私本太平記の「帝獄帖」

9/21のNHKブラタモリは「比叡山〜比叡山はなぜ“母なる山”になった?〜」という題だった。今でも100の堂宇を数えるが、昔はこの山に3000を数えたという言葉が耳に残った。最澄が開いた修業道場は法然・親鸞・道元・栄西・日蓮・・・と日本仏教を代表する名僧高僧を生んだ。だがそれと並行して、ブラタモリでは取り上げなかったが、僧兵が歴史に残した足跡も大きい。「帝獄帖」は彼らの活動から始まる。
大塔の宮(前座主)と宗良親王(現座主)のもとに集う僧兵3千。天子の叡山動座を直言し東(大津口)西(雲母坂)に兵を動かす。雲母坂は比叡山登山京都側ルート入口で、叡山電鉄修学院下車。このルートは小学校の遠足でよく登った道だった。六波羅兵は常駐の2千。挙兵を待っていたかのように動き出す。「増鏡」の著者は、まだ弱年の頃の事件であったらしいが、当時の逼迫した宮廷側の雰囲気を書き残しているという。後醍醐天皇は史上有名な女房車による脱出を敢行。偽天皇を仕立てて鞍馬越えから大原の間道を通り叡山に向かわせる。自身は南都の大寺へ。果敢な決断だった。
しかし朝廷側の目算は甘かった。実利の見えない詔勅に命がけの参集をするのだ。叡山では偽天皇を知った堂衆は戦意を失い、六波羅と妥協するものまで出てくる。南都では風見鶏の争論が続くばかりで、軍事勢力にならない。峻険な笠置寺に陣を構えるが、僧兵200。おいおいと密書の効果が現れて兵が集まり出すが、芯になる勢力は皆無。不可思議なのは叡山を基盤とした両法親王が笠置に入っていることだ。ここで天皇の有名な南の木陰(楠木)の夢物語が出てくる。その頃の夢に現れるお告げは、今なら笑止千万かもしれないが、聞く人々にたいそうな魔力を持っていた。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は子規の句だそうだ。私はあまりにも絵画的なので蕪村の句かと思っていた。河内は奈良ではないが、ここも柿の本場だったようだ。大乱前の平和な楠木家の秋を、柿の収穫と干柿の作業に託して描写してある。干柿の吹く粉は、砂糖代りの上菓子に用いられ、蜂蜜や甘葛(アマズラ)などより、はるかに貴重な食品であった。古い習慣があって、嫁に行く折、柿の苗を持ってゆき、嫁いだ家に植え、子を産みつくし、働きつくし、かつての花嫁も婆となって死ぬと、共に老いたる柿の木も伐って、薪とする。そして、その薪で火葬に付されたという。
幕府本軍2万が上洛。笠置を取り囲んだ軍は尊氏が牽きいる第4軍であった。笠置山の官軍はよく戦ったが、夜陰に乗じて岩をよじ登り潜入した50名ほどが、陣屋に火を放ったために、あえなく落城。主上ほかの殿上人ほかはちりじりに落ち延びるが、ほとんどが落ち武者狩りの手に落ち、六波羅に引き立てられる。主上は笠置から4〜5里の神童子(地名が残っている)越えで、~器とともに囚われの身となる。都では北朝の新帝・光厳天皇が即位していた。後醍醐天皇一行は河内の赤坂を目指していたという。大塔の宮が、般若寺でいったん探索の手が入った経唐櫃に潜り込んで難を逃れた話には、記憶を新にした。
正成は勅使の殿上人の来訪で決断する。急拵えの赤坂城に一族郎党の500人と地方武者100人ほどで籠城する。彼は、人数が集まらないのは我が身可愛さの日和見で、一戦のちでないと去就を決めかねているためと、苛立つ主戦論者に言い放つ。籠城前に主だったもの70名余りを集めて衆論を確かめる。いったん戦場になったら、家族郎党領民すべてが目も当てられぬ災難に身を焦がさねばならぬと念を入れる。一族決断後は邸を焼き払い、妻子は千早の山奥に避難させる。赤坂城は23日で落城した。絵本の攻防の有様は、見たのが7〜80年の昔なのに、まだかすかに記憶に残っている。正成と主たる幕僚は姿を消す。幕府軍は正成自決を報告する。
