インドネシアの物語
- @倉沢愛子編:「写真記録 東南アジア 歴史・戦争・日本 2.インドネシア」、ほるぶ出版、1997;A邸景一(文)、柳本昭信(写真)、旅名人編集室編:「旅名人ブックス74 ボロブドゥール遺跡・ジャワ島〜海のシルクロードで栄えたインドネシア王朝〜」、日経BP企画、2005;Bイ・ワヤン・バドリカ:「世界の教科書シリーズ20 インドネシアの歴史〜インドネシア高校歴史教科書〜」、石井和子監訳、明石書店、2008を千葉市図書館から借り出した。
- このHPでは「老いてゆくアジア」('08)、「「経済大国インドネシア」('12)、「2017年の予想」('16)などに現代のインドネシアを取り上げている。関心の切欠は、小学生の頃父の書棚にボルネオ探検記(正式書名は失念した)を見つけて読んだことだった。ジャングル奥深く分け入った日本のお医者さんの探検談で、原住民が使う毒矢の毒を採取して、帰国後分析したというところが記憶に残っている。
- それは戦前のオランダ統治時代の話だったと思う。読んだときは、パレンバンだったかに日本の落下傘部隊が降下して、オランダ軍を降伏させた頃に重なる。日本敗戦後の現地人の独立戦争に、残留日本兵(@には約1000名とある)が戦争プロとして独立軍の指導に戦闘に当たったとも聞いた。「ミレニアムで行った長崎」('17)には、ミュージアム出島和蘭商館跡の見学記を載せているが、出島の何倍もの城塞都市がジャワ島バタヴィア市に築かれていたことを記している。私には東南アジアの中では関心が深い国のようだ。
- B(教科書である点が大切)の第6章「日本占領とインドネシア独立準備」と第7章「インドネシア独立宣言と主権確立への努力」から読み始めた。日本の幕末から昭和にかけての歴史が要領よく纏めてある。八紘一宇や神道まで解説されているので恐れ入った。「日本のロシアに対する勝利は、アジア民族に政治的自覚をもたらすとともに、アジア諸民族を西洋帝国主義に抵抗すべく立ち上がらせ、各地で独立を取り戻すための民族運動が起きた。」と影響力を総括している。
- 日本の近代化の影の部分ばかりをあげつらう国がある中で、正当評価と感じさせる、読んで嬉しい教科書である。「(インドネシアの)独立運動は20世紀初頭からのナショナリズムの台頭をうけて粘り強く行われてきた。」ともある。敗戦直前の南方軍総司令官寺内元帥がインドネシア独立準備委員会の設立に同意し、スカルノ(初代大統領)他の主だった3人が寺内元帥の招集に応じて、旧オランダ占領域全体をインドネシア領とするといった基本構想を纏め、独立宣言に至る。
- 独立宣言は前田海軍少将邸で大綱が作成されたとして、この教科書には前田少将の軍服姿の写真を載せている。日本軍の協力姿勢を物語る。太平洋戦争の日本の大義名分はアジア解放だったが、殆ど戦場にならなかったインドネシアでは、最後の瞬間にその華をインドネシア国民に贈ることが出来たと云える。対日感情は戦後しばらくは悪かったと思っているが、「正月の概要(2016)」にも書いているし、Aの「はじめに」にも現在の親日感情に触れている。@の「概観」には、日本の支配期間中、フィリッピン、マラヤ、シンガポール、そして戦争末期のビルマなどとは違って、組織的、継続的な反日抵抗運動は存在しなかったとある。
- 日本侵攻前のインドネシアは、オランダ人、混血児、華僑、現地人が別々の社会を造っていた。華僑の歴史は古いが、流通機構に根を張ることで、オランダを凌ぐほどの利益を上げていたという。またオランダの統治組織の下級官僚として意識的に登用されていた。独立後の反華僑暴動、華僑同化策などの理由である。オランダは、多くのアジア植民地で見られたように、旧来からの王侯藩侯豪族の支配システムにのった間接統治を方針とした。王族離間策もとった。
