
- 成東町に城址公園がある。海岸側が崖の、空堀と土塁に囲まれた、さほど広くはない四角い平地が南北に二カ所繋がっている。空堀が二重になっているやや狭い北の方が本丸、他方が二の丸と推定されている。
- 千葉氏の勢力圏に入る前からあった豪族の城で、室町戦国時代の城郭遺構であると立て看板は説明していた。千葉氏は頼朝旗揚げ以来の名門であったが、小田原の北条氏と共に滅亡している。家康の頃は城として現役であったと思われるが、やがて忘れ去られる。
- 千葉地方史の書物をめくっても成東城の記事は全く出てこない。10年ほど前に出た、名は忘れたが高校教師の研究会が出版した、遺跡総記にも、近くの土気城址は記載されているのに、成東城址はない。はっきりした遺跡だから気付かぬはずはない。よほどローカルな存在だったのであろう。
- 同じ中世の城でも、兵庫県の生駒銀山の北にある竹田城は、誠に壮大な石垣の山城であった。山の尾根に沿って何段にも石積みされた区画が並び、最高部に天守閣がある。建造物は一切残っていないが、山名一族の覇権に対する意欲を窺わせる偉容を備えていた。中腹の駐車場までの道が細く険しくて運転にふうふう云い、駐車場からの登山道も生憎湿っていて楽ではなかった。近世の名城の手本である。
- 関東は江戸城、小田原城を除くと石垣に乏しい土塁による城ばかりである。それと明治維新の時に全域が賊軍になったのが祟ったためか、破壊が激しかった。ことに平地の川越城、忍城、関宿城、古河城などは、わずかに土塁のごく一部を残すのみと云った遺跡である。敗者を人々の記憶から抹殺すべく、遺物を破壊するのは勝者の常だが、関東型土塁式城址の完全な奴を一つでいいから残して欲しかった。成東城などが発達した終局の姿であろうから。佐倉城がやや面影を残す程度で、残念なことである。
- 成東町は九十九里浜に面した小さな外房の町である。しかし開発の手はこの町にも及んでいる。今は住宅街になったお城近くに、昔は砦や空堀などの付属的な遺跡が残っていたという。本丸二の丸も開発軍に落城する寸前に、市が公園化したのであろう。崖側はギリギリまで削られ土が露出していた。城址公園からは古い成東町の全景が眺望できる。旧市街はコンクリートの建物も屋根を傾斜させ、周囲との調和に気を使っている。一度訪れて良い場所である。
('98/01/21)