フィンランドの歴史
- 石野裕子:「物語 フィンランドの歴史〜北欧先進国「バルト海の乙女」の800年〜」、中公新書、'17を読む。今年後期に入ってから「ビルマの歴史」「スリランカの物語」「ベトナムの物語」(いずれも本HPの表題)と、大国に接した中小国家の歴史と現状を勉強してきた。その悲哀と国民の逞しさは人を惹きつけるものがある。今回のフィンランドもその一つとして取り上げた。
- フィンランドに関しての私の知識はまことに貧弱で、北極圏に一部は入る人口密度希薄の森林国(今でも人口530万人、人口密度16人/平方km(日本335人/平方km))で、民族としてはインド・ヨーロッパ語族のスラブ系でもなく、ゲルマン系でもないと云うことや、2次大戦ではドイツ側に立ったために、敗戦で大幅に国土をロシアに割譲せざるを得なかったことや、世界に冠たる高福祉国家らしいと云うぐらいしか頭にない。このHPに「北欧神話」('15)があるが、ノルウェーから入植したアイスランド人(Wikipedia:ゲルマン系ノルマン人)が書き残した神話の話だ。フィンランドの影響はないだろう。
- 旅行者はフィンランド人を穏やか静かと言う。先の歌舞伎クルーズでご一緒した夫妻は北欧人全般に対してのようであったが、賑やか(過ぎる)イタリア人や中国人とは好対照の民族性だと評した。極寒の地だから大口を開けるのがつらいからだろうとかとも思われるが、歴史的背景もその理由だろう。
- フィンランド語はウラル=アルタイ語族のウラル語族のフィン・ウゴル語系に属し、エストニア語(エストニアではフィンランド語がほぼ通用する。)、ハンガリー語、カレリア語(いまは大半がロシア領の古フィンランドと呼ばれる地方)からロシア連邦内にあるウドムルト共和国のウドムルト語などと親類関係にあるという。それに北方のラップランドの、トナカイ遊牧で著名なサーミ人(サーミ語はフィンランド語から遠い。)も同系統だという。サーミ人が先住民だったとは書いてない。遺伝子の統計学的研究では彼らは他のヨーロッパ人と異なるとされた。Wikipediaには、父系遺伝子はモンゴル草原あたりが起原のものも含むとある。氷河時代が終わる頃に大陸の東から北西へと移り住んできた民族の一つが、たまたまこの地に落ち着いたのであろう。
- この地の歴史は13世紀頃からスエーデン統治時代として始まる。それが600年続く。今もスエーデン語が公用語の一つだが、スエーデン統治時代は唯一の公用語で、教育から公的活動まですべてをスエーデン語で行った名残だ。スエーデン人の移入もあるがフィンランド人のエリート階級も永らくスエーデン語で活動していた。後の民族運動期でも文学も学術書もスエーデン語が占めていたという。
- 北欧はアイスランドを含めてスカンジナビア半島の3ヶ国と対岸のデンマークの5ヶ国よりなる。血縁関係の深い王族によって統治されてきた。国力で常に一段上で、北欧の歴史を紡ぐ中心になってきたのはスエーデンであった。それにロシアが一段と強い力でフィンランドを振り回す。ロシアとスエーデンの戦いで、フィンランドはロシアに割譲され、一次大戦後の独立の時期まで約100年はロシア統治国になる。
- ロシアは対ポーランドとは違った姿勢でフィンランドに対応した。前者には容赦しない圧制だったが、後者は自治領として扱った。長いスエーデンの統治を配慮したのであろう。フィンランドはフィンランド大公国になった。大公はロシア皇帝が兼任した。ロシア語の強制は19世紀末まで行われなかった。古フィンランドが返還された。19世紀初期に斬新な都市計画のもとに首都ヘルシンキが建設される。19世紀中頃からのアレクサンドル2世統治時代は、広範囲の自治権を得た「自由化の時代」であった。
- 後世の研究者はこの大公国時代が民主主義フィンランドの基盤になったと云っている。その頃からフィンランド語が大公国の言語として認められることとなった。当時は2割りだったスエーデン語系は今は6%ほどになっているという。スエーデン語で記述されるのが普通であった文化もフィンランド語に翻訳出版されるようになり、フィンランド語で書き下ろされる小説も出始めた。
