フィリピンの歴史

鈴木静夫:「物語 フィリピンの歴史〜「盗まれた楽園」と抵抗の500年〜」、中公新書、'97を読む。このHPには「フィリッピン」('17)があって、荒掴みの歴史も書いている。でも本書の「抵抗史観」の歴史が、どう展開するかには別の関心があった。「悠久のオリエンタルクルーズZ」('18)には、私のコロン島とマニラの訪問記を載せている。来年にはセブ島ほかを訪れるはずだ。イロイロの民族舞踊フェスティバルは楽しみだ。この本が私のフィリピン理解を嵩上げしてくれればいいと思う。
1521年マゼランがセブ島に上陸する。フィリピン史はカトリック修道士により、征服者側からの文字になった。フィリピンは教皇のお墨付きの定義(原住民が裸で暮らす野蛮人で、原始宗教の異教徒)に当てはまっているとして、スペイン植民地と公認された。それまでを先スペイン期としているが、いたって断片的にしか解っていない。文字が失われた(中米同様に悪魔の文字として宣教師に根絶された)からだ。でも銅板碑文が発見され、サンスクリット系の文字で、AD900年の古代タガログ語かそれに近い古代マレー語が記載されていた。統治制度のある国家の存在が推測された。
スペインが来た頃はフィリピンという民族意識とか国家意識はなく、部族が複雑に全土を割拠していた。スペインは容赦のない武力制圧で、原住民を隷属化し苛酷に奴隷化した。人口は何10万のオーダーであったようだ。マニラは1570年に陥落した。その頃のマニラはブルネイのイスラム王国の支配下にあった。大砲を備えた要塞になっていた。今もミンダナオ島はイスラム圏だが、当時は全国的にイスラム教が浸透していた。マゼランが上陸し改宗させたセブ島もイスラム圏であった。
スペインは原住民にエンコミエンダ制(荘園制に似る)を持ち込み、植民地支配の基本とする。園主は支配力絶大で、国王並みの絶対権力を振るえた。暴走で住民を苦しめる場合が多く、是正に立ち上がった司教もあった。フィリピンでは政教一致時代が続く。カトリック教会は広大な土地と多くの労働力を支配下に入れ、多大の利益を獲得する。半世襲制だった。
マニラは植民地の拠点になっていった。ガレオン貿易が多大の利益をスペイン人にもたらす。中国の主として絹製品をメキシコ経由で本国に運び、戻り船はヨーロッパ製品を運ぶ。ガレオン船は700−2000トンの大型帆船で、太平洋を年に一度往復する。度々難破したと云うから決死の航海だが、成功すると莫大な富に預かるから、人々は争って船の積荷区画を買う。積み過ぎで沈没した船もあるという。ゴールドラッシュに似た雰囲気があったのだろう。
船長や乗組員も持ち分が貰えて貿易に精を出した。「ミレニアムで行った長崎 」('17)にミュージアム出島和蘭商館跡の見学記を載せているが、船員たちの持ち込む貿易も半端じゃなかったことがミュージアムで説明されていた。教会もガレオン貿易に積極的に参加していた。「司教から末端の僧に至るまで、最も優れた商人であった」という総督の言葉が残っているそうだ。
原住民は労働力提供だけだった。スペイン人は、フィリッピンの経済発展に継続的な興味を示さなかった。屋内工業や製造業、人材育成には見向きもしなかった。アメリカもそれを引き継ぎ、植民地の特徴である単一産品生産経済を押しつける。日本の朝鮮、台湾に対する姿勢が、同じ植民地化であっても、まったく違っていたことに留意したい。ことに朝鮮人にはしっかり認識して欲しいと思う。
スペインの政教一致は、15世紀末のレコンキスタで陥落したグラナダの教会保護権を教皇から獲得したことから始まる。フィリピンでは国王は派遣スペイン人修道士の経費を負担し、聖職者は見返りに新領土の貢税徴収の監督と、行政末端の責任を負う。しかしスペインの財政は豊かでなかった。占領地原住民からの収奪は、自活自営のため当然の権利で、総督以下の官吏も修道士も「儲け」に聡くならざるを得なかった。修道会は広大な土地と原住民を支配する。原住民は、貢税・奴隷化・強制労働の三重苦に苦しむことになる。しかも修道士たちは野蛮人に対する霊的主権を主張する。
