歌舞伎クルーズ
- 11/21〜23の飛鳥Uによる歌舞伎クルーズに出た。飛鳥Uは昨年は文楽、一昨年は大相撲と日本伝統文化に関する企画クルーズを催す。落語、漫才、紙切り、和楽器演奏と言った個人小集団の演芸や地方芸能は何度も船上で見せてもらった。だが大所帯の一座を率いる芸能は運営処理が格段に難しかろう。日本船ならではの今後の展開に期待したい。横浜港の大桟橋には、ぱしふぃっく びいなすも着岸していた。見知った顔に聞いてみた。JTBの貸し切りで伊豆諸島を巡るらしかった。
- 船は満席のようだった。まず酒樽の鏡開きに出る。今回クルーズ・エンターテイメント主役の成駒屋4役者が酒樽を割った。4役者とは中村芝翫、橋之助、福之助、歌之助の親子である。明日は成駒屋親子四人同時襲名記念歌舞伎船上公演が催される。成田山新勝寺にはときおり参詣するが、寺と成駒屋との結びつきが境内にいろいろ掲示されていて、私には成駒屋は歌舞伎役者の中では記憶にインプットされている方だ。参加者には飛鳥と成駒屋のマークが入った枡が配られた。
- 夕食は洋食。あと歌舞伎の4人の紹介映画20分を見、店を見、カラーズと題した飛鳥Uチームのオリジナル・プロダクション・ショーを見、抽選会ではまた外れてがっかりし(私はこの船ではいたってくじ運が悪く、最近の戦績はゼロ勝である。)、ダンスを30分ほどやってから風呂12階でシャワーを浴びた。この船の水回りはしっかりしていて、もうかなり船齢が長いのに、きちんとシャワー温度コントロールする。下手な温泉に行くと(船でもそんなのがある)隣がシャワーを始めたらとたんに熱くなったり冷たくなったりするケースがあるが、この船はそれを感じない。就寝は12時を回っていた。
- 午前に歌舞伎体操(中村橋吾)にでた。耳肩腰で背筋を伸ばして日常を送れと、入門のはじめに仕込まれるそうだ。歌舞伎独自の見得を切るなどの仕草は大仰なものだと身近で見て改めて感心した。それから芝居小屋で後ろの観客席まで通るようにという大声もクラブ2100では破れ鐘のように響いた。2100は結構広いダンス会場なのに。ここで聞いたのかどうか忘れたが、くまどりは後ろの観客にも役者の表情を伝えるための工夫だという。船内ショップに隈取り入りのTシャツが歌舞伎グッヅの中にあったので、記念に買った。
- 昼食に鰊そばをフォーシーズン・ダイニングルームで味わった。京都南座横の料理茶屋松葉のスペシャル・ランチだった。たまに京都駅近くで鰊そばを食う。その鰊そばはニシンが蕎麦の上に載っていたが、ここのはニシンがつゆにくぐらせて出てきた。味は比較のしようがないから分からないが、私には好ましい味だった。
- いちど図書室に行ったが、居眠りで時間が過ぎた。2時半にビスタラウンジにゆく。京都の八つ橋などの和菓子と煎茶で一服二服。少々カロリーの取り過ぎ。でも久しぶりだった。船は相模湾を航行していたが、雲が厚く富士山は見れなかった。4時からダンス教室。ジルバの初歩。汗を?いたので風呂。夕食はインフォーマルで和食、捻った料理だったが今一の感じ。
- お目当ての歌舞伎は、我ら夕食が1回目の乗客には20:15からの開演である。公演に予め渡されていたチケットが必要だった。船内行事にチケットは初めての経験だった。南座や歌舞伎座に入る感覚にさせようというのだろう。なかなか芸が細かい。1時間前から並んでいた連中がいた。私らは45分前に行ったが、もう長蛇の列だった。開演前の列は知っていたがこんなに長い列は初めてだったと思う。例によってスイート用に最前列と次の列の中央部は予約されている。我らその他のステート組は残りからのチョイスだ。はじめから舞台に近い位置は無視して、いつもの最後列1つ前の、縦通路に面した見通しのよい位置を狙って、小走りに歩き席を占めた。前席の頭が邪魔にならない位置である。
