観応の擾乱

亀田俊和:「観応の擾乱〜室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い〜」、中公新書、'17を読む。本HPの「応仁の乱」('17)が室町時代末期の話だった。たまたま書店で室町初期の争乱を描く本書が平積みしてあるのを見た。私の書棚の唯一の日本通史は、中学生対象の「新しい歴史教科書」である。そこには応仁の乱はあるが、観応の擾乱はどこにも載ってない。この乱は、お家騒動と云えばお家騒動だから、中学生には必要ないとしたのだろう。私は教科書を大切に思っている(「中韓の行動規範:呪われた儒教」('17))。日本全史の中での位置付けを、自分なりに考えてみたい。
観応の擾乱期は、南北朝時代中間にあり、応仁の乱は戦国時代の始まりにある。南北朝時代も戦国時代も室町時代の一部だ。「新しい歴史教科書」では、室町時代は鎌倉幕府が倒れた1333年から秀吉の全国統一の1590年までにしていた。出版当時は中韓の歴史認識と異なる点があって、国際的な話題になったので買った。本HPの「新しい歴史教科書」('01)、「「新しい歴史教科書」批判の批判」('01)に私なりの感想を書いている。現在感覚で眺めてみても、この教科書はいたって真っ当な内容で、当時の批判が、その後の16年の歴史で的外れであったことがはっきりしている。上述の「中韓の行動規範:呪われた儒教」はK.ギルバートの著書への感想が主だが、そこにも中韓の歴史認識の奇っ怪さについての具体的論理的記述がある。
若かりし頃に、河内長野から吉野あたりの、南朝と楠木家にゆかりの土地を散策したことがあった。如意輪寺には、正行が四条畷の戦いに出陣するとき、鏃で堂の扉に書き残した辞世の「かえらじとかねて思えば梓弓・・・」が残っている。正行は守護・細川顕氏を大敗させ、守護・山名時氏にも連戦戦勝だったが、本腰になった幕府が執事・高師直とその兄・師泰により挽回を図った。当時の幕府は、南朝を完全に圧倒し、社会はほぼ安定化しつつあったので、正行軍の大勝は天下の一大事だった。
幕府軍は1万騎6万の軍兵だったという。正行は3千騎あまりで師直の本陣をつく奇襲作戦に出、幕府軍を大混乱に陥れたが、結局は多勢に無勢で討ち死にする。幕府軍はさらに吉野に攻め入り、南朝の御座所を奪い焼き払い、楠木の残党狩りを徹底して行う。南朝側は紀伊国で蜂起する。この掃討に足利尊氏の実子で尊氏の弟・直義の養子・直冬が当たり、3ヶ月の激戦で一応の目的を達成する。これらの事実が幕府内の勢力地図を変える。
当時の幕府は尊氏・直義の2頭体制だった。実務実権は殆ど直義にあったが、征夷大将軍・尊氏の睨みは無視できないと云うところだった。四条畷の戦いののちの高師直・師泰の専横が史書(太平記)に見られる。不協和音がトップ人事のいくつかに直義派と師直派の勢力争いと言う形で記録に残っている。直義は抜群の勲功を挙げた師直を、完全に排除するに至らなかった。直冬は長門探題に転出になった。観応の擾乱(1350−52)は尊氏−師直vs直義−直冬と見てよい。
師直の執事解任が熱い内乱の引き金を引いた。観応の擾乱第一幕だ。師泰の大軍が上洛し、尊氏・直義兄弟のいる300騎ほどで守る将軍邸を7千騎で取り囲む。御所巻と云う。直義側の重臣は流罪とされ後に殺害される、直義は出家する。師直圧勝後の人事は勿論彼の取り巻きが主流を占める。直義の幕政統括者としての地位は、関東から上京した尊氏の子・義詮にそっくり渡る。
鞆にいた直冬は九州に落ち延び、軍勢の立て直しに成功する。その討伐に高師泰が派遣されるが、石見国で食い止められた。かっての尊氏派が直冬に加勢を始める。尊氏は直接出陣するが、その他の地方も騒然とする中で、兵が集まらない。直義が脱出し、尊氏派であったはずの細川顕氏が分国の讃岐に逃れ出る。直義は南朝に降伏し、大義名分を得て石清水八幡宮に陣取る。
東北と関東は直義の勢力下に入り、諸将の反旗で、尊氏軍は末期的症状を呈する。京都からは義詮が逃げ出す。丹波国に尊氏が撤退したときは、幕下は400〜500騎だったという。尊氏軍と直義軍は摂津国打出浜で合戦に及ぶ。初めての主力対決は双方とも500騎程度の戦だった。両者は師直・師泰の出家を条件に講和を結ぶ。その陣営の120名が出家したという。京に上るときに、高一族と主だった武将は斬殺される。1351年2月だった。
斬殺は尊氏の怒りを買ったらしい。直義は甘かったというか、信頼していたというか、兄への遠慮があったというか、あるいは40才になって初めて授かった吾が子の夭折に落胆したためというか、この頃から行動が消極的になる。彼は尊氏が執着する恩賞充行権を認めた。多分それが仇になって、勝ったはずの直義派武将への恩賞と安堵、官職の補任、守護や頭人の人事は、彼らが満足できるほどではなかった。あまつさえ関東から京都に戻った義詮がやり手で、かっての執事のような立場を確保するようになる。