スペインの本格的進出から20年も経つと、各地で反乱が起きる。スペイン占領下の333年の間に100回はあったという。いずれも反乱軍が鎮圧されている。鎮圧が簡単でなかった大反乱は3回で、うち2回は原住民キリスト教信徒の抗議といった形であった。あとの1回は英軍の侵攻に合わせた、修道士に育てられた孤児を中心とする反抗であった。スペイン排斥の火の手が、原住民宗教関係者から上がっていることは注目してよい事実である。原住民には高等教育を施さなかったから、キリスト教が唯一の統一的精神的支柱になったのであろう。
200年も経つと、在俗司教のフィリッピン化が進む。政府の支持があって、スペイン人でないフィリッピン生まれの白人、メスティーソ(混血児)、原住民が在俗司教になって行く。これが結局はフィリッピン政治のフィリッピン化をもたらす。直接の紛争の種は修道司教(スペイン人)と在俗司教の教会争奪戦だったという。300年経過の頃には原住民側に「フィリピン人」を自覚する動きが出ている。メスティーソという人種階級の存在は、「悠久のオリエンタルクルーズ」('18)の訪問先の各所で知った。フィリピンに限らず、今後この人種がどのような道を歩むのか関心は深い。
メスティーソには白人−原住民の混血と中国人−原住民の混血の2系列があり、後者がフィリピン独立に大いに貢献する。戦中だったが、私の父は台湾に長期出張した頃があった。帰国後、小学校だと思うが、本州人に比べて台湾「同胞」の子弟は、能力的に見劣りしない学業成績を収めていたと云っていた。中国系は伝統的に商才に恵まれ、成熟した社会機構を知っていた。
絹製品のガレオン貿易で重要な一角を握った中国系は、原住民社会に溶け込み、社会の仕組みのあらゆる面で有能ぶりを発揮し、権力の手先であるスペイン修道士から脅威と感じられるようになった。反乱名目で60年に3度も掣肘を加えている。第1回では2.2万人の中国系で生き残ったのは800人と書いてある。中国系からは、原住民の3倍の貢税を取るなどという、人種差別政策も実行している。
渋々解放した高等教育機関に、スペイン語のハンデを乗り越えて、優秀な現地生まれが入学し、それがスペイン本土に留学、ヨーロッパの社会制度に開眼し、フィリピンの非人間的環境を論理を尽くして訴える。留学は大半が中国系メスティーソだった。その中でホセ・リサール(1861〜1896銃殺)は際だった革命思想家で、改革独立への道を切り開いた。秘密結社:フリーメーソンからの支援も重要だったらしい。
リサールは穏健で現実的だったが、後に続いた指導者たちは、もう武力革命を否定しなかった。貧弱な武力だからスペイン軍に追い詰められて行く。だがスペインはキューバ革命と重なり、軍事力は弱小化し消耗戦に耐えられなかった。一旦は憲法発布まで行ったアギナルト指揮の革命軍と講和する。革命軍は無罪条件で解散され、革命軍幹部は40万ペソ(約20万ドル)を貰って香港に脱出する。
アメリカの国盗り作戦が始まる。まずマニラ湾のスペイン艦隊を米国艦隊が殲滅する。アギナルトに、当局高官はフィリピン独立の餌を見せつけて、上陸共同作戦に参加させる。陸上戦での民衆慰撫策に役立たせるぐらいのつもりであったのだろう。スペイン総督は見せかけの空戦争をして名誉ある降伏をする。マニラを占領したのはアメリカ軍で、アギナルトのフィリピン軍はマニラから排除される。
米国とスペインの講和条約(1898年)により、フィリピンは2000万ドルでアメリカに売り渡され、その植民地になる。二枚舌外交の典型で、「独立」は反古にされた。アギナルトは執拗に文書化を要求していたが、最後まで叶えられなかった。同年フィリピン独立宣言。やがて両軍の関係が険悪になる。
対米戦(フィリピン戦争)が始まる。独立派は次第に山岳地帯へ押し込められ最後は逮捕された。中産階級、地主階級、エリート層などを中心に容米現実派が勢力を増す。紆余曲折の末、自治領政府と議会が発足する。議会と云っても、国民の2%ほどにしかならない高額納税者のみが投票権をもつ選挙で選ばれた議員で構成された議会であった。公共教育は英語使用になる。米国植民地化後20年を経た頃には、政府も議会も英語を公用語的に使用するようになった。
