ギリシア人の物語Vその2

ペルシャが本気で立ち向かった「イッソスの会戦」は11月だった。ダリウスが率いたペルシャ軍は15万を下らないのに対し、アレキサンダー軍は3万を切っていた。戦場を選べたダリウスが大軍に相応しい大平原ではなく、海と丘陵に挟まれた3km平方程度のイッサスを選んだことを、著者は不思議がる。イッサスは今はシリアが国境を接するキプロス北東にある、トルコ領の地中海沿岸からそう遠くない小さな町であったようだ。
両脇騎兵で、中央が歩兵。同じ陣形だがマケドニア軍の歩兵は1列のみ、ペルシャ軍は4列。その最前列が2万はいたというギリシャ傭兵、次が近衛軍団、第3,4列が地方の軍団部族の軍勢だった。ダリウスは近衛軍に守られて布陣した。アレキサンダーは右翼の最先端で騎兵を牽きいて、ダリウスの騎兵を追い払い、中央に迂回してペルシャの歩兵陣を圧迫、ついに恐怖状態に陥ったダリウスが、引き連れてきた母、妻を含む後宮の女どもも顧みずに一目散に戦場離脱する。ペルシャ側の損害は歩兵10万、騎兵1万だったという。対するマケドニア軍の損失は戦死450人だった。
ギリシャ傭兵はスパルタ重装兵士が主力のカブトムシ軍団だった。でもマケドニアの長槍ハリネズミ兵団には勝てなかった。この本と並行して、古いフランス映画「モロッコ」と「外人部隊」を見た。モロッコの匪賊相手の戦闘を繰り広げる外人部隊を舞台とする恋愛映画であるが、外人(傭兵)部隊の雰囲気は出ていた。アレキサンダーまでは天下に名高いスパルタ・ブランドであったが、大王に忠誠を心底からは誓っていない傭兵身分の軍団を、主戦場の最先端に置くことがそもそもの敗因だったのかも知れない。傭兵は匪賊相手程度の補助軍であるべきだった。
イッソスの次が、フェニキア海軍の根拠地のティロスだった。全島が城壁に囲まれたティロス新市街には攻防に手間取ったが、ギリシャのあらゆる軍船を掻き集めたアレキサンダーは、8千を殺し、残った男女全てを奴隷として売り捌いて終わった。次が「ガザ攻防戦」。イスラエル対パレスチナの戦場として、今もホットな地域である。
エジプトの領有は、ペルシャの支配に常に不満を抱いていたエジプト人が、平和裏に解放者として迎え入れることでスムースに進行した。アレキサンダーは、新たな占領地の行政事務は、在来ペルシャ勢力に、防衛業務はマケドニア人に、税の徴収等の財政事務は、マケドニア人以外のギリシャ人にと、今までは地方長官や部族長に集中していた権限を3分割した。
エジプトが歓迎した理由に、ペルシャがゾロアスター教なる一神教であったのに対し、エジプトの神々は多神教の神であったことを上げている。アレキサンダーは、これから各地に建設されるアレキサンドリアの最初の新都市をナイル河畔に建設する。年まだ24才。アレキサンドリア名の都市は25〜70に及ぶという。新都市が25、改名拡大が70らしい。
ダリウスは決戦場にチグリス中上流にあたるガウガメラを選んだ。メソポタミア平原ではあるが、ペルシャ繁栄の基盤都市バビロンや首都のスーザからは遠く離れていた。ダリウス軍は20万を超える歩兵、4万に迫る騎兵に、200を数える鎌付き戦車と15頭の象が参加する総勢25万の陣容だった。鎌付き戦車は映画「ベン・ハー」に出てくるようなちゃちな品物ではないという。アレキサンダーは七人の侍よろしく、1台づつ通しては馬に投げ槍や矢を浴びせ、御者と兵士を引きずり出して殺す。象は、ローマ対カルタゴ戦でもそうだったが、戦力にはならずかえって自陣で暴れる困りものだった。アレキサンダー軍は4万の歩兵と8千弱の騎兵。数の上では1:5だった。
「ガウガメラの会戦」でダリウスが惨敗した理由は、「手足のごとく軍を駆使した」アレキサンダー25才と駆使出来なかったダリウス49才の差だと著者は云う。バビロン、スーザは無血開城だった。アケメネス王朝が古都バビロンの向こうを張って贅を尽くして建設したベルセポリスも落城した。王宮は炎上した。ペルシャ帝国滅亡の象徴としてアレキサンダーが火をつけさせたという。
