ブルネイとマレーシア

輝けるアジアクルーズの1/29はブルネイのムアラ、1/30にはマレーシアのコタキナバル、それから2日間航海日が続いて、2/2にマレーシアのクアンタンに寄港した。ムアラとコタキナバルはボルネオ島北東にあり、私にとっては今回旅行の目玉の一つ(「輝けるアジアクルーズ」('19))であった。ブルネイもマレーシアもイスラム国教国でかつ王国である、また主要民族がマレー人であるといった共通点がある。それにかっては共にイギリスの植民地であった、大戦中は日本軍の占領支配を受けている。
ムアラには7時に着いた。「美しいモスクとロイヤルレガリア半日観光」に出発。首都バンダルスリブガワンまでは結構遠くて45分はかかった。道路はよく整備され自然保護もしっかり行われている。レイコと名乗る(仕事に応じて相応しい名をいくつも持っているという)華僑2世女性は達者な日本語を操り、高い教養を思わせる内容の話をした。マレー人は厚遇されていて教育終了後公務員になれるが、その働きぶりは華人から見てだが、信じられぬほどの休み時間の連続で、非能率きわまると言った。ブルネイは王国で石油産出国とは知っていた。我が国よりは高い個人あたり所得。至れり尽くせりの福祉国家。ミルク代から中等までの教育費、大学の奨学資金。国会議事堂は建設されたが、政治の実質は国王に全てがかかっているようだった。
一度軍のクーデターを経験している。それはイギリスや隣国の援助で鎮圧している。王は国軍に警戒的で、4割はグルカ傭兵で王室を守っている。今の29代目のスルタンは3人の王妃を持つ。広大なニューモスクは彼の建設で、黄金と大理石、イタリアから取り寄せたというモザイクガラスなどが印象に残った。靴は脱がされたが、帽子はよかった。女性には黒のガウンが貸し出され、それを纏って寺院に入る。丸天井は宇宙を表すという。その次がロイヤルレガリヤ博物館で王室歴史の解説展示。1Fの戴冠式に使ったという車とその儀仗兵の盾と槍刀など、いずれも複製だと言うが、燦然と輝く。ここだけは写真OK。オールドモスクは車窓から。先王の建設で石の船が池に浮かんだように造られ戴冠式はそこで行われた。やはり金色に燦然と輝いていたが、ニューモスクよりはやや小ぶり。
ヤヤサンコンプレックスはショッピングモール。人口46万だから小さいのはやむを得ない。あまり観光客相手の品は置かれていなかった。なにも買うものがなかった。午後はシャトルバスで同じモールへ出かけた。途中でバスがエンコ。幸い2号車がすぐ後についていたので助かった。1戸当たり自家用車3台、新車であふれかえっている国にしてはお粗末だった。市民は、バスは貧乏人たらしいとして、あまり利用しないという説明もあったから、バスはおんぼろ揃いなのかもしれない。ツアーバスもシャトルバスも色とりどりで古くさかった。製造会社を調べたがマークがなかった。自家用車は日本車が昔は圧倒的だったが、今は韓国車が大衆受けして伸びている。それでも6割は日本車らしい。円もUS$も通用しないので、通貨のS$に交換するべく、両替の窓口で5千円札を出したらNoだった。千円札、万円札は交換できるようだった。ときおり思いもしない出来事が起こる。クレジット・カードは可能。船内でインフルエンザ流行気配という警告が出された。
次の日、午前中にコタキナバル半日観光に出た。「北ボルネオ紀行」('18)に紹介した紀行文に出ていた当地を走る鉄道に対しては、「北ボルネオ鉄道乗車体験ツアー」が組まれていたが、中止になった。走るかどうかも不明だし、途中でエンコの可能性があるというのだった。植民地時代からの歴史ある鉄道で多分ボルネオ島唯一の鉄道だから、鉄道ファンには残念なことであったろう。
あとで水上部落も見たし、まだ底辺の人々の住居も見たが、街は市に昇格し、どんどん近代的なビルが林立するようになった。ヤヤサンサバ・旧サバ洲庁外観をバスを下車して写真にする。次の市立モスクも同様、中華寺院:普陀寺は下車して中を見学、大きな寝釈迦、コンクリートの観音様など、これは明らかに大乗仏教のお寺であった。旧正月の菊花。我らの大半はご本尊に拝礼。皆仏教徒なのだろう。宗教の自由は維持されている。ただし国教でないから、寺やキリスト教会は喜捨でまかなわれる。
サバ州立博物館に入場。伝統家屋村には民族衣装の模擬村民が生活の様子を再現していた。ハーモニカのように笙に似た竹製の楽器を演奏していた、槍と吹き矢の複合兵器には、槍をつけた柄にまっすぐな穴が通っていて(昔はそんな長いドリルがあるわけではなし、いかようにして鑿穴するのか興味があったがついに解らなかった。ひょっとしたら焼火箸かも。)矢を吹くことができる。20-30m先に風船があって、民族衣装の模擬兵士は、見事に吹き矢で風船を割って見せた。
