西ボルネオ紀行
- 小倉清太郎:「ボルネオ紀行〜その生活と資源を探る〜」、畝傍書房、1941を読む。幼いときに父の書棚に見つけ読んだ記憶のある本だ。その本はとうに行方不明になったままだが、題名を覚えていたので検索したら、あちこちの図書館に所蔵されていた。でも近所ではないし、たいていは貸し出しして貰えぬ本になっている。アマゾンに古本の出品があったので、それを買った。大戦直前出版の本で、紙は黄変しているし、装幀もやり直してあるが、ぼろぼろだ。よく残っていたと感謝。
- このHPには「北ボルネオ紀行」('18)があり、それに今頃私がボルネオの地誌に興味を持つ理由を書いている。来年に寄港予定があるからだ。「北ボルネオ紀行」はボルネオ島北東部の奥地を紹介したが、この「西ボルネオ紀行」は、ボルネオ島西端のオランダ領のコプアース河流域で、首狩蛮族と恐れられていたダイヤ族と奥地で約50日間起居を共にした3人の日本人の記録になっている。「北ボルネオ(註:英領だった)紀行」より9年前の昭和8年の探検だ。未開発状態のままという意味では殆ど同じ時期の探検で、両者は比較しやすかろう。
- 著者は産婦人科医院を開業しながら、アルカロイドことに矢毒の研究を継続していた。あとの2人の内の1人は同種の研究の薬理学者で、すでに同じ地域に2年の現地調査を経験している。残り1人がカメラマンで、本書の幾葉かの現地の写真は、彼によるものだろう。学術記録映画「バンサ」は、全国で後には外国でも公開されるが、撮影の主役である。「北ボルネオ紀行」には写真が載らなかったから、当時のボルネオ現地を知る資料として貴重である。
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- 堂々の学術探検隊の筈だった。だがバタビア(インドネシアの首都ジャカルタ(ジャワ島)のオランダ植民地時代の名称)の領事館に助けられるまで、税関史に痛めつけられる。缶詰の中味を見せろとか、生フィルムを引き出して検査するとか、何時間経っても通関しない。当時の日本人エリートは、袖の下などもってのほかで、正面交渉一本槍だったのだろう。日中戦争勃発、アジア各国の民族意識の高揚などで、ボルネオも決して平穏な社会ではなかった。現地の具体的な反抗闘争が載っている。
- 黄濁したコプアース河を川蒸気で遡上する。燃料は木材。部落に着くたびに山のように薪を積み込むが、たいそうな時間が掛かる。川上を目指すためにモーターボート1艘を曳航する。川幅はあっても浅い川で、水夫がときおり水深を計りながら遡る。そんなときは自転車の1/3ぐらいの速度7km/hでしか進まない。河口から直線距離250kmほどのシンタンで川蒸気を降り、そこの酋長(王)に謁見する。オランダは過去の支配体制を植民地支配体制に取り込むため、実権を取り上げた上で酋長の権威を温存した。政治には参加できないが、税金の徴収と民事裁判権を持つ。親日的な酋長のおかげで探検隊は支配域での活動の自由を確保する。
- さらに1日遡ったビンタスを探検基地とする。原住民ダイヤ族の高床掘立小屋1軒を借用する。狭隘で3人が蚊帳の中でやっと寝れる程度とある。家は川中にあり、床の簀の子下にワニが顔を出す。排便は要注意だ。簀の子から懐中電灯を落としたときは大騒ぎだった。ワニをものともせずに潜った原住民ダイバーが青くなって浮き出た。「水中でカンデラが燃えている。あれは魔物だ」と。呪術師のお呪いを貰って、やっと懐中電灯が回収された。
- 首狩り蛮族として有名なダイヤ族の真っ直中である。オランダ政庁が禁止しているとはいえ、いつ寝首を?かれるか解らない。初日は戦々恐々で眠れなかったという。探検隊は小銃もピストルも携行していない。だが探検は住民の積極的協力で順調だった。首狩り蛮族最高の機密:矢毒原液も1斗缶3個分も採集できた。ほか貴重な動植物の蒐集も手広くやれた。
- その最大の理由は著者が医師だったからだ。行李いっぱいの医薬品を持参していて、惜しみもなく原住民患者に投与したという。即効性の西洋医薬がたちまちに患者を甦らせるケースが出る。著者は最高級の魔法使として原住民に迎えられ、探検業務から戻ってくると、門前には30−40人の患者が、犇めいて帰りを待ち焦がれているという状況だった。原住民の魔法使または祈祷師の施術は、すべて一種の精神療法だと看破している。
- ダイヤ族の武器は刀、槍、吹き矢となっている。弓はないのが特異だ。フィリピンのコロン島で観光土産店を覗いた時、槍と楯はあっても弓矢の飛び道具がないことを記録している(「悠久のオリエンタルクルーズZ」('18))。この地域では弓は発達しなかったのだろう。火縄銃はあるが政府が厳重に管理している。ダイヤ族の1間半(2.73m)の吹き筒から矢毒を塗った吹き矢を飛ばす。吹き筒は槍にもなる。10〜15間は飛ぶという。著者は矢毒の効用〜血管から入ると猛毒だが消化器からでは分解されて毒にならない〜から、矢毒が南米原住民が使うクラーレと同等のものと見当を付けている。でもWikipediaのクラーレを見ると、ボルネオ原住民には触れていなかった。