- 1880年代から一次大戦前までは「ロシア化政策の時代」と呼ばれる。自治権の制限、ロシア人の公務への採用、ロシア語化、フィンランド軍のロシア軍への統合などに対して様々な抵抗運動が行われた。日露戦争('04-'05)はこの運動を活気づかせた。ロシア革命が始まり、ノルウェーがスエーデンから独立する。ロシア皇帝は普通選挙を認めるが議会は皇帝権限で解散され、実質は第2のロシア化政策の実行となる。'17年にロシア革命が成功し、次いで10月革命でレーニンが革命首班となった。フィンランドはこの政権から独立を承認される。
- 独立宣言から1ヶ月の時期に赤衛隊(階級闘争派、労働者左派、社会民主党左派)vs.白衛隊(資本主義者、労働者右派、社会民主党右派)の内乱武力闘争が始まる。双方とも総勢9万弱程度の素人軍だった。政府は白衛隊を政府軍とする。はじめは赤衛隊が優勢だったが、白衛隊は、帝政ロシア軍で活躍した職業軍人マンネルヘイム(スエーデン系フィンランド人伯爵)を総司令官に任命し、着々と軍を整備して最後は赤衛軍を降伏させる。戦闘は5ヶ月ほどで終わった。赤衛軍は、駐留ロシア軍が本国に引き揚げる際に譲り受けた武器と4千名ほどの残留ロシア兵の参加で、当初は優勢だった。政府招請のドイツ師団の到着は戦局を決定した。
- 新生フィンランドは君主国を目指すが、紆余曲折があってのち、立憲民主共和国体制となった。内乱直後と世界大戦の反省を反映してか、大統領には強大な権限が与えられることになった。任期6年の重複再任可で、議会が可決した法案には拒否権があり、首相の任命権も持っていた。議会は比例代表制で、立法権を持つ。マンネルヘイムは大統領選に敗れ、社会民主党は指導部を一新し、議会政治重視を表明し、第1党になる。スエーデン語系を代表するスエーデン人民党は常に10%ほどの議席を保つ。私は現役であった頃常務が労働組合活動を評し、5−10%の左翼がいる方が健全だと云っていたことを思い出す。とにかく極端に走らない見事な政治感覚を国民は見せるのである。
- 独立前のフィンランドは貧しい国だったが、独立後の経済はGDP年率5%の成長を遂げ、第2次大戦前にはフランス、オランダに肩を並べる。森林資産、水力資産の活用が大きかった。注目すべきは、すでにこの時期に北欧型福祉への着実な布石が成されていることだ。女性に対する職業上の差別の禁止、炭坑労働の禁止、出産給付金の支給、年金の支給が始まったとある。妊娠期の支援体制、育児支援の保健師体制もある。我が国は福祉に国家予算のかなりを使うほどになったが、大半は老人への給付だ。少子化で労働力不足になり経済成長が止まって、その観点からやっと女性や若年者への福祉が始まろうとしている。せめて20年ほど先を見た施策をする政治家が欲しい。
- ソ連との関係は、旧フィンランド地区のロシア・カレリア地帯がフィンランド近親民族が住む地帯であることと、共産主義に対する反発が根強くあるために、複雑である。ソ連は近隣諸国と不可侵条約を締結したのに沿うように、'32年にはフィンランドとも締結した(後に一方的に破棄してソ連がフィンランドに侵攻する。)。北欧との関係は、純正フィンランド性運動にもかかわらず、緊密で、'35年には北欧諸国の中立主義への連帯を宣言し、オスロ宣言に調印する。
- '39/9のポーランドの独ソによる分割から2次大戦が始まる。スターリンがヒットラーと密約を交わさなければ、北欧中欧は全面戦火からは免れ独立を保てただろうし、2次大戦までの拡大も避けられたのかも知れない。スターリンはヒットラーと同罪なのである。ドイツ不信のソ連は防衛線構築のためにフィンランドに対する基地設置のための領土交換要求、租借地要求を行う。応じないフィンランドに対しソ連側から火蓋が切られ「冬戦争」(3ヶ月)が勃発する。ソ連は国内に傀儡政権を樹立しそれをフィンランド正統政府と見なす。総司令官マンネルヘイムは劣勢の軍備ながら用意周到であった。スキーを履いたフィンランド軍は山林でのゲリラ戦により、戦果をあげたが、ソ連軍増派の前に、休戦条約に漕ぎつける。国土の1/10を賠償!に取られた。