- 三番叟や連獅子の舞踊は記憶の片隅に住み着いている。どこかで見ているのだ。舞に至るまでの物語は記憶からは抜けていた。前者は操り三番叟という題で、操り人形をモチーフにしたバリエーションの1つと云うことだった。橋之助。後者は飛鳥薫獅子船出という題で、躍動する連獅子が演じられた。福之助と歌之助。親の芝翫は天の五郎の演目で、曽我五郎時致の廓通いを舞った。艶っぽさと、父の仇討ちを心に秘める血気盛んな様子を表現したという、なかなか難しい舞踊だが、立派だった。「成駒屋」のかけ声が掛かる。両脇にお囃子と長唄三味線の12名、弟子が親からの1人と今の5人それに裏方が何人かで、総勢20数名のようだった。朝配られたASUKA DAILYの1面には、日本郵船と歌舞伎の繋がりが書いてあった。波静かで洋上歌舞伎の役者には好都合であったろう。
- 公演会場のギャラクシーラウンジの入り口に、演目関連の小道具が展示されていた。衣装の展示はなかった。能狂言だと西陣織と縁が深いが、歌舞伎の衣装は特別の縁を持つ織物はないのだろうか。アンケートには、長唄も役者のセリフも今時の日本語ではないから、その口語訳を電子掲示板に出したらどうかと書いて置いた。読まなくても筋は判っているにせよだ。
- 私が初めて歌舞伎観劇に出掛けたのは大学院生の時だった。もう鬼籍に入られた実験室助手の女史が歌舞伎ファンだった。南座の冬の公演に連れて行ってくれた。そこでは女形の女っぽさにびっくりした。戦後ももう10年を超していたから市井の「女らしさ」も形を変え始めていた。お芝居の中味はさっぱり覚えていないが、古典の「女らしさ」が際だって感じられたのだろう。
- その次は金毘羅歌舞伎(金丸座)である。これは本HPに「金比羅歌舞伎」('96)として記録している。金丸座は昔は全国的に名の知れた常設小屋であったが、時代と共に寂れて廃屋同然になっていたものを、昭和の中頃に復興した。歌舞伎公演復活2回目(昭和61年だったようだ)だったように覚える。まだ若かったからだろう、自動車で遠征した。お芝居の演目も役者の名も覚えていないが、金丸座の印象は強かった。これは昔ながらの芝居小屋である。近代的な電気照明設備はない。今はどうなっているのか知らないが、当時は小屋全体の明かり加減は廊下側の明かり取りを、人力で開閉する芝居小屋と云うに相応しい、昔からの方法を使っていた。確か地元のボランティアが、その役目をこなしていたようだった。新聞種になったと記憶している。
- Webには「旧金毘羅大芝居の公演は、多くのボランティアの人たちによって支えられている。江戸時代そのままの芝居小屋なので、電気も機械も使わずに上演するため、舞台転換時に使う回り舞台・せり・すっぽんは全て人力により操作する(私は、金丸座の内部構造見学はやらなかったが、四国に内子座というのが残っていて、そこの内部見学はやったことがある。裏方の人数はたいそうなものだったろう。そのディレクターは今以上に大変だったろう。役者も心付けなどの気配りを欠かさなかったろう。などなど考えるとそれはそれで面白い。)。また照明は自然光のみで3段階になっている明かり窓の開閉によって行う。これらは全て琴平町商工会青年部員が毎日、ボランティアで行っているのである。」と出ていた。
- 琴平には縁があった。琴平の町は、お伊勢さんに似た門前町だ。でも学生の頃はもう寂れ掛かっていた。初めて1人旅で出掛けたとき、警察で安い宿はないかと尋ねた。それがいけなかった。紹介してくれた宿は、私を畳の破れた暗い部屋に案内した。なにか留置所拘留を解かれた容疑者のような扱いだったと今でも苦笑する。金毘羅歌舞伎観劇で家内と泊まった宿も安っぽかった。昔はそこら辺に色街花街があったと聞いたように思う。金毘羅宮鳥居前でのうどん屋2軒の客引き合戦は、「二十四の瞳」の修学旅行シーンで、高峰秀子演じる大石先生が、中途退学していった教え子と出会ううどん屋の女将(浪花千栄子)の記憶に重なっている。
- 飛鳥Uには乗客が自由に使えるPCが置いてある。PCがあればUSBメモリー1本でデータ処理が自在だから便利だ。でも日本に来る外国船にはそんなPCは置いてなかった。飛鳥U以外の日本船でも、ぱしふぃっく・びいなすには置いてないそうだ。そこで「初めてのセレブリティ・ミレニアム」('17)に書いたワイヤレス・キーボードでスマホに日記を書く方法を、今回も試してみた。慣れてみると、ミレニアムではちょっと引っかかっていた記号が、存外スムースに打ち出されるので安心した。旅で長い記録を書く人には、お勧めできる方法である。
('17/12/03)