私本太平記の「八荒帖」

道誉は鎌倉の詰問になんとか言い抜けることが出来た。高時が執権に復帰しており、道誉が彼のお気に入りであったことが幸いした。だが幕府の疑念は収まらず、隠岐判官佐々木清高も召喚され、問注所(今の検察庁+裁判所)へ出頭の上取り調べを受ける。清高は道誉の意を戴して囚人の待遇に手心を加えていた。島には宮方が往来し帝とのコミュニケーションを図っている。その状況が細大漏らさず幕府に伝わっている。道誉は柳営(幕閣)に出仕するように努め、佐々木一族の保身のために、清高に、これからは、鎌倉表の厳命どおり、帝以下をきびしく囲って、配所の守備に手加減を加えるようなことがあってはならぬと伝える。清高は幕府の枢機から帝暗殺の密命を受ける。
鎌倉には六波羅飛報が頻々と寄せられていた。大塔ノ宮が吉野山に砦を築き、諸国に義兵令旨を発しているという。楠木正成も、赤坂から千早への築城を完了し、金剛山一帯は、今やひとつの連鎖陣地をなして来たともつたえている。播磨、備前、四国、九州も焦げ臭くなった。もう局部的な小手先の策で鎮められる段階では決してない。「今にして、大英断をくだし給わずば……」というのが、六波羅早馬の、声々だった。だが、道誉には、それすら甘い観方とおもわれたほどである。彼は、この6月、愛知川の宿で、生前の北畠具行から、もっと多くの“宮方連判”の名をきいていた。
道誉に逆風が吹いていたころ、尊氏は病と称して出仕しようとしない。幕府の諸将は次ぎ次に出兵して行く。総勢10万と号するが、実数は6-7万だったようだ。驕児高時は日々の歓楽に夢中であり、そのころは踊る宗教の時宗に夢中になって踊り狂っていたという。でも尊氏の動向は気掛かりであった。道誉は高時の代理見舞いで尊氏を訪れるが、彼とは会えず、その接待に出てきた国家老・師直に逆ねじを喰わされる。「観応の擾乱」('18)に書いたあの動乱の主役の1人になる師直の、希代の臭雄ぶりが描写されていて、なかなか面白い。
隠岐の島は一度は訪れてみたいと思っている。時折クルーズ船の寄港先に顔を出すので考えるが、なかなか決心がつかないまま今日に至っている。島前(西ノ島、中ノ島、知夫里島)と島後島に分かれていて、後醍醐帝は島後島の国分寺境内の一角に幽閉された。隠岐国分寺は今も寺院として健在(本書には国分寺の址とあるので、あのころは廃寺だったのだろう。)で、行在所阯と彫った大きな石碑が建っている。だが島唄に紹介されている山中腹の大満寺は、写真ではひどい荒れ寺状態である。清高は配所近くに居を構えている。そこは国府だが、今の地名には残っていない。西ノ島には別府という地名が残っているが、そこには叔父が代官として赴任している。別府とは国府の支所という意味で、大分の名高い温泉地・別府もそういう意味だったと彼の地の博物館で見た覚えがある。
醍醐帝の隠岐脱出は宮方の周到な用意のもとに敢行された。幕府方も可能性に気付いていて、特使が鎌倉から島後島に到着し、軍兵も増員された。謀議一決、清高が帝暗殺に単身寝所に忍び入るが、気付いた帝の叱責にたじろいだ隙に、宮方の侍に取り押さえられる。帝の偉丈夫ぶりを際立たせるために作った挿話だろうが、体制側がこそこそと単身で弑逆に夜中に忍び込むといった段取りはなんとも解せぬ。逃げた先は伯耆の御来屋ノ浦で名和一族を頼る。鳥取県に御来屋も名和も地名を残している。
