おいしさの科学

佐藤成美:「おいしさの科学〜素材の秘密・味わいを生み出す技術〜」、講談社Blue Backs、'18を読む。先に「パンの科学」を上梓した。そこでは化学情報は感覚とは関連付けが難しいと書いた。本書が、「パンの科学」では不十分であった議論を、深化してくれるだろうと期待している。
食べ物の情報は大脳皮質の感覚野から連合野に伝わり、食べ物としての審査を受ける。五感の情報と生理状態の情報が扁桃体に達し、過去の情報との照合で、「快」「不快」の判断が出る。この扁桃体の情報は視床下部の摂食中枢と満腹中枢に繋がる。「別腹」とは胃腸の働きとは別に、脳自身が脳内麻薬(本HPの「食欲の科学」('13)、「脳内麻薬」('15))を分泌することで起こる。
食品の化学物理化学、調理に伴う化学変化がレビューされている。上記の「パンの科学」で出てきた「メイラード反応(アミノカルボニル反応)」「カラメル化反応」にもページを割いてある。結合水と自由水の違いを詳しく載せている。自由水の割合を水分活性と書き、一般の細菌では0.9以上、酵母では0.88以上、カビでは0.8以上でないと生存できないとある。私は腐敗を浸透圧で説明してきた。新巻き鮭でもジャムでも接触生体は水分を吸い取られるから生きて行けない。浸透圧を水分活性と言い換えた文章には、初めてお目に掛かった。
うま味にはアミノ酸系、核酸系、有機酸系に分類できる。うま味には相乗効果を持つ組合せがある。味蕾のうま味受容体には、うま味成分それぞれが結合する場所がある。核酸系のイノシン酸塩またはグアニル酸塩が受容体に結合すると、近隣の受容体のアミノ酸系のグルタミン酸塩が結合する部分がより結合しやすい構造に変化するという。味の素にはグルタミン酸塩単身でなく核酸系成分がちょっこし入れてあるはずだ。
ペプチドが加わるとコクや濃厚な味をつくる。うま味ばかりか甘味や苦味を感じさせるペプチドもある。熟成で寝かせている間に、微生物や食品自体が持つ酵素によって、タンパク質がアミノ酸やペプチドに分解され、それらがうま味成分と感じられる。人工甘味料のアスパルテームは、そんな研究から出てきたのだろう。アミノ酸であるアスパラギン酸とフェニルアラニンの縮合物だ。珈琲屋に置いてあるのを見かけたことがある。カロリーは砂糖と同じだが、甘味は200倍という。
バターなどの油脂はそれ自身はうま味ではない。だが味物質と油脂が共存すると苦味や酸味が抑えられ、うま味や甘味が持続される。エマルジョンタイプになることで、その作用も微妙に変わる。O/Wの牛乳ではコクと濃厚味に貢献する。牛肉の脂分が良い例だが、融点がまた微妙に美味しさに関係する。炒め野菜を覆う油膜も、炒め時間短縮によりシャキシャキ感とか鮮やかな色彩で美味しさに貢献する。
「鬼平犯科帳SP 一本眉」で火付け盗賊取締方の「猫どの」が飲み屋が店を開けない理由をいかぶって、「八丁味噌」は3年寝かせてつくる、麹が急に不良などとはおかしいという意味の言葉を吐きながら、その飲み屋を検めに掛かる。私は銚子の味噌蔵を見学したとき、半年一年と聞いたように思う。本書には発酵で造る味噌、醤油の複雑な味の講釈がある。八丁味噌に対しては熟成期間は2年以上となっていた。なめ味噌で、一本眉の飲み屋では田楽に塗っていた。
骨格筋は筋繊維とそれを包む結合組織(コラーゲン繊維)の膜および脂肪組織からなる。ヒレやロースは運動量が相対的に低いから、筋繊維束が細くなりきめ細かになる。栄養状態によい家畜は筋肉にも脂肪を蓄える。黒毛和牛の霜降り肉は遺伝だそうだ。筋肉に細かい脂肪のさしが入っている。適度のさしは、肉質を滑らかにし、味にまろやかさやコクを与える。高級霜降り肉には脂肪のさしが50%も入っているという。
