ビルマの歴史U
- 引き続き、根本敬(上智大教授):「物語 ビルマの歴史〜王朝時代から現代まで〜」、中公新書、'14を読む。本稿「ビルマの歴史U」は序章から第4章までの5章である。本書は新書版にしては大部の著作で、全部で458ページ、Uの5章相当分が180ページほどになる。Tはミャンマーの今が主題だった。そのとき来年ヤンゴン訪問予定と書いた。本当に行くかどうか判らないが、行けば王朝時代(11〜19世紀)の史跡のどこかを訪ね歩くことだう。だからこのUでは、まずは植民地化までのビルマの栄華の歴史から読もう。
- 国名のビルマは王朝時代の口語バマーのオランダ読み(英語ではバーマ)から来ている。文語ではミャンマーだった。近頃は出て来ないが漢字表記は緬甸で、イギリスの侵略戦争を英緬戦争と表記する理由である。「アウンサンスーチー」('12)の時に知ったが、ミャンマーには姓がなく、昔は1音節で名を顕すのが普通だったが、今は最大4音節ぐらいの名前になっている。アウンサンは父の名、スーは祖母、チーは母がら取っている。
- Wikipediaの日本語の起源を見ると、諸説あるが「系統関係の不明な孤立した言語」と総括している。印欧語では成功した比較言語学だったが、日本語には歯が立たなかったことは有名だ。本HPの「日本人になった祖先たち」('07)、「新進化論」('08)には遺伝子から見た日本人の起源を書いている。これと「日本列島100万年史」('17)を重ねたら、我らは唯我独尊民だと諦めが付く。
- ミャンマー諸民族の言語学的分類はかなり明確に行えるらしい。大半(主要8民族中の6民族83.7%)がシナ・チベット語族の中のチベット・ビルマ語派に属するという。それ以外ではタイ諸語のシャン民族(8.3%)と南アジア諸語のモン民族(2.4%)がある。各民族内はさらに言語が細分化されていて、同一民族でも離れている2集落では言葉がなかなか通じないという。6千万あまりほどの人口に135民族という多民族国家だ。公用語はビルマ語で今ではかなり浸透した。
- 18世紀後期頃の人口は上ビルマに350万、下ビルマに120万程度だった。日本の奈良時代頃の人口である(鬼頭宏:「人口から読む日本の歴史」、講談社学術文庫、'00)。映画「山椒太夫」は平安末期が舞台だったが、田舎は人影まばらな風景だった。日本は18世紀後期には4千万をとうに超していた。それとビルマが広大で平地面積で云ったら日本の3−4倍はあろうから、資産は土地よりも労働力だったことを、頭に入れておかねばならない。
- 今の憲法は上座仏教(人口の9割に近い)の優位を認めるが、信仰の自由を否定しない。キリスト教系のカレン族、イスラム系のロヒンギャが植民地時代の過去との因縁で、苦しい立場に追い込まれていることは、Tで見てきた。
- 英国の完全植民地化を意味する第3次英緬戦争(1885年)は、戦闘らしい戦闘ではなかった。すでに内陸部に押し込められ、弱体化しているタイ族王朝(コンバウン朝)に、穀倉地帯でありラングーンをはじめとする交易港湾のある下ビルマに進出してきた英国の企業家らの主張に沿って、英国はラングーン派遣軍を北上させマンダレーに侵攻し、王宮を占拠し、王と王妃を追放した。
- 最後のビルマ王国は滅亡した。類似の条件であったのにタイ王国は形だけでも独立を保てたが、ビルマ王国はダメだった。開明君主による欧化近代化への努力は共通して両国に見られる。ただビルマでは国内抵抗保守勢力が強くて、しばしば改革が危機状態を迎えている。一番の不幸は、18世紀後期盛期を迎えていたコンバウン王朝が領土拡大政策を採りそれなりに成功を収めたが、インド東北部やパングラデシュ南東部のチッタゴン付近にはすでに英国の勢力が浸透しており、英国の危機意識をかき立てたことであろう。