海上遁走に功があったのは、岩松一族だった。阿波の小松島から勝浦ノ庄へかけて蟠踞している豪族にして海賊で、新田義貞に繋がる家系という。太平記を読むとこの時代では氏族の絆は大変重要で、帝が新田の一族ということに注目される箇所がある。小松島港は徳島の海の窓口で、阿波踊り目当てのクルーズ船が船を寄せる場所として有名になっている。小松島から勝浦ノ庄とは今の徳島勝浦郡あたりだろう。その海賊船が、出雲伯耆隠岐などの海に油断ならぬ勢力として眼を光らしている。瀬戸内海東端の海賊が西日本全域に覇を唱えていたのか、現実はもっと複雑だったろう。
小宰相の局は妊っていた。その小宰相が廉子の指示で海中に突き落とされる。廉子は30を過ぎた、帝も一目を置く女盛り分別盛りであった。実質皇后としての誇り、女としての嫉妬と増悪、持明院統の処分という大義名分がそうさせたようだ。それにしてもだ。平安の時代は遠くなりにけりだ。太平記の女人たちの、押し込められた行動範囲思考範囲は、封建体制が宮中の中まで浸透していることを感じさせる。定家本の「若紫」が発見されたと云うニュースが流れた。源氏物語の女性に比べての存在感の薄さが、哀れに感じられる。
名和長年の一族が海賊岩松から帝ほかの身柄を引き受ける。岩松一族と隠岐からの宮方は海上に去る。隠岐からの追跡の幕府方軍船は引き上げる海賊船に時間を稼がれる。名和は船上山に旗揚げ。一族の中には鎌倉武士として闘うものも出ていた。配所まで供奉してきた六条ノ少将千種忠顕卿が、行宮では武将姿になり軍監のような姿勢を取りだしているとある。尊大にとあるのは後々の問題に含みを持たせているのであろう。
隠岐からの軍勢を主力とする幕府方包囲軍との攻防は、幕府方に六波羅からの部将派遣がなく、まとまりを欠いたため、20日足らずで宮方の勝利に終わった。全体としては大隊規模、地域戦では小隊中隊規模の戦であった。帝は直ちに論功賞を行う。与えるものがないため、隠岐脱出のさいに召されていたボロの狩衣を細かに裁切らせ、「まずは後日に恩賞を与える手形ぞ」と、その小布を墨付き代りに諸武士へ渡された話は有名だ。帝には将中の将たる天分がおありだったのだろう。
吉野大衆を擁して吉野山の愛染宝塔を根城に旗揚げされた大塔の宮は破れて高野山に敗退。赤松円心勢は備前、美作あたりの武士2,3千をもあわせ、一時は京都のまぢかへまで迫っていた。六波羅ほかの1.3万に破れはしたがまた勢いを盛り返していた。金剛山系の千早城を中心とする楠木一統に鎌倉は集中していた。関東主力の5万の軍勢が峯々を取り囲む。楠木は1300を越えない。ほかに、金剛山の絶頂にある転法輪寺では、公卿の四条隆資が指揮をとって、そこの山伏党をつかっていた。最前線にあっても何か微妙に公武が一体化しない状況にそれとなく触れている。上赤坂城は落城。千早城の水の手をめぐる旧放免(昔の六波羅の密偵)の暗躍が始まる。
四国方面では、阿波の岩松党のほか伊予の河野党も宮方の旗揚げをやっていた。中国探題(長門)の北条時直は敗れて九州に逃げる。九州探題・北条英時と宮方との探題邸をめぐる攻防は、九州東福寺両の良覚法師の手になる「博多日記」に詳しい。九州には大友、筑州、菊池、平戸、日田、三窪らの諸大名に院宣が渡っていた。探知していた探題は菊池、阿蘇、少弐、大友の四家を召喚。菊地武時は他と計らって探題襲撃を計画、実行。しかし寝返られて家の子郎党300は結局は全員討死。武時の子・三郎頼隆は新婚16日目の討死。博多の晒し首を訪ねた新妻が狂うさまを、日記は書き残している。

('19/10/09)