皇とともに都落ちするが、尊氏の上洛で、今度は直冬が石見の国に落ちて行く。ついに南朝の大黒柱・親房が死ぬ。直冬に呼応するものが増え、またも尊氏は都落ち。
- その直冬が、叡山の尊氏と播磨の義詮に挟撃され完敗して歴史から姿を消す。北朝の皇室が解放され京都に戻る。南朝の行宮は河内の金剛寺に移される。しかし南朝勢力は衰え逼塞状態になる。ただ九州の菊地党は勢い盛んで九州探題の一色が追い出された。九州出陣を決意していたが、尊氏はついに54才の生涯を京都で終える。義詮が新将軍。尊氏の病名は癰瘡(ようそう)。悪性のおできで、皮膚は赤く腫れて、疼痛を伴う。黄色ブドウ球菌が原因であることが多いという。私も何度かやったが、切開か自然開口で膿が出ると治った。尊氏は全身に腫れが回ったらしい。葬儀は衣笠山麓の等持院で執り行われた。私の小学校はこの近くだったので、等持院の雰囲気は記憶にある。尊氏は今次大戦中はことに人気がなかった。そのせいもあって、今は知らないが当時は閑静な場所であった。
- 最終章「黒白問答」は作者・吉川英治の尊氏ならびにその時代の総括であろう。桐蔭軒無言録に残った問答集の紹介という形にしてある。でも桐蔭軒無言録は実在しない。作者の架空の文書だ。盲官の人物批評・政治批評の形を取っている。盲官とは検校、別当、勾当、座頭とかを指す。尊氏が、盲目の従弟・覚一の願いを入れて創設し、職屋敷の土地を与えたという。盲人の位は時代劇で承知していたが、尊氏にまで遡る歴史があるとは知らなかった。生け花、茶道、観世流能などの源流が語られている。
- 「私本太平記」は尊氏の一代記になっている。本HPに「サイコパス」('18)があるが、尊氏もこの傾向を持ったヒトだったろう。対する後醍醐帝も同様だった。2人とも非道と云える冷酷さで局面の打開を図っている。すでに武家政治の時代に代わっていたが、旧時代からの体制や意識は生き長らえていた。尊氏一代の戦乱は旧時代の遺産を完璧に打ち砕いた。残念なのは京都が戦場化するたびに焼き払われ、寺社仏閣などの文化遺産が焼失したことだ。旧勢力が卑屈になり権威から遠ざかった。最後に、庶民の中に、かっての上層独占の文化が広がり始めているという記事が、明日を思わせて完結する。
('19/11/22)