高坂正堯評伝U
- 本稿は、服部竜二:「高坂正堯−戦後日本と現実主義」、中公新書、'18の前半、第3章「佐藤栄作内閣のブレーン−沖縄返還からノーベル平和賞工作へ」までの、私なりの書評Tの続編である。高坂先生は'96年に亡くなられた。私の現役最後の頃だった。本書を読むと、そのころまでの日本の姿が、国内外の重要な政治事件とともに、古くさい表現だが、走馬燈のように駆け巡ってくる。
- 本書の中頃に、高坂が'84年に法学博士号を取得したとある。私の工学博士号(云っておくが、博士論文の成否はオリジナリティ次第。IQはあまり関係がない。)は'85年に戴いたものだから、高坂と私は生年も学位取得年も、偶然ながら、ほぼ一致し、かつ同学だ。余計な脱線だが、高坂の息子は海上自衛隊、私の孫も同様である。そこも似ている。巨人に列される先生と、平々凡々の自分を比較するのは烏滸がましいが、類似点があるから、対比したくなるのは人情である。
- 高坂は、学者にしては、博士号取得に時間が掛かりすぎている。これは彼が研究テーマ「ヨーロッパとウィーン体制」の傍ら、深く現実の政治問題にコミットし、ブレーン活動をしながら、華々しく論戦を展開していたからである。私の博士論文は、会社からたまたま与えられた機会と時間の隙間を利用した結果で、主務は勿論時々の会社の問題を短期間にやっつける活動であった。私の研究テーマはころころ変わった。研究部在籍の時はまだマシだったが、それでも「深く」論文のためにやった研究はあまり思い浮かばない。で私には必然的に博士論文以外が多かったが、高坂は「ディレッタント(好事家)」的関心事にむしろ本務的にのめり込んだ。
- 高坂の博士論文は「古典外交の成熟と崩壊」(第4章の副題の一部)という題だった。吉田から中曽根までの内閣を支え続けた時期と書き溜めた時期が一致するのだから、高坂思想の底流をなす事に間違いない。本書が割りと詳しく紹介している理由だ。著者は、待つことの美徳を説いた第3章:「会議はなぜ踊りつづけたか」こそが、この論文の「白眉」という見方もあり得るとした。映画:「会議は踊る」で、ウィーン会議のいくぶんの気分は、我らにも伝えられている。外交は時間の掛かるもので、楽しみながらじっくりと成熟を待つというのが当時の手法だった。19世紀後半からは、独やイタリーのように軍事力に頼る粗暴な外交に変わっていった。
- 第4章は「「三角大福中」の時代−防衛政策と「古典外交の成熟と崩壊」」である。語呂がいいから三(三木武夫)角(田中角栄)・・と言うのだろうが、内閣の順序は角三だから変えた方がいい。若い人を間違えさせる。田中は日中国交を回復させる。しかし田中は官僚を使いこなすタイプで、学者を重用することはなかった。「日本列島改造論」「石油危機」などに揺れた時代で、あまりにも経済中心主義に偏ったために、外交面を含め多面的な配慮が疎かにされた。高坂は接触はあったが、田中を高くは評価していなかった。
- 防衛計画の大綱には、拒否力という概念があるが、これは高坂の拒否能力理論に基づいている。ミリタリ・バランスの中でどちらも攻めにくい抵抗力が、緊張緩和時代の国防力保持の中心思想になる。三木内閣になって、防衛力は小規模の侵略に対処できる「拒否能力」があればよいとし、それをGNPの1%以内とした。数値は情勢により柔軟に対応すべきだが、GNP表現はGDP表現に変わったが、この1%がそのあともずっと今日まで「憲法」のように重くのしかかる。三木も学者を重用することはなかった。次の福田も同様だった。田中から福田までは安全保障政策には不熱心だった。