しゃぶしゃぶやすき焼きは和牛香を感じられ美味しく食べられる調理法だとある。和牛香とは和牛に含まれる香気成分で、匂い感覚から脳に美味しさをアピールする。肉が商品になるには、死後硬直が解けるある時間が必要だ。この熟成期間の間に、もともと含まれる酵素によってタンパク質の自己消費が行われ、筋肉が軟化するとともに、アミノ酸やペプチドの生成により風味の向上と生臭さの消失が起こる。さらに熟成時間を伸ばして分解によるうま味を向上させるのが、今話題の熟成肉である。
なれ鮨から回転ずしにいたる寿司の歴史をレビューしてある。私にとって、寿司は嫌いではないが、特別の食べ物でもないので、寿司の科学が書いてあると云うことだけを紹介して、この項は飛ばす。魚介類のうまさにはことに食感が大切だ。コラーゲンが加熱で変化を起こすが、その影響割合が大きいのだろう。コラーゲンは3分子が綱構造を取っているが、加熱により分子ごとにばらけてしまう。膠や魚の煮こごりはゼラチン化を示すよい標本で、食感変化の主役だろう。レオロジー性測定装置で総合的物理感覚を指数化する。
このHPにはジャポニカ米とインディカ米を対比させた記事をけっこう載せている。伝搬のルートを探した「花成ホルモン」('99)、米が野菜だったという「東欧旅行」('02)、アジアのライスカレーの「悠久のオリエンタルクルーズ」('18)、遺伝子や化学構造に関する「タネのふしぎ 」('12)、「バイオテクノロジーの教科書(上)V」('14)、「食の人類史」('16)などがある。
直鎖のアミロースが多い方がパサパサの飯になる。分岐高分子のアミロペクチンが飯の粘りに対する寄与が高い。炊きあがった飯のデンプンは糊化(α化)しているが、飯が冷えるとデンプンから水分が分離し、部分的に結晶構造が戻り(老化(β化))、飯が固くなる。コシヒカリのアミロースの対全デンプン率は17%、弁当やおにぎりなど冷や飯用の新品種の米は20%以上で、再結晶化を防いでいる。ちなみにインディカ米は22〜28%という。
野菜の料理に伴う化学変化には興味深いものが多い。大根やワサビはすり下ろすとなぜ辛くなるか。タマネギ、ニンニク、ニラ、ネギを刻むとなぜ涙が出るか。これは組織が毀されて酵素が滲み出、酵素反応で硫化アリルを発生するためだが、切れ味の鋭い包丁だと組織破壊が少なくて済み料理人も助かるという。
野菜の退色防止に対して、或いは色彩の強調のためにキレート反応が用いられる。クロロフィルのMgイオンをCuやFeイオンに置き換えて緑色を安定化したり、アントシアニンの赤色を安定化するために、AlやFeとの錯体化を計ったりする。茄子の糠漬けに釘やミョウバンを入れる。リンゴを?いたら塩水に漬けると酵素の働き(酸化)が停まる。野菜や果物の変色防止法がいろいろ書いてある。
インドは世界一の豆消費国だという。インド人にはベジタリアンが多いためらしい。大豆は日本では自在に食卓で活用されている。それを大豆七変化と題して、豆腐から湯葉納豆醤油から味噌までの様々な応用が、「科学」付きで述べられている。畑の肉なのである。NHK:「京都人の密かな愉しみ」というドラマに、菓子司の若女将に思いを寄せる英国人教授が、小豆のアンに閉口するシーンがあった。アンや煮豆にして、甘い豆を食べる民族はアジアに限られているそうだ。東北地方の「ずんだ」についての解説は面白い。
