私本太平記の「あしかが帖」と「婆娑羅帖」

新聞広告に安部竜太郎版太平記(集英社文庫)が出ていた。第1弾婆娑羅太平記「道誉と正成」発売となっている。まことに太平記の時代は日本史の中でも飛び抜けてドラマティックであった。'91年のNHK大河ドラマ「太平記」は、真田広之主演で高い視聴率を得たと言う。私も観ている。原作は吉川英治:「私本太平記」で、多分そのころであったろう、その文庫本(講談社、'90)を一度は(七)の途中まで読んだのであるが、なぜか読み続けることを放棄したままになっていた。文庫本は全8巻になっている。本HP:「観応の擾乱」('18)は太平記(1318年-1368年頃までの約50年間)の中の1349年-1352年をカバーしている。それが「読みかけ本」を思い出させるきっかけにもなっていた。
Webに青空文庫:「私本太平記」(無料)があった。「5GとAI」('19)に書いたように、私は両眼手術のあとである。文庫本を読むよりずっとPCの大きな画面の方が楽だ。文庫本(一)の最初の章:「あしかが帖」の中頃からは、青空文庫に乗り換えて読み出した。
9/13の新聞に羅城門西に羅城と九条大路の遺跡が発見されたと載っていた。Wikipediaによると、道長の頃は既に礎石を残すのみとなっていたと云うから、太平記の頃には面影もない状態だったろう。でも「あしかが帖」の冒頭には「羅生門の甍が、夢のように浮いて見えた。」とある。'50年頃からの執筆と云うから、まだこれで通っていたのだろう。
9/7のNHKブラタモリ「京都御所〜天皇の住まいはなぜこの場所だった?〜」では天皇の住まいが御所に落ち着くまでに、左京を転々としたと解説した。後醍醐天皇は、二条の里内裏から上皇のおわす京極の大炊御門(オオイミカド)にみゆきされる。Webによると、前者は御所南小学校あたりで今の(多分昔も)二条からは離れた位置だ。上皇とは父君の後宇多上皇で、この頃は持明院統と大覚寺統が交互に天皇を立てていた。先の天皇は持明院統の花園上皇である。
私はかって住んだことがある場所からそう遠くなかったので知っているが、今の大炊御門町は円町近くの、当時は多分低い洪水に弱い土地で、上皇が住屋にされたはずがない。大炊御門とは家系の通称で、Wikipediaには「藤原北家師実流で大炊御門北、万里小路東に邸宅があったため大炊御門を称する」にいたったとあった。生半可に京都を知っているためか、いちいち引っかかって前に進まない。以後は地誌は小説記載丸呑みで読み進める。
足利又太郎(高氏のちの尊氏)が、お忍びで郎党1人を連れて畿内散策の旅(90日)にでる。物語を飾る準主役的人物が紹介される章である。日野俊基(公卿)、日野資朝(公卿)、佐々木道誉(ばさら大名)、藤夜叉(田楽の舞姫、遊女)。執権高時に新田義貞。弟の直義と伯父の上杉憲房。赤橋の守時と登子。
英邁な天皇が気鋭の若手公卿を側近とし、「資治通鑑」などの宋学が堂上を風靡している。王政復古を画策されているという風聞が流れている。北条政権には末期的症状が出ている。東北では蝦夷の乱が起こっている。会話の言葉遣いは鎌倉末期を想像できるようにしてある。難しい漢語が随時出てくる。物質名詞も当時になるだけ合わせてあるようだ。固有名詞も読みと音を合わせるのに一苦労だ。社会生活や情勢の描写は流石である。尊氏が上洛した頃に京都では酒屋が急に数が増えたとある。情報伝達の中心であったり、民論や風評の起点であったりしたのであろう。佐倉の歴博のこの時代の京の酒屋を示す地図があったと覚えている。
「あしかが帖」でもっとも印象深い人物は道誉である。道誉は尊氏に関心が深い。東国帰途の尊氏を待ち構え、歓迎セレモニーを催す。花夜叉一座が田楽舞を披瀝する。この一座の花形が藤夜叉で、諜者の役目を背負わされながら、尊氏の子を孕み、苦渋の生涯を送る。道誉は自身に勤皇の志があるやに示唆して尊氏を打診する。そのくせ執権政権には上手に取り入っている。去就の明確でない?(ヌエ)的存在とされながらも、その領国の位置や大身である背景から物語のキーマンとしての活躍を暗示させる。尊氏の北条打倒の秘めたる決意は、次の「婆娑羅帖」においておいおいと明らかにされて行く。道誉に密告されて「お忍びの旅」が明るみに出、彼は幕府の譴責処分を受ける。しかし彼は道誉に勝るとも劣らぬ鵺であった。副次的に起こった新田との争いも、義貞の大人の姿勢も手伝ってなんとか事なきを得る。