- 大平内閣になって総合安全保障という発想が顕在化する。アメリカのヘゲモニーが怪しくなった。責任分担による平和の時代に入ったのだから、日本は経済的利益だけを追求するのではなく、「国際システムの維持・強化に貢献するとともに、自助努力を強化することが必要」という高坂らの報告書が提出された。提出時は大平の逝去で鈴木内閣に変わっていた。アメリカでは日本の安保「ただ乗り」不満が高まっていた。日米韓の齟齬に対し、高坂らは日本側意識の歪み「安全保障の軍事的側面の軽視ないしは嫌悪」を指摘している。経済力、技術力だけの貢献では相手は満足しない。
- 第5章は「国際政治の地平と中曽根康弘内閣−文明論と「日本異質論」」である。私はあまり小説の類を読まない。ただ塩野七生は別だ。彼女の歴史物語は、たいていはたいそうな長編であるにもかかわらず、読んで飽きない。新潮文庫本で、「ローマ人の物語」は「ローマは一日にして成らず」から「ローマ世界の終焉」まで実に43分冊。「海の都の物語−ヴェネツィア共和国の一千年−」が6分冊、「ローマ亡き後の地中海世界−海賊、そして海軍−」が4分冊。単行本の「ギリシア人の物語」は3冊。その書評は各冊単位にこのHPに収めている。
- 塩野の著作に高坂との交流に触れた項があり、彼女が敬愛の念を持って高坂に接していたことが述べられている。私は高坂の「文明が衰亡するとき」は読んでいた。ローマやヴェネツィアの興亡の物語に、高坂の視点が影響していることは自ずと判った。「文明が衰亡するとき」は没後も購読が続き、今は57刷計20万部以上になったという。文明論は高坂のライフワークで、著作も多々発表されている。繁栄国は活動を広げすぎたあたりから嫌われ出す。典型がベニス人という。
- 日本経済がピークに達する頃、日米経済摩擦がホットになり、アメリカの「日本たたき」「日本異質論」が表面化する。「日本の成功に対するねたみの感情の作用は否定しえない。アメリカの対日批判のなかには、自らの怠慢を認める代わりに日本をスケープゴートにする傾きが認められる。」とした。アメリカが日本市場の閉鎖性を誇張して非難する背景として、「相手の異質の良さが人間には判らず、人は反発する」という文化的要因を指摘した。「やはり日本も衰弱していくでしょう」と座談会で高坂は述べているそうだ。
- 中曽根は、高坂が総合安全保障について執筆した報告書を丹念に読んでいた。高坂は、中曽根の私的諮問機関の平和問題研究会の座長になる。防衛費の1%枠突破は中曽根の強い意向であった。一方高坂の防衛計画の大綱をそのままとする方針は崩れなかった。ソ連のアフガニスタン侵攻というデタント気分を壊す事件を、一つの機会として、中曽根は手を付けたかったようだが、大綱は「慎重に見直す」として動かされなかった。高坂は佐藤内閣への協力は例外として、アカデミズムが本分という姿勢を崩さなかった。次ぎ次に研究会を立ち上げて行く。国際会議でも活躍している。昭和天皇が病床で、町では派手なネオンは自粛するようなときに、TVで「天皇は無用の用」と言ってのけた。
- 人となりについていろんな挿話が出ている。著者はゼミは違ったが同じ法学部だったので、包容力があり学生指導に熱心であった高坂を紹介している。高坂ゼミは人材を輩出した。彼(彼女)もかという名前が出てくる。山崎正和はマスメディアの時代評論にときおり顔を出す。私は彼が広い視野から深い議論をするので、気に入っている。彼が坂の同輩で、京都学派の一人に数えられていることは本書で初めて知った。
- TVのサンデープロジェクトは、司会が、かってお笑い芸人系として一世を風靡した島田紳助ほかで、高坂は都はるみとレギュラーコメンテータで出ていたという。主宰は田原総一郎だから硬派のテレポリティクスだったのだろう。田原は高坂を「羅針盤」と讃え、紳助は「学歴のない元不良少年を一人前に扱ってくれた」と感謝して、「本番中、私は高坂ゼミの生徒だった」と書いている。「ほんとうに頭のいい人は、頭の悪い人に、判るように説明できる」と看破しているが、私も同感だ。