家内は仲間に私を紹介するとき、「男子厨房に入らず」の教育を受けたヒトだからと、料理は食べるヒトを実行してきたことを強調する。近々家内が外科に入院することになって、少々慌てている。調理から生じるおいしさの第5章は、真面目に読んだ。ライスカレーとハンバーグに関する蘊蓄が書いてある。ハンバーグはちょっと私には無理だが、ライスカレーは「男の料理」の代表だ。やってみるか。
厨房に立つことは遠慮してきたが、台所道具の中で電子レンチには多少の経験を積んできた。加熱ムラに関する紹介は合点が行く。ただ私には、塩味の多い部分が加熱されやすいという認識はなかった。弁当だって牛乳だってお酒の燗だって、口に入ればいいという程度の我慢強さがないと、電子レンチに腹を立てることになる。
私は下戸で、ろくすっぽアルコール飲料が飲めない。でも飲む真似をせねばならないときがある。ノンアルコール麦酒は近年たいそう進化した。少なくとも最初の一口は麦酒そっくりだ。今ではお義理で注文する飲料ではなくなっている。飲料に限らないようだが、食べたときの香り感覚の変化は、「ひとくち目」「のどこし」「余韻」の3段階変化があるという。ノンアルコール麦酒には「酔いここちフレーバー」が入っているという。
冷凍食品がうまくなった。急速冷凍法で、食品の組織を損なう-1〜-5℃の最大氷結晶生成温度帯を短時間で突破し、-18℃以下で保存する加工食品である。さらに不凍タンパク質や不凍多糖が開発され、その添加が効果を上げているという。南極の魚の水分が凍らない秘密を解明することによりこの技術が生まれた。寒冷地野菜にも不凍化の仕組みがあるそうだ。氷結晶のエッジに張り付いて、結晶の成長を阻害する。私はかって。カーボンブラックの吸着活性分布が、一様でなくエッジやコーナーで高いことを知ったことがある。吸着点の選択は、それと同じ理由であろう。
品質保持のための包装技術の進歩についても記述がある。私の書棚に、高分子学会編:「高分子新素材One Point-17 新しい包装材料」、共立、'88があるが、その内容に比べて本書はそれほど新味がないから、'88年頃には、この技術はほぼ完成していたのであろう。
味蕾に味細胞が詰まっていて受容体を舌表面に出している。味細胞には4種あって、その内の1種は原細胞だ。味細胞は2週間ほどで原細胞からの新しい細胞に置き換わる。年寄りの味覚はだから味細胞に関しては衰えがないが、味覚に関して共役する嗅細胞の衰えが足を引っ張っているらしい。甘味やうま味に対する受容体は1種だが、苦味に対する受容体は25種もあるという。塩味や酸味に対応する受容体も複数だ。油脂は口腔内で舌にあるリパーゼで分解され、生成脂肪酸を受ける受容体で感じる仕組みになっている。第6の味と云えるのかも知れない。
ヒト味覚受容体を備えた甘味センサーが開発されて、味覚誘導物質や味覚阻害物質の受容体に対する作用として、甘味を増幅したり減少させたりする機構が解明された。ネコには甘味受容体の遺伝子に欠陥があって甘味を感じていない。多くの肉食動物がそうだという。果実は草食動物に取ってあると言うことらしい。
食行動を決めるための情報処理を担うシステムには、恒常性(ホメオスタシス)と脳内報酬系がある。鬼平犯科帳の「はぐれ鳥」に、「空腹に勝る珍味なし」と言うフレーズが出てくるが、その食欲が生じる脳内機作が簡明に描いてある。おなかが空いていなくても好物には手が出てしまう。おいしさの情報が脳内報酬系に神経伝達物質ドーパミンを放出させるためだ(本HPの「心の脳科学」('09)、「食欲の科学」('13)、「脳内麻薬 」('15)など)。

('18/06/25)