- ノルウェー、デンマークはドイツの手に落ち、バルト3国はソ連に併合される。フィンランドはドイツに接近する。ソ連から独立を守る唯一の方策であったろう。'40年にはドイツ6個師団がフィンランドに進出する。'41年ドイツはソ連侵攻を開始。フィンランドは旧国境を越える大フィンランド構想の実現に向かって進軍する。フィンランドではこれを「継続戦争」と呼ぶ。'44年には形勢は逆転し、ソ連の侵攻を許すようになった。マンネルヘイム元帥は大統領に就任し休戦を摸索する。ソ連軍には中欧ナチス・ドイツ軍へ兵力を割く必要があり、休戦条約に至る。両戦争でフィンランドは9万の犠牲者を出した。総人口350万だからその2.6%に当たる。42万人の難民が出た。
- 戦後処理にはノルウェーに撤退する独軍との交戦、戦争責任者の自主裁判(有罪8名だったが死刑はなかった。)、対ソ賠償などがあった。それからソ連崩壊までの47年間、フィンランドはソ連重視の現実路線により、西側からはソ連寄りと批判されつつも、民主的議会制度を維持しつつ、驚嘆に値する綱渡りで、幸運も見方に入れての中立の独立を維持する。経済協定には加盟するが、軍事同盟(NATO、ワルシャワ条約機構)には加盟しない姿勢を保った。その基本はソ連と交わした友好・協力・相互援助条約に「大国間の利害紛争の外に留まりたい」フィンランドの要望を組み入れたことと、前述の強力権限を利用した大統領の親露平和路線であった。その大統領を連続当選させた民意も評価して然るべきである。
- 戦後フィンランドは工業国に脱皮し、驚異の成長は「北欧の日本」と称された。今では1人あたりのGDPは43,492ドル(2016年,IMF)で、世界第17位、日本は38,883ドルで、第22位だ。北欧諸国はスエーデンを先頭に福祉国家への道を歩む。スエーデンに国民年金法が制定されたのが'13年(フィンランドは'37年、戦前である。)という。フィンランドは敗戦国で遅かったが、児童手当が'48年で、以降順次福祉政策が実施されている。
- コラムに「世界一まずい料理」がある。美食のフランス、イタリアの首脳がフィンランド料理を揶揄った言葉だ。イタリア首相が口にしたときは外交問題になったという。独立して1世紀だ。被支配民族は貧困と飢えに苦しむのが常だ。高級なスパイスなど使った料理は育たなかったのだろう。著者は現在はそうではないと否定している。急速に進んだグローバリゼーションと、高い所得水準がそうさせたのであろう。
- ソ連崩壊後フィンランドは急速にEUに接近する。ロシアに対する中立的姿勢は崩さない。NATOにはいまだ加盟していない。バルト3国の独立回復運動にも慎重で外見は冷淡であったため、後にその冷たさを非難されることになる。'94年のEU加盟に対する国民投票の解析は、これまでに述べてきた民族性国民性をよく表して面白い。全体としては賛成57%、反対43%。大卒者、企業管理職、企業家では突出して賛成が多かった。農業従事者は9割以上が反対、左翼同盟や中央党(農業が基盤)、キリスト教同盟にも反対が多かった。
- 冷戦後のフィンランドの平和外交路線は、当時の大統領アハティサーリのノーベル平和賞に象徴されている。平和が継続しているのを受けてか、大統領の強い非常権限は抑制される方向に進み、拒否権も取り上げられる。近年では、EU一般に見られる風潮だが、反EUや反移民政党の躍進が見られる。フィンランド人は今では1/10が外国にルーツを持つという。少子・高齢化が進んでいる。グローバル化する犯罪の余波で、この国も安全とは云えなくなっている。
('17/12/01)