光抱く友よ
- 高樹のぶ子:「光抱く友よ」、新潮文庫、1987を読む。この作品は'84年に刊行され、作者はこの作品で同年芥川賞を受賞した。今年の文化功労者に高樹氏が選ばれ、毎日新聞の氏の短い紹介記事にこの本が挙がっていたので、本書を市の図書館より借りだした。著者は昭和21年生まれで、私が旧制中学に入学した年に生まれている。だから未来小説でないかぎり描かれた時代を私も通過しているから、物語の背景については感覚的に捉え易いだろう。
- 85pの短編小説だ。まずいつ頃に時代を設定しているか考えた。驚くほどとっかかりがない。主人公は高校2年の女子生徒だ。彼女の高校が現在から見れば変わっていて、男女共学なのに男女の校舎が別棟で、物語にも男子と女子生徒の交流の場はまったく出て来ない。教室すら男女を分離しているようだった。主人公は進学希望であるが、洋裁の時間がある。だから、新制になって間もない時代だなと思った。もう一つの淡い手掛かりは、「友」の言葉遣いである。その友が自身の母親を、主人公には「母親」「あのひと」と云うが、主人公の父には初対面の時に「母」という。
- 最近のTVでタレントがインタビューなどのとき自身の両親をお父さん、お母さんと呼ぶ場面を再々見る。父とか母と云うケースはむしろ少数派だ。私ら年代は、幼いときから他人に肉親を紹介するときに、「お」とか「さん」とかの敬称を付けてはならぬと、教え込まれ身につけてきた。「お」とか「さん」を付けるタレントを見ると、ぶしつけに感じ、ついつい彼らの育ちとか教養のレベルを考えてしまう。この小説の「友」は、あとに紹介するように、少なくとも外見には悪い環境に育ち生活する不良少女だ。出席日数不足で1年留年して主人公と同級生になった。その生徒が言葉を間違えなかった。私年齢のヒトの敬称法は、私から数えてまああと10年は、普遍的な言葉の用法として残っていただろう。そんなことで、私には昭和30年代の物語のように思えた。
- 場所を考えた。中国地方と書いてある。アメリカ軍兵士が身近にいる。つまり米軍基地がある。ニシがとれる河口に住んでいる。ニシは瀬戸内海で獲れる一枚貝で土地の珍味になっている。これらは舞台が岩国市であることを示す。吉川氏の城下町で、錦帯橋で有名だ。出掛けたことがある(「春のクルーズV」('11))から、雰囲気をそこそこに想像できる。
- 作者は山口県防府市の出身だから、或いはなじみ深い書きやすい土地だったのかも知れない。主人公は旧市街側だが、友は海岸埋め立て地側に居住しているようだ。主人公の独白や友とその母親が使う言葉は関西弁であることは判るが、岩国あたりかどうかまでは判らなかった。Wikipediaで山口弁を牽いてみた。長州藩とその支藩支配の一帯は方言として纏まりが良いが、西に行くと北九州の影響があるし、東では愛媛あたりの言葉が混じっているという。私は愛媛にも北九州にもいたから、違和感のない言葉と受け止めることが出来る。
- 小説の母親は場末で小さな飲み屋を経営する女将だ。始終飲んだくれていてアルコール中毒に近い状態で生きている。おまけに男にはだらしがない。飲み屋の2階で生活する友はその娘で、父は2歳のとき母を捨てたという。母に繋がる男共は、この母にしてこの娘ありという。母がもっとも恨み嫌うのは、娘を捨ててアメリカに戻った米国兵だが、娘には、賭けるゼニがなくなると彼女を出すという男友達もいる。母親とのいざこざは絶え間なく起こり、そのための生傷も身体に残している。一月に一度の割りで家出をしていたことがあった。いがみ合いながらも互いに相手を捨てきれず、外に対しては共同戦線を張っている。友は、主人公に対しても、母親の真実の姿を絶対に見られたくない。
- 主人公と友との交遊は、2年生であった1年間だけの短いものだった。友とその母親とのもつれた愛憎関係が友情のスタート点になり、終焉をも引き起こす。この愛憎の重さが、芽を吹き出した友情をまるで三日麻疹ほどの軽さに押しやってしまう。
- 担任の教師はアメリカ帰りのイケメンで、女子生徒憧れのヒトだった。ある日学業不良の友はその担任にこぴっどく叱られ、担任としての母親宛の手紙への返事を要求される。その口汚く罵られる現場を垣間見た主人公は、そのときの不貞不貞しさにえらく関心を抱き近寄る。それが友達付き合いの始まりだった。友は学校では悪評紛々のヒトで、寄りつく生徒のいないでも昂然としている孤高のヒトだった。友は母の詫び状の代筆を頼む。母は自筆したのだが、ミミズののたくったような字だったために、イケメン担任は偽書として受け付けなかったのだった。
- 主人公は友の家に上がり、母親の救いようのない生の姿を見聞する。主人公は友をわが家に招待した。父は大学教授で、両親揃った中流以上の家庭であった。主人公なりに心のこもった接待だったが、埋まらない距離を感じる。友はそれを乗り越えようとはしない。何か心に忸怩たる思いが隠れている雰囲気である。
- 交際の終わりは土手の桜が咲くお花見の時に起こった。錦帯橋あたりの桜の名所を想定しているのだろうか。主人公が一人で花見に遠出したとき、友の母親と取り巻きの男共の宴席にぶつかり、その席に引き込まれて酒を強引に飲まされる。母親は主人公に学校のスパイだろうと絡む。娘に向けられる学校の目を知っている。防戦一方の主人公は問い詰められて、友の弁護のためについに担任に渡った手紙の件に触れる。母親を連れ戻しにきた友は、母の絡みぶりと酒席での醜態ぶりに、もっとも覗かれたくない秘密を知られたと察知して、主人公に「友情はそれまで」の合図を送った。
- 石坂洋次郎原作、西河克己監督、石原裕次郎主演の映画:「若い人」、日活、'62を見たことがある。(「若い人」は映画に、TVドラマに何度もリメークされた。)似たような母娘が出ていた。娘を吉永小百合が演じた。波止場町の飲み屋の母娘で、母は飲んだくれては男を引き入れていた。でも娘は、学校では、いくぶん早熟ではあるが清純で、成績は良いがひねくれた小生意気な態度を、なんとかしてやりたいと先生方に思わせていた。本書の友のように先生にも学友にも見放され敬遠されているというものと異なり、石坂文学の特徴でもあろうが、救いが期待できるような映画になっていた。
- 私は曖昧な表現がきらいである。この小説はしっかりした日本語で書かれている。外国語に翻訳したら何通りにもなり、中には反対の意味に取られていたものがあったというような文章がない。我らを取り巻くシチュエーションは時とともに場所とともに変わってゆくが、愛憎とか(女の)友情の問題は、心に占める重要度には少々の変化があっても、かなり本質的なものであろう。作者の切り口はなかなか見事である。
- この文庫本は、「揺れる髪」と「春まだ浅く」の2編をも収録している。どちらも「光抱く友よ」よりさらに短編である。時間があったら読んでみよう。
('18/11/03)