オスマン・トルコ史T
- 小笠原弘幸:「オスマン帝国〜繁栄と衰亡の600年史〜」、中公新書、'18を読む。著者は九大院准教授でトルコ史関係の専門家という。トルコは私とは縁が遠かった。記憶に鮮明なのはトルコ軍楽曲:「ジェッディン・デデン」 ぐらいだった。NHKのヒットドラマ:「阿修羅のごとく」のテーマ音楽だったから。家内は何度か旅行で訪ねていて、その地を好意的に話す。本書の題は「オスマン帝国」だが、確か高校世界史では、「オスマン・トルコ」と教わったので、このエッセイでは表題に限ってオスマン・トルコと書く。
- 世界三大料理と言ったらフランス料理、中華料理は間違いなく入るが、3番目が問題だ。我らは日本料理だと思っているが、トルコ贔屓はトルコ料理だという。喰うだけ、腹を満たすだけの食事しか考えられぬ時代が続けば、食文化など育たない。植民地化されず平和が続き政治が安定し経済にも余裕が出来ていて、初めて食文化が磨かれる。その意味ではトルコも我が国も歴史的に似ているらしいとは思っていた。
- 我が国で万世一系と言えば天皇の家系を指す。宋書にある倭王武(雄略天皇)の上奏文は478年で、その6代前が広大な御陵で知られる応神天皇だ。皇統は3世紀には始まっていたろうから、万世一系が史実として17-8世紀も続いている世界希有の存在である。6世紀ではあるがオスマン王朝も万世一系だった。これも非常に珍しい。ビザンツ(ビザンチン)帝国の年代記の1302年に初見される。ケマルの革命で亡びるのが1922年だ。
- 王位の継承は血塗られた抗争がつきものだった。我が国ではたまさかであったのと対称的だ。王位を勝ち取った王子は、継承権のある兄弟を、しばしば殺害あるいは目つぶしで後顧の憂いを断ち切らねばならなかった。王はスルタンでカリフではないが、カリフの要件に五体満足というのがイスラムの法典にあるそうだから、目つぶしはそれに準じた話らしい。実質上も盲目では王は勤まらないだろう。残忍な話だが、暗殺よりは陰湿でないし、抹殺よりは慈悲的だというのだろう。
- トルコ族はモンゴル高原を故地とするモンゴル・トルコ系遊牧民に属する。トルコ族は前3世紀頃には中国の史書に顔を出す。彼らの実体は、我が国戦国期の野武士集団のようなものだったのだろう。支族の一部、セルジューク・トルコ系と云えばいいのだろうか、は西進してイスラム化する。11世紀にはビザンツ皇帝を破ったが、ペルシャのアッパース朝が13世紀中頃ジンギス・ハンの孫フラグのモンゴル軍に敗れたため、その朝貢国になる。フラグのイル・ハン国は、13世紀末には仏教からイスラム教に国教を変え、ムスリムの擁護者となる。
- オスマンは13世紀末にはアナトリア(小アジア)の1候国になり、14世紀に入るとその地域では有力な候国に成長した。だがイスラム圏から見れば、山脈が聳え立つ辺境の地という取り扱いだったろう。イル・ハン国はやがて消滅するが、14世紀末にはその地で起こったティムールが東アナトリアに進出し、オスマンは破れてその支配を受けることになる。
- アナトリアは政治的には長くビザンツ帝国の支配圏だったが、多数派のキリスト教徒にユダヤ教徒、イスラム教徒が入り交じっていた。キリスト教徒にもギリシャ正教ではない異端の宗派に属する人が少なくなかった。オスマン帝国は必然的と云ってよいのだろう、他の一神教徒にたいし寛大な政策を一貫して採用し、共存して行く。オスマンのイスラム教は大別的にはスンニ派というが、実際は異教徒をも巻き込む神秘主義、習合主義だった。
- 現代トルコの紹介に旋舞(セマー)がよく現れる。家内も観光旅行で見てきたという。我が国には室町時代あたりから念仏踊りが広まり、法悦の境地を体験しようと人々がところかまわず踊った。歴博の洛中洛外図にまで記録されている。トランス状態になるまで念仏を唱えつつ踊り狂えば、阿弥陀さまに近づけると言う一遍上人の教えは、セマーの指向するところと一致している。民衆には、難しい説法など聞いても判らないが、これならやれる。神秘主義である。現代の我らも、盆踊りで、無意識のうちにこの歴史を引き継いでいる。
