万葉集と歌人たち

直木孝次郎:「直木孝次郎古代を語る12 万葉集と歌人たち」、吉川弘文館、'09を読む。4/29の毎日朝刊の「悼む」に、直木孝次郎の本年2月の訃報に対し高岡市万葉歴史館(「伏木」('05)に訪問記あり、当時の館長の講演も聴いている。)館長が追悼文を書いていた。Wikipediaによると100才で、2003年井上靖文化賞受賞の時すでに著作数500編を超えていたという。千葉市図書館には著作の中の82冊があった。一高から京都帝大文学部に進んだ。海軍に兵科の予備学生として入隊している。追悼者に因んで本書を借りだした。
日本文化、歴史を語る上での万葉集の重要性は衆知のことだ。「日本史のしくみ」('19)には、万葉集では敗者も内なる人に数えられていると指摘している。内なる人には天子から防人、遊女(本書には出てこないが)まで入り、歌の優劣の前には身分を問わない姿勢がある。新元号「令和」の出所として今注目を浴びている。本書には、太宰師・大伴旅人主宰の梅の花の宴で読まれた「春されば 先づ咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ」(山上憶良)が引用してある。出所はこの宴32首に対する序文である。
時代を遡ると、資料は指数関数的に減少するとは歴博で聞いた言葉だ。だから時代小説も古代に足を置いたものは少ない。政争がらみではない話で例外的なのが額田王で、彼女の歌を紡いで物語とした井上靖:「額田女王」は私も読んだ記憶がある。斎藤茂吉:「万葉秀歌」は私たちの世代では広く読まれた。歌人としての茂吉の評語だった。本書はどう見ても素人向きではない。古代行事の説明もないし、引用論文には一次資料が多い。本稿では、歌の良し悪しは問わず、関心の深い額田王と家持に対する記載を中心に読んでみたい。
でもその前に。高校時代の万葉集と本書の万葉集の位置付けの差をノートしておこう。高校の国語では、もう戦後だったが、本書の序にある通り、「真実」をリアルにうたうのが和歌の本道であって、「万葉集」の歌はその意味で高い価値があり、「古今集」や「新古今集」は「つくりごと」の多い歌の集で、一段おとるとする戦前からの理解を引き継いでいた。しかし、現在の研究は、万葉集がそんな素朴を通した歌だけでなく、ことに宮廷での作品には古くから技巧を凝らした歌になっていることを示している。漠然と高校以来持ち続けた観念が序文で崩れるように思った。
額田王は大津京時代を中心とする万葉第1期の白眉歌人である。第2期が柿本人麻呂、第3期が山部赤人や山上憶良、第4期が大伴家持が中心的歌人である。
私がもっとも好きな額田王の歌は、「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」だ。本書に、彼女の歌で、最初に引用されるものだ。海の神に捧げた祭祀の歌だという。松山の道後に熟田津という商標の酒がある。熟田津は松山の古名。この歌は百済救援軍が伊予に2ヶ月風待ちした時の歌だと聞く(「第三の地ビール」('96)、「地ビールのレストラン」('01))。私は四国在住が長かった。
彼女は天武天皇の皇女を産み、のち召されて天智天皇の後宮の人となった。側室としての序列は、妃(皇族出身)、夫人(中央有力貴族出身)、それ以下(下級貴族出身)とある中の、夫人とそれ以下の中間ぐらいと云う。女官を牽きい祭祀賓客のことを修める仕事を職掌としたのではないかとある。TVで見た東南アジアの山地少数民族に残る歌垣のような、歌うことが祭祀にも宴席にも男女の交際にも重要な行為であった当時では、歌人としての才能を発揮するのに好適な地位だった。額田王の功績の一つは、伝統を踏まえながら、自然の美を客観的に歌い込める、新しい文学を作り上げたことにあるだろうと書かれている。
史書では中大兄皇子(のちの天智天皇)は大海人皇子(のちの天武天皇)の兄。ともに皇子時代に、弟の側室が兄の側室になる。弟との間にもうけた十市皇女が兄の異母皇子・大友皇子と結ばれて子・葛野王をもうける。大友皇子は次代天皇への最短距離にありながら、壬申の乱で悲劇の死を遂げる。額田王は世が世であれば60才の頃は皇后の母であった。そのころの和歌に、中国の古事を踏まえた昔を懐かしむ歌がある。学識豊かな専門歌人であった。