ギリシャ都市の中で唯一アレキサンダーに服さなかったスパルタが滅亡する。ダリウスは中央アジアのカピス海沿岸まで逃げる。同行の地方長官3名はダリウスを剣で突き刺し草むらに捨てて逃亡し、ペルシャ帝国は終わる。王の遺体は相応しい姿でスーザに戻っていた母后に送り返された。まず地方長官の1人が捕らえられ、反逆罪をペルシャの法で裁かれ死刑になる。
27才が近づいたBC329年、残り2人の追撃と重なる東征が再開された。カンダハル(アフガニスタン)、カブール(アフガニスタン)、サマルカンド(ウズベキスタン)と征服して、軍はインダス河上流のヒダスベス河へ進む。そこはもうインド王ポロスの領土であった。アレキサンダー最後の大会戦は、巨像に乗って陣頭指揮するポロスとの戦だった。両軍陣容はややインド軍が多い程度でまずは伯仲していた。戦いでインド軍は大敗したが、ギリシャ軍もかなりの損傷を受けた。負傷し捕らえられたポロスは、王の威厳を備えていた。マケドニアからの兵士はこれ以上の東征を拒否する。これまでにもアレキサンダーの独裁に対して反抗する事件はあったが、会戦直後の兵士の姿勢は、インド征服をついに断念させるものだった。その後の攻城戦で、アレキサンダーは全治2ヶ月の重傷を受ける。
首府スーザに凱旋したときアレキサンダーは31才になっていた。後年ローマにより完成された民族融和一体化策の試みが、彼の手で始まった。もっとも著名なのが、1万組のギリシャ男子(兵士)とペルシャ女子の合同結婚式である。アレキサンダーもダリウスの長女を娶る。現地妻だ。ペルシャ人をギリシャ風兵士に仕上げる訓練を組織的に行う。50才を超えたベテラン兵士1万を帰国させる。軍の若返りだ。マケドニアの軍役が60才までだったので、これには一悶着あったが、円満退社に持ち込んだ。
32才になって、アラビア半島からカルタゴに至る征西の準備に入る。だが5月に突然病に倒れ、多分1ヶ月ほどの闘病の末死去した。マラリアだったという。死去直前には兵士一人一人と最後の別れを行う。大王の目標だった征西を、配下の将たちは非現実的として中止を決議する。
アレキサンダーは「より優れた者に」と云ったそうだ。後継者を誰と指名しなかった。遺された7人の武将のうち、最後は海軍を任されていたクレタ島出身のネアルコスは加わらなかったが、残りの6名と父王時代からの2将と引き継いだ息子の、結局は8派の間で後継者争いが起こる。それが終わるのは半世紀後のBC270年代だった。彼らはアレキサンダーの元ではきちんと職務を果たしたが、ドングリの背比べで、決定的ななにか(洞察力)に欠けていた。お血筋に超有力者がいなかったことも不幸だった。ギリシャの息子は、アレキサンダーが死んだときに生まれた赤子だった。
大王の領地は結局は分割される。その一つ、エジプトのアレクサンドリアに首都を置いたプトレマイオス王朝は、300年続いてクレオパトラに繋がる。セレウコスの王朝はシリアが中心だった。首都はアンティオキアだった。後継争いの間にインダス河河畔、アフガニスタン諸部族、ティグリス河以東といった順に地元民がギリシャ王朝から離反してゆく。
分割であって緩い繋がりが残ったことが、ヘレニズム文化の浸透拡大に貢献する。ローマ帝国時代に入ってからも、ヘレニズム文化圏では、ギリシャ語がラテン語とともに通用することになる。ジャパニーズ・イングリッシュがあるように、その地ではコイネ(ペルシャ訛り)・グリークだったらしい。アレキサンダーがダリウスの金庫から没収して鋳造した高品質の金貨も、大型統一経済圏の創設に一段と寄与したことであろう。エジプトのアレキサンドリアと古バビロンが中心だったが、後者はおいおい寂れて行ったようだ。

('18/07/23)