マレーシアとシンガポールの物語
- @高嶋伸欣編著:「写真記録 東南アジア 歴史・戦争・日本 3 マレーシア シンガポール」、ほるぷ出版、1997;A旅行人編集室:「旅行人ノート4 海洋アジア〜タイ南部・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・インドネシア〜」、旅行人、1997;B新家芳治:「元駐在員の異文化体験記」、牧歌舎、2005を千葉市図書館から借り出した。AとBは主に出版時点の現代を扱う。Aにはこの手の本には珍しくも索引がついていて、覚えにくい地名や人名を調べ直すのに役立ちそうだ。Bはペナン島に詳しい。
- 来年のクルーズ寄港予定国をベトナム、スリランカ、ビルマ、インドネシアと読み進めてきた。私のマレーシアとシンガポールに関する知識は、大東亜戦争の大本営発表の形で、小学(国民学校)生のときに突然飛び込んできた。マレーシアを進む銀輪部隊、プリンス・オブ・ウェールス撃沈、ジョホール水道渡峡戦、YesかNoかの山下奉文将軍とパーシバル中将の会談などなど、勇ましい軍歌とともにいまだに覚えている。戦後も我が国とは関わりが深かった。私的にはマレーシアの大学教授だった友が客死した場所である。シンガポールを再々訪れる友は、1人あたりのGDPが日本を凌ぐ国の今をいろいろ吹聴してくれる。
- マレーシアの民族構成(本当はマレー半島部とボルネオ島部を分けねばならぬが、適当な統計が見つからなかった。ボルネオ島には先住民が多数住む。)はマレー系(約65%)、華人系(約24%)、インド系(印僑)(約8%)の順で、同じマレー系でもグループが分かれる複雑な多民族国家だが、マレー語が公用語という。シンガポールのそれは、中国人 (74.1%)、マレー系 (13.4%)、インド系 (9.2%) 及びユーラシア人に大別でき、大部分はバイリンガルであり、共通語及び第2母語として英語を使用するとWikipediaに記載されている。それはマレーシアでも同じだ。シンガポールの中国系やインド系は、イギリス時代の都市建設のための苦力(クーリー)として移民してきたものの子孫が多いA。
- マレーシアの宗教は イスラム教(連邦の宗教)(61%)、仏教(20%)、儒教・道教(1.0%)、ヒンドゥー教(6.0%)、キリスト教(9.0%)、その他とあった。シンガポールは仏教・道教は44%、キリスト教18%、無宗教17%、イスラム教15%、ヒンドゥー教5.1%とあった。複雑さを理解するにはまず歴史からと云うことで、@の関連ページを読むこととした。
- @の編著の高嶋伸欣氏は、右翼の云ういわゆる「自虐史観」のヒトらしいとすぐ気が付いた。例えば、中央(高嶋氏は琉球大教授)の某教授は「500年にわたる欧米列強の帝国主義的植民地支配を抜きにして、大東亜戦争を語ることはできない」と云ったと、非難している。論点は欧米の植民地支配と大東亜共栄圏の対比だろう。
- 欧米の帝国主義的支配は、産業革命が軌道に乗ってマーケットの拡大ニーズの起こった数十年でしかないという。帝国主義に関しては正しい。ではそれまでの支配は植民地にとって何だったのか、何も書いてない。高嶋氏は、あとで、日本のアジアを見る目が「19世紀西欧中心史観」に毒されてきたと述べるのだが、500年のはじめの「非」帝国主義的支配時代は許されてよいとでも言いたいのかと勘ぐれそうな発言は、まさに「19世紀西欧中心史観」に毒されているように思う。
- 高嶋氏は、「大東亜共栄圏」の実質は、日本の植民地化と住民の戦争協力獲得のための、まやかし宣伝と強調している。第3章「19〜20世紀のイギリス植民地」で、「イギリスは、・・民族自決尊重の立場から、アジアの政治的独立もやがては不可避のものと考えながら、経済的効果の維持を目論んでいた。そこへ自らを盟主とする「大東亜共栄圏の確立」という身勝手な名目で割り込んできたのが日本だった。」とする。
- だが、戦後処理の項では、イギリスは、一度は日本に追い払われた立場と、「大東亜共栄圏」にアジアの人がいかに引きつけられていたかを、冷静に把握していたように見えるともしている。本書は、思想と軍の勝つための現実工作を混同しているのではないかと思う。イギリスの植民地経営に見せるずるさを礼賛するのも、「いかがなものか」と思われる。
- 本HPの「インドネシアの物語」('17)には、独立に日本軍が協力したとその国の高校歴史教科書に出ていると書いている。私は大東亜共栄圏「思想」は、大半の植民地被支配住民には歓迎されたと思っている。我が国の国民だって共鳴していた。小学生だった私にすら覚えがある。民族自決は一次大戦勝者の空念仏だったにせよ、独立運動に理論的根拠を与えた。「大東亜共栄圏」も日本流の民族自決主張だ。戦争突入への大義名分としての価値は高かったと思いたい。
- 高嶋氏は欧米人に甘く日本人に辛い発言をあちこちに流す。まあそんなことを斟酌しながら、第4章「日英対決〜マレー戦」までを「オレ流」に読むこととした。
- マレー半島の歴史に最初に出てくる王国はマラッカ王国である。上記「インドネシアの物語」には、「15世紀初め(本書では14世紀末)にマジャパヒト王国内乱の際に逃げた王子がマレー半島にマラッカ王国を築き、イスラム教に改信し」たとしている。それまでは、小集落と居住の狭い川筋周辺を領域とする、自給自足型の地域内完結型経済の部落国家が続いていた。マレー人が進出してくるまでの先住民の姿として、ボルネオ奥地の民の写真が出ている。イスラム文字によるマレー語表記が可能になり、有史時代に入る。