- 習合主義に関してすぐ思い浮かぶのは、我らは神仏混淆の千年以上に亘る長い歴史を背負っていることだ。先日KBS京都の「京都浪漫 悠久の物語「第22回 梅香る北野天満宮〜新発見の屏風を求めて〜」」を見た。このHPの「「香取神宮」展」('15)には千葉県立美術館の展覧会を記している。明治維新で思い上がった田舎武士共が狂気的に主導した文化破壊のために、神宮寺のあとは絵巻に残る程度になっているが、我らの「清濁併せ飲んで」実利に付く姿勢の基礎が、この習合思想にあったのは明らかだ。同じようにオスマンが教理解釈に走り過ぎない実利姿勢が、現在のトルコにも、歴史的に受け継がれている。
- 塩野七生の歴史小説に基づく「ヴェネツィア共和国の一千年」('09)、「十字軍物語」('12)、「ローマ亡き後の地中海世界」('14)には、ヨーロッパの中世とトルコの紛争がしばしば顔を出す。西欧風の軍組織から見たトルコ軍はいかにも異色な編成である。その解説がきっちりされている。すなわち最強の精鋭が、実は農村キリスト教徒から徴用し、トルコ農村で養育しつつイスラム教に改信させた奴隷の幼少年を、軍人に育てた軍団〜イェニチェリ軍団〜であることだ。このデヴシルメ制度は14世紀終わり頃から17世紀中頃までオスマン朝の人材供給制度として国の屋台骨をになった。
- 優秀なものは宮廷奴隷として送られスルタンの小姓として仕える。長じると州総督に出世し、中には宰相や大宰相に登った人材も出た。次に優秀なものは常備騎兵軍団に編入され、残りが歩兵のイェニチェリ軍団に回る。遊牧民であったから元来的に騎兵が中核であったが、キリスト教圏の攻城戦などに歩兵の有用度が認識されていた。イェニチェリ軍団は、その重要性が増すにつれ、ついには政治のキャスティングボードを握るほどになって行く。奴隷とは裁判省略の下に処分され得る身分だ。そして栄達したものも解放されることは少なかった。彼らには係累が無く、閥を造りにくい。宮廷に忠実な臣下を養成できた。オスマンの中央集権化に貢献した。
- オスマンの屋台骨を支えたもう一つの制度がティマール騎兵制だ。自由人のムスリム戦士に対する王の給付は一代限りの徴税権で、民事や裁判は中央派遣のイスラム法官が担当する。イスラム法典には社会や生活についても詳細な規定を持つ。従って騎兵は鎌倉以降の武士階級のような封建領主にはなり得ない。本書には地方在地勢力の拡大を防ぐ完成度の高い制度としてある。
- 周辺のトルコ候国やキリスト教国に対しての婚姻政略は盛んに用いられた。しかし即位した歴代の国王の母親の大半は女奴隷だったという。それもキリスト教徒のギリシャ系が多いという。奴隷であれば姻閥を伴わないから、王位継承問題に関わってくる心配がない。奴隷というとアメリカの黒人奴隷を想像しがちだが、イスラム法は奴隷身分の保護にも厳格だという。王は女奴隷の数は制限されないから、継嗣の男児をつくるのが容易だった。徳川幕府の大奥のような雰囲気が想像される。
- 強固な城塞に取り囲まれた首都コンスタンチノポリスを擁するビザンツ帝国は、衰えたりとは云えそう容易にオスマンの軍門には下らなかった。コンスタンティノポリスが陥落したのは1455年で、そこはその後のオスマン帝国の首都となる。しかしバルカン半島のキリスト教諸国は14世紀中頃からオスマンに蚕食されだし、オスマンは各国を属国化して雄飛するようになる。バルカン半島のアルバニア、コソボ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ などに多いムスリムはこの頃からの影響である。
('19/3/13)