個人家屋のほかにロングハウスがあるのが目を惹いた。青森の三内丸山縄文文化遺跡にも復元したロングハウスがあった。集落がある程度になるとロングハウスが必要になる。村人は昔の遊びとして、竹床のしなりをトランポリンのように操って、天井からぶら下げられた賞品を手で取って見せた。ロングハウスは内陸部の部族で今も使われている。半分が共同のホールであと半分が個人住居部になっている。昔の彼らは首狩りを常習としていた。「西ボルネオ紀行」('18)に紹介した紀行文に載っていた記事通りの村だった。本館にはしっかりした土産物が並んでいた。
US$が通用した場所は、こことあとで案内された日本語の通じるお土産店だけだった。以前と比べてUS$も円も通用力が落ちている。案内されたお土産店は隣の7-Eleven(7-Elevenは訪れる町のたいていに根を下ろしている。)にくらべ、同じ品が3倍もするというぼり方だった。州立モスクでも下車して写真撮影。市立モスクの玉葱の塔はブルーのタイル製で落ち着いた感じ、州立のそれも金色が少なくブルネイよりは我らの好みに合っていた。
夕食後ローカルショー:ボルネオカルチャーショーを見た。プロの民族舞踊団らしく、男女の踊り手各数人と銅鑼主体の民族楽器奏者3-4名で、サバ洲にあるという32を超える民族の代表的な舞踊5種を見せた。槍と吹き矢の複合兵器を持った戦士のダンスがあった。最後は有名な竹棒の間で踊るダンス(バンブーダンス)だった。実演は30分ほど。観客も参加しての楽しい時間になった。
続く2日間は航海日で、波穏やかであった。ダンスタイムはいつになく盛況であった。佐藤氏の講演「マレーシアの暮らし・風習について」を聴いた。講師は31年間マレーシア滞在で奥さんはマレー人、イスラム教徒、同伴して紹介した。ポルトガル、オランダ、イギリス、日本と続いた外国占領を比較してイギリスの狡猾さを讃えた。日本軍は華僑からは恨みをかったが、マレー社会では比較的好感を持って迎えられたという。氏の2回目の講演は「日本に帰らない浦島太郎が語るマレーシアの暮らし・習慣について」という題だった。佐藤氏は結婚のためにイスラム教に改宗している。BRASS BreeZeなる楽団が映画音楽の名曲を金管五重奏で演奏した。金管五重奏は初めてであった。ワイン教室のテースティングは好評だった。
2/2午前に「クアンタン半日観光」に出た。チエンピタビーチ下車。イスラム寺院見学に長袖が必要というのでそうしたが、初めて熱帯の暑さをビーチで感じる羽目になった。マレーシアはトイレチップ必要。20-50円程度と考えたらよい。実際は団体としてツアースタッフまたはガイドがまとめて支払うので、ツアーの一員であることを示せばよい。何と言うこともないビーチ風景だったが、小さな猿が多数たむろしているのが目につく。野生ゆえ手を出すなとガイド。マレーシアの道路事情の良さはフィリッピンの比でない。高速自動車道らしい道路も無料のようでゲートなど無い。バスはどうも中国製らしく中古のおんぼろで振動激しく備品も欠けていたりした。安全ベルトの無い席もあった。まだ観光都市化していない事情もあった。ここまで50分ほど。
スルタン・アフマド・1世モスクに入場。ここら一帯が街の中心部のようだった。駐車場を探してモスクを一週。ツアー事前に下調べの旅行はしたのにとガイドは言う。モスクは大きく立派であった。まだ建立後そう古くはない。礼拝前の手洗い洗面など躰を清める場所、便所、廊下。モスク入場で帽子はとやかく言われなかったが、靴は脱いだ。女性は髪の毛を隠すスカーフを皆用意していた。
中央ドーム室で結婚式が執り行われ、我らが入るころはくつろいだ雰囲気であった。50名ほどの出席であったろうか、写真を自由に撮らせてくれた。"Congratulations"連発。新郎新婦のほかに出席の女性群、幼子2人を抱いた夫婦の写真なども撮れた。この夫人は目以外顔全体を隠す二カーブを着用していた。ただし黒ではなく茶系の布だった。彼女以外には二カーブの女性はいなかったと思う。
次はヒンドゥー寺院でここも下車。ヒンドゥーの神々は生々しい。仏教寺院には仏像があるから他宗教の中ではなじみやすい宗教ではある。国教ではないから信者が寺院を維持せねばならない。先のモスクとは敷地の広さが全く劣る。素足になって見学。信者には出会わなかった。床を関係者が水洗いしていたがほかに人影を見なかった。ヒンドゥー教には、特別の伽藍以外には専門の僧職者はいないと聞いていたが、ここもそうらしかった。夕食後BRASS BreeZeの2回目の公演を聴く。

('19/3/2)