専門歌人が額田王のころから宮中に現れる理由を考察している。皇居所在地が次第に飛鳥地方に集中するようになり、推古朝あたり(第T期)から政治的都市が発生して行く。難波宮遷宮(第U期)ことに近江大津宮遷都(第V期)は、農村基盤の豪族である貴族のトップを都に定住させるのに役立った。難波宮は大化改新期で存在期間も短かった。近江大津宮には、百済救援出兵、白村江の敗戦、戦後処理などの厳しい数年を経ての遷都で、政局は安定を取り戻し、都は繁栄を回復する。貴族生活の華やかさが記録に出るようになる。詩歌の記録数もぐっと増え、和歌が貴族の必須の教養になったことが解るようになる。
額田王は、それが任務でもあったが、「宴遊の花」であった。「茜さす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる」は、名高い彼女の傑作だが、蒲生野遊興ののちの宴席の作と考えられる。大海人皇子の受け方もウィットに富んでいた。秘められた恋の歌と見るよりは、歌垣のからかい歌の伝統の上につくられた、ユーモアを湛えた歌と見るのが妥当だとしてある。彼女はすでに40才前後だった。祭祀のあとに宴席が設けられるのが普通で、彼女の才能は酒席で磨かれたとある。
中大兄、大海人、額田の三角関係をどう見るか。敗戦までの定説は皇太子が地位に任せて強権拉致したと言うのであった。戦後は額田の主体性が重視されている。泣きの涙で去って皇太子のもとに行ったのではないとする。何しろ資料が極端に少ない中でこんな微妙な関係を論証するのであるから、悪く云えばなんとでも云える。本書は自発説だが、当時の大らかな男女婚姻関係を論証し、白昼堂々の自発だとする。
論拠の一つに中大兄の三山(香具山、畝傍山、耳成山)歌がある。「香具山は 畝傍を惜し(または雄雄し)と 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき」と、額田が靡いた(惜し(または雄雄し))ための兄弟紛争を謳っているように思える。万座の喝采を独り占めしていただろう額田が拉致に甘んじる性格でなかったろう。当時は妻問い婚で、何人とも婚姻関係を持つのだから3者それぞれに悠々と関係を愉しんでいたのかも知れない。しかし一度持った関係にこだわりはあったろう。天武の御代では、大海人時代の関わりで形の上では後宮の人とはされていたが、額田は活躍していない。
万葉集編者として有力視される大伴家持は、国府伏木(高岡市)に国守として5年を過ごした。万葉集に収められた彼の和歌の半数は、この時期に読まれている。万葉歴史館が高岡にある理由だ。大伴家は5世紀後半から頭角を現し、武烈、継体・安閑・宣化・欽明あたりで全盛期に入ったが、飛鳥奈良時代においおいと他氏族に地位を削られ、平安前期の応天門の変(866)の首謀者として、伴大納言が伊豆配流になった時点で、殿上人氏族としての宮廷との縁がほぼ断ち切られる。祖父安麻呂が大納言正三位、旅人は大納言従二位だったが、家持は中納言従三位どまりであった。だが4世紀に亘る長寿の氏族ではあった。万葉集には、大伴家出身の多くの歌人が記録されている。
家持は叔母の坂上郎女に和歌を学んだ。彼女は古歌の蒐集をしていて、万葉集に貢献した。家持の秀歌としてよく引用される3首:「春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐいす鳴くも」「我がやどの いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも」「うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも 一人し思へば」は、家持が高岡から戻った頃の作品である。公の儀式で謳った歌ではない、こころ通った仲間との宴会の歌でもない、独居の歌である。
儀礼の場では和歌がだんだん作られなくなり、漢詩がクローズアップされる時代に入った。諸人の集まる公的宴会もなくなり、私的宴会が盛んになる。政治は藤原対反藤原の様相が激しくなっている。反藤原は、橘諸兄(葛城王)を中心とする橘・大伴陣営に集まっている。家持の歌には宴会で詠んだものがあるが、数々の宴会の出席者をリストアップすると、たいていが明確に反藤原の集会であることが解る。しかし形勢は家持に利あらず、性格もあって、家持は無常感に苛まれる。上記3首は彼のそんな心境での絶唱である。

('19/5/12)