私本太平記の「千早帖」
- 千早城の攻防を中心に近畿の戦局が物語られる。幕府軍は吉野、金剛山、河内、淀川から京都までの広い戦場を、曲がりなりにも六波羅で把握して闘っているのだろうが、宮方や地方一揆の軍勢はおそらくばらばらの局地戦争だったろう。総司令官などいないのだから、大局を見た戦略などあろう筈がない。それを紡いでみせるのが忍ノ大蔵という忍者だ。彼は昔は六波羅の放免の頭であったが、九死に一生を得てフリーの密偵になっている。古典太平記にはない、吉川英治が作り出した人物なのだろう。
- 大塔ノ宮は、吉野を宮方の総本城とし、ご自身、全土の総司令官をもって任じ、いわゆる“大塔ノ宮令旨”の檄を天下に発した。けれど、ひとたび、関東の大兵にせまられると、あまりにもその落城は早かった。守兵は、郷士山僧などの混成で、ほぼ千早城と同数ぐらいはいたのであるが、すべてその用兵から作戦まで、正成のようにはゆかない。吉野城そのものは峻険ではあった。だが、吉野の愛染宝塔を軍寨化して、衆徒の輿論も紛々のなかに築かれたものだけに、たちまち内部の裏切り者が、その序戦から寄手に通じていたのであった。宮は中立を守る高野山に匿われ、後日を期して叡山に潜行される。大変な行動力である。
- 幕府方5万は千早城を攻めあぐんでいた。私は戦中の絵本などで楠木軍の勇戦ぶりを知っている。トンネル作戦があったという記録も残っているという。爆薬が発明されてからは、城壁突破に坑道を掘って爆破するという作戦は、洋の東西を問わずよく使われた。しかし我が国の弓矢槍刀剣の戦いでも用いられたとは目新しかった。宇都宮公綱が手勢千余騎で参戦する。
- 彼は摂津出陣の折は、正成が合戦を回避した相手で(「私本太平記の「世の辻の帖」」('19))、意気軒昂だった。しかし千早では手玉に取られ、剛将の名声に傷を付けられる羽目になった。しかし猛攻に次ぐ猛攻で、千早の守兵は1000を切っていた。城側の糧食、兵器とも底を突き、火矢に対する消火活動やトンネル対抗の放水が水不足を来していた。幕府側の消耗作戦がそれなりに効果を上げていて、城はあと10日持つかという瀬戸際まで追い込まれていた。
- 総司令官〜いくさ奉行〜の長崎悪四郎ノ尉高真は新田義貞に与えた帰国退陣許可を悔やんでいた。中国四国近畿の帝の隠岐脱出や宮方蜂起の情報に、その地方からの出兵部隊はことに浮き足立っていた。高真は鎌倉の内管領・長崎円喜の子で、北条氏の族親ではない。ところがここの陣々にある阿曾、名越、大仏、佐介、金沢、塩田などの諸将はみな北条の一族やら譜代大名なので、ともすれば、「なにを、円喜の子が」と、その軍令なども軽んじられる風だったとある。
- 加賀田の隠棲兵学者・大江時親(「私本太平記の「みなかみ帖」」('19))はいくさ奉行の手から逃れようと都を目指す。途中からすっかり正成の人物に参ってしまっている忍ノ大蔵と主従に変装して行動する。大蔵は吉野にも使いをした男だった。その見聞録の形で、社会情勢や戦乱情勢をレポートしてある。時親は幕府方でも宮方でもない、戦乱の世が大江兵学の絶好の実験場で、軍学者としての名声を世に止めたいというひねくれ者の姿勢を明確にする。つまり第三者的な公平なレポートだと云っている。
- 河内源氏の散所ノ大夫(「私本太平記の「あしかが帖」と「婆娑羅帖」」('19))の息子は、時頼の薫陶を真っ正直に受けとめて楠木陣営で奮戦していた。二股武者、日和見主義の大夫の身上相談を、今や逃避行で自己嫌悪の時頼は拒否する。忍ノ大蔵は元祖伊賀忍者。彼と言うか忍者の信条は単純明快。「忍の仲間じゃ第一に二股者は人間とは見ていねえ。仲間同士のほかは密事は命にかけて守る。そのかわり忍一党はどんなばあいも助け合う。仕事のために仆れたやつはその女房子までみんなでみてゆく。恥しらず、涙のねえやつ、卑劣なやつ、恩しらず、そんなのは犬畜生とみて卑やしむ」だ。彼にとってもう時頼はX人間。時頼を都の入口・月輪の羅刹谷(「私本太平記の「帝獄帖」」('19))で、六波羅に売って遁走する。京都までは淀川伝いだった。西岸に赤松の軍兵があって東側は六波羅勢が警戒に当たっている。
- 新たな乱破役に、隠岐からの帝脱出に功があった、阿波水軍の岩松吉致が加わる。犬猿の仲の足利と新田を取り持ち、合わせて宮方に誘導する役柄らしい。鎌倉は第4軍2万の出発を控えて混雑していた。総帥には、北条一族中での大族・名越尾張守高家、からめ手の総大将には足利又太郎高(尊)氏が当たる。喫緊の出陣故、「一々参府ニ及バズ、各、領国ヨリ即日、出兵セヨ」という慌たださだった。尊氏は病気を申し立てて出仕はしないが鎌倉常在だった。幕内には忠誠心にとかくの疑いがあるものとして、「虎を野に放つ」つもりはなかったが、もはやその余裕も失せた。高時は妻子を人質に置いておくように命じる。
- 陣ぶれにない道誉の軍が先発している。高時への献策から急遽所領の近江に引き返すことになった。探りを入れに来た師直に、参戦ではなく近江にあって二股者の監察に当たると言ってのける。
- 三河にある足利領内では上京してくる軍の兵站任務に大わらわだ。地図と照合すると、岡ア市、西尾市あたりが領地であったようだ。領地とはしたが、その実情は、吉良、今川、仁木、一色、斯波、高、石堂、畠山、高力、関口、木田、入野、西条などの19家の足利党で、尊氏から扶持を支給されているのではなく、尊氏を宗家と仰ぐ、いわば半独立の同族郷党である。
- 尊氏が三河に入った時点での陣容は、鎌倉から従軍してきたもの500(足利ノ庄からはその半分足らず)、今川の奉行下に1700余人、また吉良の動員によって1400人あわせて3600。兵備は自分持ちだ。あと遅参組(細川など)を入れても4千ほどだったろう。楠木も名和も直属配下は200有余だった。実質の支配体制は東西ともこんなものだった。戦国末期、信長が近代的な中央集権型の軍団組織で分権型の旧体制軍団を打ち破るまで、戦略のある戦争は行いにくかったらしいことが見て取れる。同族全員が幕府顛覆の大謀の連判状に署名する。
- 鎌倉からの長子・不知哉丸受け取りの使者は切られる。反旗を知った道誉は不破ノ柵を大軍で固めた。後ろには名越の本軍。尊氏は僅かな供を連れて、今後を道誉との1:1の対談に掛ける。新田の旗揚げが密談に出てくる。尊氏は不知哉丸を約定への人質、また後日の名越への言い訳のために、道誉に引き渡す。そのとき生母・藤夜叉を添えた。彼女は道誉の昔からの思いものであった。単なる野望の道具であったと知った彼女は収まらない。11年前に初めてであった場所で尊氏をなじり倒す。やがて足利軍は佐々木軍に見送られながら都を指して動き出す。
('19/10/13)