兼好法師などは、著者の吉川英治が苦し紛れで登場させた人物だろうと思っていた(「私本太平記の「あしかが帖」と「婆娑羅帖」」('18))が、実際に古典太平記の巻21「塩冶判官讒死事」に名が出ているそうだ。彼はその頃吉田山の侘び住まいで小僧と2人で住んでいる。この巻21は赤城落城の遙か後年の1341年の出来事で、時の権力者・高師直が守護の塩冶判官の美人妻に横恋慕し、吉田兼好に恋文を代筆させる話だ。妻の拒絶が悲劇を生む。吉川英治はその話を道誉の日野俊基の美人妻へのプロポーズに当てはめている。彼女は夫の処刑で身の置き所をなくして隠れ住む寡婦で、婆娑羅大名の好奇心の的である。兼好はすね法師扱いだ。
気位高い獄の後醍醐天皇に若い南北両探題が手こずっている。道誉は厄介を肩代わりするように牢司になり、帝獄の生活環境の改善に尽くす。御寝の具も新たなのが調進され目に見えて扱いが変わる。道誉はそのために、いまだ実権を離さぬ鎌倉の高時の鼻息を窺い、北朝殿上人への根回しも忘れない。帝はたいそうなお喜びで、通常なら地下人として許されるはずもない御見の栄に浴する。道誉にしてみれば、将来起こりうる事態に備える一石である。後宮の女性から三位ノ局廉子、権大納言ノ局と小宰相が選ばれお身回りの女房として傅くことが許される。これも道誉の計らいだった。小宰相は北朝の縁者で、帝も康子も気を許せぬ人と思っている。
鎌倉幕府の後醍醐天皇の配流が、持明院統の後伏見院の難色で決定が遅れた。院は皇位の尊厳をお考えだったのだろう。隠岐の島への遠流である。一ノ宮尊良親王を土佐へ、もと叡山の座主、宗良親王を讃岐に流す。帝獄はもう100日は経ていたろうが、処置が終わるまではと鎌倉の上洛軍2万余はいまだ洛中洛外に止め置かれていた。そこへ尊氏の軍勢500が入洛してくる。尊氏は笠置方面軍の司令官だったが、外将は京都に戻し、また足利麾下の半数は故郷に戻していた。尊氏は、後日を期してか、伊賀から大和、紀伊、和泉、摂津までの南朝方勢力圏で、軍事訓練民情視察を兼ねての掃討戦を実施してきた。
探題から宿舎に割り当てられたのが、かっての藤原兼実の月輪の別荘だった。私は一時この近所に住んだことがある。月輪殿あとは今は東福寺の塔頭・即宗院として保存されている。非公開だが庭園の美しいお寺だそうだ。モミジで著名な通天橋の掛かる峡谷をさらに遡った位置にある。附近には御陵や貴人の墓やらが散在する。この峡谷の下流に月輪小学校があったはずと、地図を調べたがなかった。廃校になったそうだ。尊氏は偶然ながら、都の中心から少し離れた位置から、朝廷や六波羅や関東諸軍勢の動きを俯瞰できた。
尊氏は2人の女人の訪問を受ける。1人は日野俊基の妻・小右京。あとの1人は我が子を伴った藤夜叉。2人ともすげなく追い払われるが、小右京につけた護衛兵が、道誉の兵に仕掛けられ、小右京を拉致された上、怪我をして戻ってきた。尊氏は即刻奪回に走る。道誉はこの「帝獄帖」の終わりまでは、この小競り合いを知らないでいる。読者には尊氏と道誉の、さきざきの絡み合いに、不安と期待を残す締め方だ。流石吉川英治。藤夜叉は、三河一色村に隠れ住むようにとの言いつけに背いたとして、一瞥も与えられなかった。
宰相・吉田茂の「曲学阿世の徒」は有名だ。現実を弁えずに学や知識をひけらかして批判する遁世的人物にぶっつけた雑言であった。吉川英治が「大江時親」や「吉田兼好」に抱いていた感情は、おそらくそれに類するものだったのだろう。学や思想の類は、ことに乱世では、教養の一部として余裕を持って身につけた現実の人から滲み出る行動となって、はじめて尊いと云うのであろう。

('19/9/30)