- 第6章「冷戦終結から湾岸戦争へ−「道徳は朽ち果てる」」から終わりまでは一気に読んだ。第7章「日本は衰亡するのか−「人間の責任」」、終章「最後のメッセージ−四つの遺作」、あとがきと続く。
- 高坂は京大教授現役のままがんで死んだ。講演と博士論文審査のために2ヶ月手術を延ばした。大腸がんが肝臓に転移していて手術は一刻を争う状態だった。2ヶ月が延命に致命的な手遅れとなったとある。がん発見後4ヶ月で死去している。死の10日前に、やはり病床にあって動けぬ母親に電話で「先立つ不孝」を詫びている。死期を悟ってからは余人を近づけなかった。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」からの知識であったかどうか定かではないが、政宗もそうだったという。弱音を吐かず、鬱にも陥らず、親近者に囲まれた自宅での死だったという。私はあと1−2年は生きると家族に云っている。でもその時がきたら、平常の覚悟通りの死を迎えるかどうかあやしい。高坂の死にざまは他人事ではないのである。
- 高坂は中曽根以後の、ことに安全保障に関する政治家の劣化を憂いていた。湾岸戦争での日本の対応は、憲法九条を楯に戦費援助だけに終わった。拠出金が膨大であったのにもかかわらず、日本に対する評価は低かった。世界の安全保障問題に軍事力に応分の負担をしなければ、外交上の発言力は、いくら経済力を振りかざしても蟷螂の斧的である。野党も我が国の国際的立場からの議論を避けて、九条を金科玉条とする発想に凝り固まっている。「日本は追い詰められる前に手を打たなければ、二流半国家になる」という。安倍首相の今日の改憲指向を見たら高坂はどういうであろうか。
- 「もうマルクスは古い」と左翼学生運動が盛んであった時期に、滝川学長が彼らに云ったことを覚えている。滝川は戦前の京大(法学部)事件の当事者だった人だ。本書には、恩師の猪木は「(経済学部の教職員をマルクス経済学者が半数を占めていた)おかげで、京都大学の経済学部は取り返しの付かないほどの長期的打撃を受けた」と言ったとある。確かに今以てノーベル経済学賞が取れない。私は理系だから学内のマル経には影響を受けなかったが、経済の勉強は大内兵衛:「経済学」、岩波全書、'51から始めていた。大内がマル経学者だったことはあとで知った。資本論もヒイヒイ云いながら読むには読んだ。でもすぐ現実主義者に変わってしまう。中近世のドイツの話など聞かされても何もピンと来なかったのである。でもマル経に先に脱線しておいたことは、世界を見る目に決してマイナスではなかったと思っている。
- 死の直前に残した4つの遺作がある。真の遺稿は、書き下ろした「二一世紀の国際政治と安全保障の基本問題」だという。「静かな外交」と「ストレイト・トーク」を最後のメッセージとした。「シンボル操作」の重要性と限界を理解せよ。世界の大衆受けを狙うような印象操作ないしワード・ポリティクス(今に云うポピュリズムもその線上にあるのだろう)は、妥協困難を引き起こし、危機が深まると警告する。死を目前にした高坂の執筆ぶりを身近に見た人は、きっと鬼気迫る思いをしただろう。立派なものだ。
- 私にはもう専門がない。理系の悲しさで(高坂には、経済の発展の中で捉えているのかどうか知らないが、科学技術の底知れぬ発達に関する考察が少しも出て来ないことにものたりなさを感じる)、一旦研究現場(最後はそれでも教授だった)を離れたらもう日に日に後退し、先端を理解することすら困難になる。私は引退と同時に、始めから意識していたわけではないが、HPを持って、pseudo-essayistの道に転向したのは、相応しかったと思っている。私も高坂にならって、「あっち」に行く直前には、何か一言書かねばと思っている。
('18/11/17)