彼の訴訟制度改革は、理非糺明より一方的裁許を重視するものだったが、現実的だと好評だったようだ。彼は直義への敵意を隠さなくなる。直義が努力した南朝との和解は進捗しなかった。近江国の佐々木導誉、播磨国の赤松則祐が南朝の旗を掲げて叛乱を起こし、尊氏軍と義詮軍が平定に向かった隙に、直義は北陸に出奔する。2度目の京都脱出だった。平和は5ヶ月で終わった。
近江での戦は尊氏軍が優勢だった。両者は一旦は顔を合わせて講和を結ぼうとするが、成立せず、直義は北陸経由で関東に下る。関東は、もっとも頼みとする上杉憲顕の勢力圏だった。尊氏は義詮を京都に残して関東に出馬、決戦は直義勢が数では勝っていたが尊氏側の勝利となった。直義は降伏したが、程なく死去(1352年)した。病死らしい。尊氏に供奉した仁木頼章は高一族ではない初めての執事だった。観応の擾乱第二幕における各有力武将の去就は、一貫して尊氏派直義派を貫いたものもいるが、たいていは風を読んでの右往左往だった。南朝に対する姿勢も同様だった。
尊氏は、幕府に帰参した赤松則祐を介して南朝との講和をさぐり、正平の一統が成立した。義詮との意見の相違がその頃から表面化する。尊氏は北朝にそれほど強い思い入れなど無かったとある。むしろ直義との和解への手土産といった程度の思惑であったらしい。義詮にとっては、打倒直義のお墨付きが条件で、それを後村上天皇の南朝への一元化の綸旨に入れ込ませるのに成功している。
ともあれ尊氏は南朝の条件を尊重した。三種の~器は北朝から南朝に移された。しかし南朝は幕府武力制圧の意図を隠さなかった。京都をにらむ要害・石清水八幡宮に後村上天皇は陣を敷く。楠木正儀を主力とする南朝軍が足利義詮軍を近江に追い出す。京都、石清水は勢いを取り戻した義詮が奪回するが、北朝の天皇、2上皇、皇太子は南朝に拉致され、それ以降北朝は皇統としての正統性に苦しむことになる。
戦いはそれより先に新田や脇屋の遺児らの軍勢によって東国で始まっていた。笛吹峠付近を戦場とした決戦を武蔵野合戦という。最終的な勝者は尊氏であった。尊氏は関東一円の武将を傘下に収め幕府の基礎を固めた。奥州探題・吉良貞家はかっては直義派だったが、尊氏に帰参した。南朝に帰順していた北条時行が処刑される。以後北条の残党の活動はほぼ記録から無くなる。
南朝側の2度目の京都占領は、山陰道を東上した山名時氏の大軍によるものであった。義詮は再び近江路に逃れ、また盛り返して南朝側を京都から追い払う。九州では正平の一統が破綻した頃鎮西探題の直冬、九州探題の一色父子と南朝の征西将軍宮・懐良親王の三つ巴状況になっていた。直冬軍は一色軍に追い詰められ中国へ転戦する。親王は一色軍を駆逐し、九州での南朝全盛時代に向かう。
山名時氏らは直冬を総大将に京都を目指す。尊氏らは一旦敵を京都に引き入れる作戦で成功する。直冬は中国路に逃れ、その後も反幕活動をするが、もはや地方の一弱小勢力でしかなかった。
建武の中興から10数年を経て、尊氏が政治家としてまた武将として復活し、堂々の征夷大将軍に成長する姿が本書から伺える。武家の頭領であるから当然かもしてないが、鎌倉幕府の制度遺産を最大限活用する体制作りや、大名たちの強い独立性と南朝天子の意欲的な行動が印象的だった。平安期以来の国政制度や経済基盤(公庫の徴税手段、寺社公家の荘園)は、この擾乱で、おそらく武家側におおきく傾いただろう。そこら辺はもう少し触れて貰いたかった。
少年期の教育の影響は深刻だ。皇国史観で教育されたから、大塔宮護良親王を岩牢で切った足利直義は大悪人で、兄の尊氏も同列のように感覚的には思ってきた。本書は史実から足利兄弟の本当の姿を浮かび上がらせる。冒頭に書いてあったが、この時代の文献は豊富らしく、感情にまで立ち入れる場合があるようだ。
室町時代はこれから2世紀に亘り続く。尊氏、義詮、義満(継承したときは幼少であったため、実質は管領・細川頼之の補佐が大きい)の3代の征夷大将軍の治政は、その平和と繁栄の礎を築いた。著者は努力が報われる政治をしたと評価する。具体的には「諸政策の恩賞化」だという。武家だけでなく寺社や公家も、幕府に奉公して忠節を尽くせば、何らかの形で努力が報われるようにする。所領も官職も恩賞の対象であり、所領の安堵は争乱の芽を摘む。幕府の信頼獲得に、訴訟の合理化、迅速化、判決の実効化も貢献した。敗者に対して意外と寛容であった。直冬方の重鎮であった山名時氏は、帰参が擾乱後10年は過ぎてからだったが、5ヶ国の守護職を一族に安堵されている。尊氏の将の将たる資質も幕府盤石化におおいに役立ったらしい。

('18/01/04)