- マラッカ王国は、アラブや中国からの交易船に対する海峡通過税を重要な収入源としていた。それほどに貿易の、王国に占める比重は高かった。古いモスクの写真は、ジャワ島やスマトラ島のそれらと構造がよく似ていることを示す。海峡を挟んでのヒトの往来も盛んだったのだろう。筆者は、アラブの高度の航海術がヨーロッパの大航海時代を可能にしたとして、緯度航行法を解説している。太陽の高さから緯度を知り、磁石と星の角度で方向を決める。
- 中国の交易船の活躍を後押ししたのが、明・永楽帝派遣による鄭和の15世紀初頭の7回に及ぶ遠征だった。遠くアフリカ東岸にまで到着している。ポルトガル人が、マラッカに西洋人としては初めて到着するよりも1世紀は早い。50隻で2.7万人を乗せて各国に交易を申し入れたと云うから、砲艦外交に違いない。しかしヨーロッパ各国とは違って、砦を築いたり軍兵を残したりはしていないようだ。朝貢?に応じたマラッカ王は王女を嫁に貰った。500人のお供がついてきたと云う。
- マラッカ王国は1511年にポルトガル艦隊にマラッカを占領される。その支配はオランダに敗れる1641年まで続く。ポルトガル、オランダは地元の社会構造まで変革する意図はなかったという。1699年王国滅亡。イギリスによる支配は、イギリス東インド会社による1786年の、交易中心拠点であったペナン島占拠から始まる。シンガポールは1816年にこの会社に領有されることになった。1824年にオランダと協定して、マレー半島と北ボルネオの支配権を確立した。
- 1858年に東インド会社は解散され、マレー半島は、イギリスの産業発展のためのネットワークに組み入れられる。内陸支配は1874年条約の、スズ鉱山のあるベラ州への干渉から始まる。サルタンは宗教と慣習以外の実権をイギリスに取り上げられることになる。マレー半島を、イギリスの不可欠の植民地にしたのは、20世紀初頭のゴム園の開発だった。マレー半島のスズとゴムは、終戦直後の地理で我々も学んだ記憶がある。典型的な植民地モノカルチャーとしてゴム産業が展開される。
- タイは周辺諸国が全て植民地化の憂き目をみたのに、唯一独立を保ち得た。王権が強固でかつ名君が出て近代化に積極的だった。欧米に対し鎖国政策を採ってきたが、1855年に英タイ修交通商条約という幕末の日米条約同等の不平等条約を結ばされ、外国人顧問を送り込まれ、マレー半島の、主にスズ鉱山に働く中国人、主にゴム園(他に珈琲、茶がある)に来るインド人(インド南部のドラピタ族(タミール人)、カースト制最下層民)用の安い米生産を「指導」される。彼ら低賃金労働者は、はじめは出稼ぎだがやがて定住する。特に華人社会はマレー人社会に溶け込まないから、のちの民族問題の大きな火種になる。中学時代の地理に、タイはコメの大輸出国とあったのを覚えている。
- からゆきさんが2ページに亘って掲載されている。シンガポールの日本人街の置屋には1500人いたという。本書に置屋が建てたという彼女らの墓の写真が出ている。九州在住の頃「島原の子守歌」を知った。歌詞に、売られて運ばれて行く外洋船が出てきて哀れを誘った。映画:「サンダカン八番娼館・望郷」(「望郷」('02))にも彼女らの墓の話が出ている。サンダカンは北ボルネオにあり、Wikipediaには、やはり、からゆきさんの墓が残っているとある。からゆきさんとは明治から大正、昭和にかけて主に九州から売られてきた若い女で、仕事は置屋での売春であった。娼婦つまり慰安婦である。Wikipediaの「妓生」を見れば、朝鮮半島出身もいただろうと容易に想像される。韓国の慰安婦は反日の材料にされているが、自国伝統の性売買システムに根付いた問題であることを、日本の悪行にすり替えている。
- 私は異常事態である戦中の事件から、民族の本質を議論するのは控えた方がよいと思う。その意味で、第5章「日本占領時代〜地獄の3年8か月」と第6章「日本軍降伏」は、ざっとめくる程度にした。高嶋氏はなぜかこの両章に力点、それも主に負の遺産に力点を置いていて、本の半分のページを宛てている。
- 戦後のマレー半島、北ボルネオに関する私の記憶は、「ルックイースト」(1981年)を唱えたマレーシアのマハティール第4代首相の頃までは、シンガポールのマレーシア連邦からの分離独立以外は、殆ど空白である。本書は1997年の出版なのに、「ルックイースト」には何も触れていない。Aには記載がある。
- 戦後イギリスはすぐにはマレー半島を手放そうとはしなかった。イギリスのマラヤ連合案は、9人のサルタンの了承を取り、海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)、マレー連合州、非マレー連合州を一体化して、トップにイギリス人!総督を置くというものだったが、マレー人の猛反対で撤回された。マレー人の反発には中国人への警戒があった。1948年頃から共産勢力が武力闘争を活発化する。1955年のマレーとシンガポールの議会選挙で協調派が多数を占め、共産ゲリラとの和解が成立する。
- 1957年にマラヤ連邦が完全独立を果たす。9人のサルタンが互選で国王を選び、信仰の自由を認めながら国教をイスラム教とした。マレー語が唯一の公用語になった。その後も続くマレー人優先政策の始まりである。マラヤ連邦に北ボルネオのサバ州サラワク州とシンガポールが加わったマレーシア連邦が'63年に成立した。ブルネイは参加しなかったが、経済的関係は深い。すぐマレー人対中国人の民族対立が激化し、シンガポールは1965年に首脳会談によりマレーシア連邦から分離独立した。
('17/12/20)