対米貿易の高利潤を狙って農地は換金性作物中心に変化する。地主はマニラに移転し、代理人が小作を絞る体制に変化する。スペイン時代には、地主は家の子郎党として小作を保護し、小作は地主に全面的に従う場合が多かったが、この体制にヒビが入った。もはや不作困窮時の小作に救済の手を打つようなことはしない。不満爆発に備えて農園は私兵を置くようになる。農民運動が新たな保護体制を求めて活発になる。たちまちに非合法化されるが、国際コミンテルンに対応した共産党が誕生し、社会党も旗揚げする。日本の南下が迫ると、彼らは抗日戦線結成と、反共の看板を下ろした政府筋の反ファシズム統一戦線への参加に一致する。
太平洋戦争開始後の日本軍の進撃は早かった。100機からの米軍機が制圧され、米軍はコレヒドール要塞に立てこもるが、総攻撃で陥落。日本軍にとって計算外であったのは、多数のフィリッピン軍と原住民が要塞にいたことだったという。日本軍は捕虜たちをマニラまでの60kmを歩かせる。その間熱中症その他に倒れるもの多数。バターン半島の死の行進として、時の指揮官山下中将の死刑の理由になる。
日本軍占領2年後の'43年に、フィリピンはラウレルを大統領として「傀儡的」存在ではあったにせよ、念願の独立を果たし、大東亜共栄圏の一員となった。マゼラン上陸以来420余年を経過していた。連合軍に対する宣戦布告は、翌年に「戦争状態に入る」という表現で行った。できる限りにマイルドな表現を選んだのは、フィリピンの複雑な歴史事情と、内政事情によるものであろう。
原住民には日本軍に協力したものもいたが、殆どが親米反日だった。もっとも強力だったのは共産系の抗日人民軍(フク団)で、'42年には完全武装兵力1.5万人、最大2万人の常備軍を持っていたという。中部ルソンがフク団領になった。戦果は明らかでないが3万以上の日本兵を倒したとも云われる。米政府、自治領政府とも活動を黙認していた。反ファシスト優先で、米軍上陸までという理解であったのあろう。フク団と重複して民政的役割を担ったのが村落統一防衛隊であった。
米軍の息の掛かった米比軍ゲリラも有力で、意を戴して、時にはフク団に槍を入れるような活動もした。独立系?ゲリラは、日本の敗色が増すとともに急激に増加する。ゲリラを称する盗賊団も数多く出たし、支配地をめぐるゲリラ集団同士の戦いも各所で起こった。マッカーサーはゲリラに待機命令を出す。フク団は従った形跡がない。日本降伏後の米国の支配体制を確立するためには、マニラ奪取は、アメリカ軍がやらなければならなかった。またしてもフィリピン人は、自分の手で外国勢力を追い払う機会を見のがした。
フク団はルソン島中部農民に根を下ろしていた。米軍は彼らに敵意をむき出しにする。フク団の標的だった対日協力者が中央の政治に迎入れられる。フク団よりであった左翼政治家は逮捕投獄されるが、農民の大デモが組織され、やがて出獄する。フィリピン議会は、アメリカの「フィリピン戦災復興法」による復興支援と引き替えに(フィリピンをアメリカ市場依存型にする)「ベル通商法」を承認し、必要な憲法修正(アメリカ人の内国民待遇)のために、左翼系議員議席剥奪の挙に出る。
フィリピンは'46年に米国からの独立(第三共和国体制)を果たす。'34年に米比両議会から承認されたTM法案は、フィリピンの独立を'46年と定めていた。米国は約定を守った。初代大統領には戦中は対日協力派であったロハスが選ばれた。ラウレルにせよキリノ(第2代大統領)にせよ、対日協力者が独立間もなしのフィリピン政界の一方の旗頭となって牽引する。途方もない復活の魔術がどんな政治力学から生まれたのか、他国では起こらなかった話しとして興味深い。
本書の年表はラモス大統領が就任する'92年で終わっている。'89年にアキノ大統領の国軍改革派クーデター未遂事件に対応した国家非常事態宣言があり、'91年にはピナツボ火山噴火が米軍基地を使用不能にし、ついに米軍が撤退する。本書を通じて、フィリピン政治が、自治領時代も独立時代も、大統領を中心に語られることに新鮮味を感じる。
ハワイで客死せねばならなかったマルコス大統領のような強権派も出現するし、対日協力者でありながらフク団へのアプローチに努めるロハス大統領もいた。ドゥテルテ現大統領の容赦ない麻薬撲滅戦争もきわめて個性的である。民主主義を母体としながら、時には乱暴極まる個性的政策を発揮できる大統領制は、ポピュリズムに肯定的な大衆の持つ政治体制としてうまく機能させれば、誰も責任を負わずに、後追い的にだらだら進む我らの制度よりも優れた一面を持っている。

('18/08/17)