徳永真一郎:「近江源氏の系譜〜佐々木・六角・京極の流れ〜」、創元社、'75に佐々木氏が土地の「沙沙貴神社」を乗っ取って、佐々木の氏神にしてしまった経緯が載っている。江戸時代には近江商人という、やはり安土地方の抜け目の無さと団結力のある商人の群れがあった。首都機能が2分する鎌倉時代のころからだろうか、複雑な処世術を身につける気風が、近江人には自然と備わってくるのだろう。
藤夜叉の自己紹介は、当時の人身売買の実情を物語る。敦賀の生まれだが、気が付いたときは一座の踊り手として仕込まれていた。奴隷の売買は表向きには禁止されていた。実際は、「足利の領下でも、わけて飢饉年などには、痩せ馬なみに市で売られる子が野菜籠の中や陽溜ひだまりの辻に、群れとなって曝されるのはめずらしいことではなかった。」とある。森鴎外の山椒大夫は平安中期11世紀後半の話らしい(「山椒大夫・高瀬舟他四篇」('02))。あれも禁令にかかわらず行われている誘拐と人身売買の話だった。今次大戦が終わるまで、こんな隠れた人身売買は、日本だけに留まらずアジア近隣国も含めて当たり前に行われていたはずだ。私は、その線上に、慰安婦問題があると思っている。
「婆娑羅帖」は(一)に収まりきらず(二)にかなりのページが引き継がれている。尊氏は赤橋守時の妹・登子を妻に迎える。世に才媛を謳われた女人であった。守時は高時をついで執権となる北条一族の最有力者である。北条政権の末期的症状は、高時主宰の尊氏・登子結婚祝賀宴における高時の酒乱行状に象徴的に記されている。
後醍醐天皇の親政への野望は一旦は正中ノ変(1324年)で発覚し頓挫する。日野資朝が遠島処分になったが、日野俊基は助かり、再組織の核となる。天皇は矢継ぎ早に京都や南都の有力大寺院に行幸あるは密勅送付を繰り返す。北条幕府に対抗するには、まずは彼らの軍事力を頼みにする以外手がなかった。行幸等の費えは膨大だったろうが、武家側に蚕食されていたとはいえ、まだ朝廷側には天皇領のような形の直接収入源が確保されていたようだ。足利の庄も、実質はどうか解らないが一部は天皇領で、尊氏は朝廷の一被官と名乗っている。
俊基が天皇の意を戴して河内に遊説の旅に出る。いよいよ南朝側の忠臣・楠木正成の出番だが、「婆娑羅帖」では彼の周辺を描写するに留まる。正成も当時の保身の術であったのだろう中立的姿勢を崩さないでいたから、俊基も直接の接触に二の足を踏んでいた。俊基は追跡してくる六波羅の放免(密偵)を躱しながら、河内源氏の姿勢を探る。源氏の中の足利と新田は史書に名高いから誰もが知っている。近江源氏は、私の祖先なので、少しは勉強した。でも河内源氏は楠木(橘氏と自称)との関係でしか知らなかったから、本気で読んでみた。
古市は応神天皇御陵北西に今もその地名を維持している。河内の国きっての繁盛な大部落で、赤土の破れ土塀(防護壁?)が3町四方もあるという。私は奈良の今井町を思い重ねていた。堀と盛り土塀に守られた3町X6町ほどの矩形の町で、町割は室町時代からのものだった。建物は江戸期と云うから、太平記のころよりはずっとましな姿になっているはずである。
ここは散所の民の天地だ。公共事業に奉仕する義務はあるが、無税で物資の集散が盛んな無秩序な町だが、それでも差配者として散所ノ大夫が官位を貰って取り仕切っている。河内源氏を名乗っている。彼らは荘園経済との結びつきが強く、地頭勢力にはもともと反発する立場であった。中央政権に容易に屈しない悪党であった。それは楠木にも当てはまる。
古市から南に下った南河内に宮方を隠さぬ兵学者・大江(毛利)時親が遁世している。彼を師とする塾生の中にかっては正成がいた。今は時親と距離を取っている。正成はそう遠くない赤坂の水分(ミクマリ)に住んでいた。どちらも地名として残っている。弟の正季は今も熱心に時親塾に通う宮方旗印鮮明の武人である。

('19/9/22)