- 小倉清太郎博士の発見と研究は埋もれてしまったのだろうか。持ち帰った原液の研究は進んでいた。しかし研究内容も原液も某機関に全て供出され、論文は発表にならなかったようだ。お国のために喜んで提供したという意味の言葉がある。
- オランダ政府の人頭税は16才からだが、ダイヤ族は暦を持たぬ。推定年齢は頭の周りを紐で計り、身体とバランスがとれているかどうかで決める。太陽などの天体の動き、生活の周期〜食事から家の建て替えまで〜、植物の成長時間、焼畑の回数などが時計代わりだ。距離も曖昧そのもの。荷を担いで何回休むぐらいの距離と表現する。重い荷物の時は10丁ほどで1回休む。鶏の声が届く距離というのもある。身体と相対的な長さの場合は、小指1本といった具合らしい。倍数表現を加えてなんとか用を足す。
- 奥地探訪の頃は、首狩り事件がオランダ軍の出動で終息してしばらくのちだった。鉱山に雇われていたダイヤ族1部族の若者9人が故郷に戻る。家族への土産は買い入れたが、何か物足りない。宿に彼ら以外に丁度9人いた。その首を土産にしようと一決。それが種族間戦争の火元になった。昔は勝ち取った髑髏を家に誇らしげに飾っていた。彼らは2種の山刀を持つ。日常使用する刀のほかに、首斬刀があって、今も祭りともなればそれを引っ提げて酔い狂う。戦いの時は勇士は編篭を背負って行く。戻るときには敵の髑髏がその篭に入っていた。
- 主食である米の出来不出来が地域の治安に大きく影響する。種族間の紛争は米の不作で飢餓状況が訪れると起こりやすい。五穀豊穣、悪魔除けの祭りは真剣である。生け贄の豚が引き出され村長が一刀のもとに刺し殺す。昔は人身御供だったとある。滴り落ちる血で米作りの豊凶を占う。大皿の血を祭壇の中央に据え、部落全員が身体の各所に血を塗りたくる。著者も郷に入れば郷に従えで、血を塗った。日本人は祖先が同じだからオランダ人とは違うと評判になったとある。祭りの最後に、小さな筏に供物を載せて流す。日本の精霊流しとそっくりだとある。
- 血は神聖と言う信仰がある。裁きが付かぬ訴訟の判決を闘鶏で決める。結婚式では新郎新婦の前で媒酌の老婆が鶏を逆さに三度振って刺し、その血で新夫妻の顔を点彩するとある。結婚は早婚で、12才の花嫁と16才の花婿の式に立ち会っている。持参金は籾。結婚吉日があり、親同士の話し合いで相手が決まる。死人が部落で出ると式は延期するといったタブーが色々ある。日本にも色々あった。「男はつらいよ」の最終作「寅次郎紅の花」で、津山に、花嫁をバックさせてはならぬという風習が残っていて、寅さんの甥っ子が結婚妨害に悪用する挿話がある。ダイヤ族では花嫁行列には動物を屠った場所は忌みどころだ。
- ダイヤ族は高床(高さ3−4m)掘っ立て住居に10−100家族が集団生活をしている。各戸10畳ぐらいで3部屋。中央に作業場兼用の通路と集会所があり、それとは別個に応接空間。普通は個人住宅はないらしい。長さは100−200mと長大で1部落民全員を収容するらしい。釘を使わず籐葛で木材を縛って建築する。20年持つ。取り外し可能な、丸太に階段を刻み込んだ梯子で室内に入る。床は簀の子、屋根は木の葉で葺いている。青森の三内丸山縄文遺跡に行くと、一般個人住居跡と見られる竪穴式住居跡に混じって、大型竪穴式住居跡がいくつもある。最大の長さ32メートル、幅10メートルと云うものが復元されている。それは集会所専用らしかった。
- 「密林の奧の猟奇」という章に、さらに密林を分け入った奥地に、人とも類人猿とも区別が付かぬ原始部族がいて、獰猛この上もないとダイヤ族さえ恐れているという話が出ている。探検隊は真偽のほどを確かめることは出来なかった。塩野七生の「ローマ人の物語」のどこかに、ローマ人と国境を接するゲルマン人から伝わった話として、ゲルマン人の居住地の更なる奥地に獰猛野蛮人がいて、ゲルマン人を脅かしているという話が出ている。これは単なる噂でなかったことが歴史的に明らかになる。
- このHPの「1.3万年の人類史T」('16)に、東南アジアからポリネシアに至る一帯の民族移動について記載している。本書はダイヤ族の言語学的検討はやっていないが、ダイヤ族はきっとオーストロネシア語族(先住民)である。ボルネオ語、マレー語、それに驚くなかれマダカスカル語もオーストロネシア語に入る。ひょっとしたら本書の奥地蛮族は、私が先々住民と書く、5万年前頃から、オーストロネシア語族(BC3500年頃から移動)に先立って移住していた民族ではないか。先々住民系民族は、今はニューギニア奥地に、何処の世界の語族にも属さぬ民族として生き続けている。
('18/09/02)