メアリー・エインズワースの浮世絵
- 千葉市美術館で2つのコレクション展が開かれている。1つは「メアリー・エインズワース浮世絵コレクション−初期浮世絵から北斎・広重まで」展で、もう1つは「ピーター・ドラッカー・コレクション水墨画名品」展である。ドラッカー・コレクションは同じ美術館で一度見ている(「ドラッカーと鳥居清長」('15))。その全点を日本の企業が買い取りこの美術館に寄贈した。そのお披露目に、合わせ展示したとあった。よって本稿ではメアリー・エインズワースの浮世絵だけを紹介する。
- この美術館は浮世絵展示で成功している。過去の展示を本HPから拾うと、「ジャポニスム展」('01)、「富嶽百景殺し旅と浮世絵展」('01)、「広重二大街道浮世絵展」('06)、「帰ってきた江戸絵画」('11)、「「江戸の面影」展」('14)、「初期浮世絵展」('16)と数多い。今回のコレクションは千葉でのあと静岡市美術館、大阪市立美術館に巡回展示される。音声ガイドを借りぞこなって、キャプションを照明を落とした美術館で読んだため、いつもの倍、3時間弱も費やした。
- メアリー・エインズワースは明治39年(1906)に初来日し、精力的に1500点以上の浮世絵を蒐集し、最終的には母校アメリカ・オハイオ州オーバリン大学(著名リベラル・アーツ・カレッジ)のアレン・メモリアル美術館に寄贈した。目の利くコレクターであった。しかしアメリカにおいてすら、このコレクションの大規模な展覧会が開かれたことはなかったという。今回里帰りは200点。広重が好きだったとかで、47点までが彼の作品であった。実際の数はコレクションの過半を占めるという。
- 広重は最後の「第5章 エインズワースの愛した広重」に展示されている。それまでの4章は、「第1章 墨摺絵からの展開 浮世絵の黎明」、「第2章 色彩を求めて 紅摺絵から錦絵の時代へ」、「第3章 黄金期の華 錦絵の興隆 清長から歌麿へ」、「第4章 風景画時代の到来 北斎と国芳」である。丁度「日本史のしくみ」を読み終え、まだ江戸の歴史が記憶に残っているので、対比してみた。
- 第1章は17世紀後半から18世紀中頃までだ。赤穗浪士の仇討ちがあり、葉隠が仕上がる。幕府が法度政治のシステムで、封建大名を縛り上げることに成功した時代だ。市場と貨幣をめぐる商品流通の世界が開く。農業以外のさまざまな生業が花開く。世の中が「浮き世」を謳歌し出す。第2章は18世紀中期から後期にかけての展開だ。田沼意次が側用人となり商産業育成に力を入れるが、天明の大飢饉で松平定信が寛政の改革に乗り出す。緊縮財政・風紀取締だった。町民の学芸・文化は、つぎの、化政文化と言われる盛り上がりへ生育して行く。
- 第3章は18世紀後期から19世紀初頭。第2章よりはややずれる程度。町民の繁栄とは逆に、幕政は行き詰まりを見せている。第4章は18世紀末あたりから19世紀前期まで。「東海道四谷怪談」「鼠小僧」「弁天小僧」などが上演された時代で、これらは白浪(悪漢)の系譜にあるもので、封建社会の息苦しさに絶えられなくなった観客の、新しい刺激的要求に応える作品とされる。政情は来るべき維新を控えてますます緊迫してきた。第5章は19世紀中期である。
- 見事に整理された展覧会であった。素朴な墨摺絵から多色刷りの錦絵に至る過程が順を追って展示されていた。美人画、役者絵から風景画に画題が広がるさまもよく分かった。輸入合成染料プルシャン・ブルー(紺青)のもつ透明感は北斎・広重の風景画に画期的に貢献した。天然のブルー染料に比して化学純度が違う点が、透明感に繋がるのであろう。
- メアリー・エインズワースがコレクションを始めたときは、市中の浮世絵は今よりずっと刷り上がり当初の色に近かったろう。風景画は出現が遅かったから、ことにそう言える。展示品は製作年代が古いほど色の劣化が激しい。絵の具の非破壊分析は今日では簡単なはずだ。劣化の度合いは、加速試験をすればかなりまで分かるだろう。浮世絵が線画である点も有利である。劣化した浮世絵の復元は容易なはずだ。一般市民は店頭に並んだ当時に戻ってどんな絵だったかを知りたい。
- 私には鈴木春信の、細身の美人の「縁先美人(見立無間の鐘)」がもっとも印象的であった。「座敷で行われている宴会を抜け出し、縁側で束の間の休息をする遊女を描いた作品。障子の奥で行われる宴会が影となって現され、遊女の物憂げ雰囲気と好対照である。更に厚手の着物に顔を埋めた遊女が寒そうに片足の指先だけを出す姿は何とも情緒深い。」とネット美術館「アートまとめん」に出ていた。
- 括弧内の見立無間の鐘は何を意味するか。Webは便利なもので、いくつかを纏めると「無間(=無限)の鐘の故事(この鐘をつくと来世では無間地獄に落ちるが、この世では富豪になる)があって、それに擬えて、傾城が自分は地獄に堕ちても愛人のための金を調達したいと手水鉢を鐘に見立てて打つという1731年初演の歌舞伎の曲である」と云う話らしいと解った。確かに手水鉢の前に傾城が佇んでいる。もともとは長唄で、浄瑠璃にもある。見立無間の鐘と聞いてピンと来る教養人が顧客だったと云うことだが、今日そんな人が何人いるだろうか。広重の絵には題名が書き入れられているが、春信のにはない。題名はどこから来たのだろうか、これも私の疑問の一つである。Web「重右衛門」に春信の項があり、参考になる。
- 広重の「名所江戸百景 大はしあたけ(大橋安宅)の夕立」として、摺色と背景の異なる2枚が展示されていた。同じ版木であるが、出版の時に変化を付けた。調べてみると、「縁先美人」にも版元不詳という双子の絵がある。それから「縁先美人図」なる題の、大きさ、前景と彩色が異なるが、構図はそっくりの絹本肉筆浮世絵もある。双子じゃなくて兄弟ぐらいである。広重の「東海道五十三次の内 日本橋」にはもっと派手に異なる2枚がある。朝の風景の1枚に対し、前景の庶民の数がぐんと増え、日がさらに昇った背景とした2枚目がある。これも兄弟の関係だ。版は重ねられるから、人気版画には、こんな双子や兄弟の浮世絵がたくさん出てくる。
- 絵師としては短命だったそうだが、写楽の描いた役者絵は個性溢れる画法で印象深かった。目は口ほどにものを言うとはいうものの、あの目つきには惹きつけられた。メアリー・エインズワースが広重を好んだのは、先に述べた絵の具の劣化の問題もあるが、彼女が日本人の顔に対する美意識に、まだついて行けなかったからではないだろうか。私でも現代美人と江戸後期の美人を比較したら、前者を取る。ましてや彼女はアーリア人だ。それから役者絵への傾斜は役者知ってのことだ。彼女が歌舞伎見物をしたかどうかは知らないが、贔屓をつくるほどに傾倒するには、短期の訪日では不十分なことは明らかである。だから彼女は風景画蒐集に努力を傾斜させた。
('19/5/8)