- オランダが実施した高等教育は、統治に役立つエリート養成目的の限定的なものだった。初等教育に着手されたのはごく近年だった。我が国の朝鮮台湾における教育が、本国と同等を目指したのとまったく異なる点に注目したい。インドネシア農民は耕作水田の1/5で香料等の輸出用作物栽培を強制され、安値買い上げの上、その8割を?租などの税に取り上げる苛酷なものであったために、疲弊が激しく、多くの社会問題が発生した。その改善の一策として初等教育が導入されたという。
- 来春にはアジアクルーズに出る。インドネシアでは、寄港した町々は無論だが、ジャワ島のボロブドゥール大乗仏教寺院遺跡、バリ島のヒンドゥー教寺院や王宮、それからコモド島をも観光先に考えている。
- コモド島では世界最大のトカゲ・コモドドラゴンの観察がお目当てだ。このドラゴンはTVの旅行番組などで再々映像紹介された。生きている恐竜といった印象だった。考古学上は、インドネシアは世界最古のジャワ原人化石で著名だし、近年では「なぜヒトの脳だけが大きくなったのか」('07)に載せた、そのフロ−レス島での矮小人種化石の発掘がある。生物は狭い世界に閉じ込められると一般には矮小化する。これは屋久島固有種(「すごい進化 」('17))を見るとよく分かる。ところがコモド島では狭い環境なのにドラゴンだけは巨大化した。どう説明されるのか興味津々である。捕食動物がたまたまその島では皆無で、食物連鎖の頂点に立ったからには違いない。
- 東西5千km以上の海域に跨るインドネシアという概念は、オランダ統治領域(東インド)を表すもので、彼らが来るまでのアイデンテティ感覚にはなかった。だから島ごとに独立の歴史模様と民族模様があるのだから、その多様性は推して知るべし(3千以上の民族、1.75万以上の島々)で、全体の既述は困難だ。碑文、文書或いは外国文献に遺された歴史はジャワ島とスマトラ島に集中し、あとはボルネオなどに少々見かけることが出来る程度のようだ。よって記述には地域的に偏りがある。
- 本HPの「サピエンス全史」の上('17)と下('16)には、壮大な民族移動の一環として、インドネシア現住民をも描いていたように思う。Aには第1波がBC1500年頃のオーストロネシア語族でいわゆる南方モンゴロイド集団、第2波がBC500年頃の西インドネシア語群の人たちとしている。後者が出版時点のジャワ人(6千万人)、スンダ人(2.2千万人)、マレー人(320万人)の祖先という。全人口2.06億人のうちの60%がジャワ島に住む。
- Bでは、第1、2章の55ページを、原始の時代からヒンドゥー教、仏教の時代までに宛てている。資料を忠実に列挙しているが、歴史を断片的にしか記述できない事情がよく分かる。偏らずに記述しようとするためか、かえって読みづらい。@は遺跡の写真が主で、Aには第8章「ジャワ島の歴史」のはじめの6ページと各論の10ページに、物語風にバランスよく書いてある。以下の説明は教科書では、話の流れを、主にAの記述内容に基づいている。ただ仮名表記はまちまちなので、教科書B記載のものを主に使うことにする。
- 東南アジア海域が世界史に登場するのは、7世紀頃からだという。マラッカ海峡を中心に、インドと中国を結ぶ海の交通ルートが確立する。海上シルクロードだ。習さんの「一帯一路」の一路である。マラッカ海峡の迂回路にはスンダ海峡(スマトラ島とジャワ島の間)、バンダ海峡あるいはカリマタ海峡(ともにスマトラとボルネオの中間の海)を通るか、マレー半島のクラ地峡を行くかだ。いずれにせよ沿岸の補給基地が必要だ。最初にこれらの領域を抑えたのが、スリウィジャヤ王国である。彼らは中継貿易で東南アジア随一の巨大海運王国となる。