- ロヒンギャ問題の地帯はアラカン王国のあった地域の一部である。征服の時に多くの住民がチッタゴンに逃げ込んだ。ビルマ軍のベンガル地方侵入は労働力取り戻しという価値観の下に行われたが、イギリスにとっては領地勢力圏侵犯であった。だがこのアラカン王国征服が今のビルマ―パングラデシュ国境を定める基となっている。
- 上述のコンバウン朝は、18世紀中頃に設立された、ビルマ族3度目で最後になる統一王国である。2度目の統一国家で220年続いたタウンダー朝がモン族に取って代わられようとしたとき、北方から立ち上がり、モン族を逆征服する。モン族王国はその後再建されなかった。モン族王朝の首都は今のヤンゴンであった。モン族はビルマに上座仏教を伝え、ビルマ文字の原形を供与した。ビルマ族最初の統一王国で13世紀中頃から始まるパガン王朝のころである。モン族はビルマ文化に多大の貢献をしたが、今は語族としては消滅しかかっている。中国の満州語族のような立場らしい。
- タイの世界遺産アユタヤ遺跡は、ビルマ王国軍のタイ侵略のあとを刻む。一度は行ってみたい観光地である。その背景にタイ系のシャン族とビルマ族の抗争がある。タウングー朝時代にビルマに「種子島」が到来した。王朝はポルトガル人を傭兵し、アユタヤ王朝攻略にも威力を発揮させた。日本と異なりビルマでもタイでも鉄砲の国産化は行われなかったとある。コンバウン王朝に入ってから2度の大規模征服戦が行われ、アユタヤ王国は1767年に400年の歴史を閉じる。
- 9/23のNHKブラタモリは高野山であった。江戸時代の山麓の絵図を見せながら、案内役が自分の母親の小さい頃までは、高野山に作物を日々のお坊さんの食糧として寄進することは住民にとって当然の行いであったと紹介した。四国では巡礼のお接待だ。私の小さい頃の京都でも雲水への喜捨は門口で再々見かけた。ミャンマーの町風景がTVで紹介されることがあるが、僧、僧院が戒律として一切を在家の喜捨に頼る上座仏教の世界を、我々は、感覚的でうわべに過ぎないかも知れないが、判る環境に育っている。植民地政府は宗教的中立を唱え、王国時代の支援体制を拒否した。今日もビルマ仏教は隆盛だ。60年を超す植民地時代を、国家と国王という重要な経済基盤を否定されながらも、よく持ちこたえたものである。
- 英国の植民地政策は巧妙であった。王朝制圧後も絶え間のないビルマ族の反乱を、インド軍の銃剣で抑え込む。インド軍は、英人上級士官を除いて、インド人の士官下士官および兵で構成されている。ビルマ人は緊急必要事態のとき以外は、兵より上級の軍人に入れなかった。ビルマはインドの食糧(セイロン紅茶などのプランテーションが雇用する労働者のための安い米)と石油等の鉱物資源の供給地に位置づけられた。インドの準州の位置から州に昇格になり、'37年にやっとインドとは別の直轄植民地の英領ビルマになる。
- モノカルチャー的産業形態ながら経済は上向く。主にインドから大量の移民が流れ込む。英国が近代化に力を入れた首都ラングーンでは、移民が6割を超した。インド人が53%、あと8%は中国人などと云う。土着民の筈のビルマ人は3割だった。住民の政治参加の道が徐々に開かれて行く。英領ビルマ時代には上下両院があり、英国提督の下で限定的な立法府として機能した。下院議席はほぼ実勢に応じた割合で各民族に割り当てられ、選挙により選ばれた。ただしヨーロッパ人は人口比率0.08%に対し、議席数は6.81%で、著しく優遇されていた。
- 英国の軍事力と経済力を背景に、少数エリートの英人(ビルマ人も後世には少数ながら出現した)インド高等文官(150人)が、現地採用の中級(221人)下級(343人)の公務員、クラークと呼ばれる一般事務職員多数(数千)の頂点に立つのが、ビルマ支配の官僚体制だった。()内数字は英領ビルマ時代。ビルマ唯一の4年制大学ラングーン大学は官僚養成学校として設立された。ビルマ族は警戒されていたし、教育近代化が遅れもしたようだ。