- スリウィジャヤ王国は@によると13世紀まで続く。Aによると東ジャワのシャイレンドラ王国の支配を受けたりで、8世紀後期からは実質ははじめのスリウィジャヤ王国ではなかったようだ。13世紀末には周辺諸国に領地を狭められ、小国家に没落する。すでにヒンドゥー教が普及していたが、大乗仏教が奉じられる国でもあった。@には仏教王国だったとある。ベンガル湾の仏教王国との交流の記録が残っている。
- シャイレンドラ王国は8世紀中頃に誕生した。9世紀中頃まで続く。既存のヒンドゥー教サンジャヤ王国を屈服させた大乗仏教王国で、ベトナムやカンボチャをも攻撃し、上記スリウィジャヤ王国も支配下に置く貿易覇権国になる。ボロブドゥール寺院ほか文化的価値の高い寺院を建立した。シャイレンドラ朝には資料が少なく謎が多い。スリウィジャヤ王国との姻戚関係、カンボチャの大乗仏教国・扶南国との関係、アンコール王朝の救援戦争などが史上の疑問点として出ている。
- シンガサリ王国は東ジャワ一帯に13世紀前半頃から勢力を伸ばしたヒンドゥー教国家である。日本に遅れて1292年にジャワにも元寇があった。元寇前に王が前王国末裔軍に急襲され落命する。シンガサリ王国の1将軍が巧みに元軍を操り敗走させ彼はジャワ支配に成功し、マジャパヒト王国を樹立する。この王国はシンガサリ王国の政治的、経済的、社会的、文化的遺産を相続して14世紀中頃に最盛期を迎える。ジャワ法典が整備された時代で、マレー半島まで勢力が拡大した。15世紀後期にイスラム教勢力に押されて、衰退し亡びる。滅亡の時同じヒンドゥー教国であったバリ王国にマジャパヒト王国民の一部が避難する。
- Aには「オランダ植民地時代、インドネシアの人たちの心の中には、いつもマジャパヒト王国があったと云われている。彼らの精神的なアイデンティティーとしてマジャパヒト王国は心の中に定着していた。この王国の存在と栄光の記憶が独立への推進力となった。」とある。
- イスラム教はアラブ商人、インド商人が持ち込んだ。7世紀頃からその教えが伝わりはじめ、交易の発展とともにまず沿岸地域から住民のイスラム化が起こる。マジャパヒト王国は排斥しなかった。最初のイスラム教王国はマラッカ海峡に面したスマトラ北部に興り、14世紀中頃に盛期を迎える。マジャパヒト王国隆盛期と重なっている。Bはイスラム教普及の理由の1つに、ヒンドゥー教、仏教の基礎にあるカースト制に対し、イスラムの教えが無階級志向であった点を挙げている。
- ジャワ島では、16世紀までに全土でイスラム教が他を圧倒するようになった。だが、インド文明の徹底的な破壊、否定は行われなかったために、住民生活の基礎的な部分にことにヒンドゥー教的要素を遺す。「コーランか剣か」ではなかった。建造物遺跡にはヒンドゥー教の形式が残る。15世紀初めにマジャパヒト王国内乱の際に逃げた王子がマレー半島にマラッカ王国を築き、イスラム教に改信し、漸次交易の中心地となって行く。マレー半島とインドネシアはたいそう関係が深い。
- 17世紀初頭から欧州諸国の干渉と植民地化が進む。ポルトガル、イギリス、オランダだが、最終的に勝利したのはオランダである。悪名高き統治手先会社オランダ東インド会社(VOC)は1602年創立で、200年弱をかけて徐々にジャワ全域を占拠するが、放漫赤字経営になり解散する。
- その理由がBに上げられているが、その1つに従業員の不正汚職が上がっている。 長崎の出島跡(「ミレニアムで行った長崎」('17))を見たとき、貿易の中に船員の個人交易が入っていたが、おそらくその何割かがこの不正汚職に相当するのかも知れない。インドネシアの経営はオランダ政府に引き継がれた。オランダには、植民地の旨味があらゆる正義に勝る魅力だった。二次大戦後のインドネシア独立戦争の原因である。
('17/12/12)