- ビルマの複合社会の表がある。上層が英人、ヨーロッパ人、次の中間層が英系ビルマ人、中国人、インド人、(キリスト教徒)カレン人、ビルマ人の順で並び、下層はインド人、ビルマ人の順で終わっている。ビルマ州政府が発足させた軍事警察には、インド人のほかカレン民族が大量に採用され、前出の上ビルマ併合に伴う武装反乱対策に宛てられている。この表はそんな事情も反映しているのであろう。インド人とは世界恐慌時に沖仲仕をめぐる流血対立があり、カレン民族とはいまだに戦闘状態が解けないが、ビルマ族との対立は歴史的に根深い。
- ビルマ・ナショナリズムは、20世紀初頭には芽生え始めていた。ビルマと云ってもカレン民族や辺境地帯を含まない管区ビルマの、それも主に下ビルマ(多雨の穀倉地帯)のビルマ族を中心とする。担い手は20世紀初頭から1次大戦にかけて登場したビルマ中間層である。英国が19世紀後半から導入した近代化教育機関で育った人々が担っている。親が地主であったり公務員や教員であったりの、余裕のある階層からの出身が多かった。
- 中間層を支持母体とする政治団体として、'17年頃(ウィルソン米大統領の民族自決原理の発表)から活発化する仏教青年会がある。基本的には英国と協調しながら、ビルマの地位向上を交渉しようとする態度だった。彼らは「西欧人の「パゴダ内土足の禁止」運動」を残している。曖昧な結果に終わっている。日本では西欧外交官が畳の上を土足で歩いた記録が残った時期だ。西欧人が、現代では信じられぬほどの宗教的文化的優越感を持って、外国で行動した時代であった。
- 仏教青年会は政治活動を'20年にビルマ人団体総評議会(GCBA)にバトンタッチする。大学生、僧侶活動家、農民など幅広く活動組織を広げた。分裂再編を繰り返しながらも'22の第1回立法参事会から'35年の植民地議会に進み、英国からの権限委譲に尽力する。初代首相バモオ博士から第3代首相まではGCBAにつながる系列である。彼らはすでに見た「抵抗と協力のはざま」に立った振る舞いで自治権獲得の戦いをする。だがそんな英国の準備した議会内だけの闘争に飽き足りないグル−プがあった。
- 「我らのビルマ協会(タキン党)」は'30年の前記反インド人暴動に姿を現し、党勢を拡大する。英国に妥協しない団結力ある新しい統一的ナショナルスト団体を目指し、支部組織を充実させて全国にネットワークを張ることに成功する。ラングーン大学の学生ストライキを支援し、学生からの入党を継続的に勝ち取るようになった。アウンサンの入党もこの頃という。GCBA系政治家が重視した植民地議会や内閣は、植民地支配体制を支える道具としか、彼らは考えなかった。
- ナショナリズムの発露とは縁遠いが、下ビルマの'30末から'32に渉る大規模の反英性農民叛乱は、インドからの植民地軍応援を得てやっと鎮圧できるほどの騒動だった。竹槍刀程度の武装民に無慈悲な殺戮を行い、大量の処刑者を出した。反英武闘叛乱は2度とは起こらなかったが、ナショナリストの運動に影響を与えずにおらなかっただろう。
- '37年からのバモオ内閣は、少数与党のせいもあって、政権運営は困難だった。ヒンズー教徒、イスラム教徒と仏教徒の間の紛争が鎮圧されると、すぐタキン党が組織する上ビルマの油田労働者のストライキが激化する。その長距離デモ行進を学生活動家が支援し反英デモが多発する。鎮圧軍は僧を含めて何人も射殺した。バモオ内閣の不信任案が可決される。バモオ博士は下野後は一貫して反英の闘志をむき出しにし、タキン党と共闘の独立運動の先頭に立つようになる。
- バモオ博士は'42年に脱獄、ビルマ占領の日本から念願のビルマ独立を与えられ、その国家元首兼首相の地位に就く。アウンサンはすでに独立義勇軍として日本軍と協力していた。それ以降のビルマは「ビルマの歴史T」に述べてある。
- 人名地名の入った索引と各時代ごとの地図があれば、さらに立派な一般向けの歴史書になったのにと惜しまれる。
('17/09/26)