ビルマの歴史T
- 根本敬:「物語 ビルマの歴史〜王朝時代から現代まで〜」、中公新書、'14を読む。あとがきには近現代に重点を置いたとある。国名がミャンマーとなるのは、後述の通り、アウンサンスーチーが3回目の自宅軟禁になった1989年である。我ら年配者にはビルマの方が通りがよい。
- ミャンマー関連情報でいまもっともホットなのは、イスラム系少数民族ロヒンギャの「迫害」問題である。9/15の新聞に国連総長が「軍事行動の停止」を要望したと伝えられた。ただし中国の反発で安保理の声明は何も出ていない。TVではインドのノーベル平和賞受賞の少女マララ・ユスフザイが、アウンサンスーチー国家顧問兼外相を「迫害停止へ行動しない」と非難する姿が映し出された。バングラデシュに人口の1/3の38万人が避難しているという。その映像は、避難する人々がヤンゴンの映像などで知っている東南アジア系の顔立ちではなく、パングラデシュ人を含むインド原住民族系の顔立ちである事も知った。
- 来年はヤンゴンを訪れるつもりでいる。それもあって、本書はまずは第10章の「軍政後のビルマ〜2011年以後〜」から読み始め、続いて終章の「ビルマ・ナショナリズムの光と影」に進むことにする。終章には「ロヒンギャ」なる3p.の項が最後に出てくる。スーチーの困難な立場は、10章のコラムに'13年来日時の発言として、「私は魔術師ではない」が引用してある。「カチンやロヒンギャの側に立っていないと批判する人々がいる。和解推進には(仲介人に対する)両側の信頼が前提だ。」「間違っているのは相手だけで、自らは無謬であるという姿勢では和解は進まない。」という。現在の国家間、民族間、宗教間のすべての紛争に当てはまる言葉である。
- 本HPに「アウンサンスーチー」('12)がある。名門出身で、独立運動の闘士で非業の死を遂げた父を引き継ぎ、日本の京大にも学んだ国際派だ。忍耐深い民主化運動には定評がある。多数派とはいえビルマ族は全人口の65%(新聞には7割と書いている)で、国は多数の少数民族を抱える。宗主国・英国は帝国主義的植民地政策によって、宗教対立民族対立の火種をまき散らし煽り立てた。
- いまNHKでやっている「100分de名著」は、「アーレント“全体主義の起原”」を解説している。その第1回「異分子排除のメカニズム」は、現在ミャンマーの社会に働く排他的ナショナリズムをも当てはまる。ビルマ・ナショナリズムはミャンマー域内被支配諸民族の対英独立運動のドライビング・フォースであった。だがそれがビルマ民族の連邦内少数民族に対する排他思想に繋がっている。
- スーチーは3回に及ぶ計15年以上もの自宅軟禁が解けて代議士に当選したとき、ロヒンギャ迫害停止のための根本策(国籍法改善)を提案した。そのとき支持者からもたいそうな不興を買ったという。世界は、本物であることを生涯の行動で証明済みの、上座仏教徒・スーチーの民主化への「自力本願」姿勢に、信頼を置くほかはないのではないか。私見だが、国連は、皮肉な見方をすれば、事務総長をはじめ、他国問題をまな板に載せて口だけ理路整然と割り切って見せては、点数を稼ぎたい連中で満ちあふれている。今回のロヒンギャ問題に関し、彼女が国連出席を取り止めたのは、賢明であったと思う。
- 問題の国籍法はこの国の歴史を濃縮している。第1次英緬戦争前にすでに土着していた住民が少数民族を含めて「(土着)国民」、植民地から独立したとき国籍を得た外国人(植民地化によって移住してきたインド人や中国人など)を「準国民」、そのとき国籍を取ろうとせず様子見であった外国人を、救済するためだろう、「帰化国民」と分類した。
- 準国民や帰化国民への警戒姿勢や排除姿勢は、ヨーロッパの排ユダヤ思想と同様に、あるいはインドネシア戦後の中国系排斥運動と同様に、数ではメジャーでありながら、実質生活ではその位置が危うい人たちの取る方向は共通だ。しかし国籍法では国民の範疇に納められた。ロヒンギャは、ミャンマーでは、民族としても認められない戦後混乱期の、パングラデシュ・ベンガル地方からの不法移民である。実質は「不法移民」以外に、植民地時代に移り住んできた人たちがけっこう居るようだ。ロヒンギャ以外の少数民族との武闘は納まる方向にはあるが続いている。植民地時代にビルマ族統治のお手先にさせられたカレン族との不和は根本的なものだから、納まる日が来るのかどうかも怪しい。
- スーチーの困難は、いつでも合法的に軍政に戻れるように制度が出来ており、現在の民主主義体制も、テインセイン(元大将)大統領の世界情勢や世論に対する柔軟な姿勢あってこそで、過激方向に急変する可能性は多分に残っている危うさだろう。軍の制定に近い現憲法の改憲はまず不可能だし、スーチー念願の法支配国家への成長にすらも幾多の障害が上げられている。
- 日本のミャンマー民政化以来の貢献は、5千億円あまりの対日累積債務の実質帳消しから始まり、順調である。ASEAN、米国、EUいずれもテインセイン政権の変化を歓迎し、経済封鎖が解除されるとともにアジア最貧の国からの脱皮を始めた。それでも最新の1人あたりGDPは、1270$ほどの23位だ。ちなみに22位がパングラデシュの1410$ほどだ。この所得差は、ロヒンギャへ問題への一つのヒントになりはしまいか。24位がカンボチャ、25位が最貧でネパールになっている。日本は4位の3.9万$である。勿論大人口国としてはトップである。
- 私のビルマへの関心は小学校時代からのものである。直接のきっかけはもちろんインパール作戦が華々しく新聞紙を賑わせたからだが、すぐ植民地としての苦難の歴史、同じアジア人、同じ仏教国への関心に移った。インパール作戦は無謀極まる戦闘で、大量の兵士を銃弾とマラリアや飢餓で失ったのにもかかわらず、軍法会議は一度も開かれず、司令官は戦後畳の上で往生し、尋ねられると第一線の敢闘精神の欠如を作戦失敗の理由に挙げたと聞く。この馬鹿げた軍上層部の曖昧さが他の事件とともに、戸部良一ほか5名:「失敗の本質〜日本軍の組織論的研究〜」、中公文庫、'91に取り上げられ、それを小池さんが都知事選挙で座右の銘と発表し、大勝したことは耳目に新しい。本HPには「失敗の本質」('16)として取り上げている。
- 本書では第5章「日本軍の侵入と占領」に関連の記載がある(以下9章までを順に読むことにする)。東条英機首相は'42年(昭和17年)にフィリッピンおよびビルマの将来独立を約束し、翌年占領下のビルマに独立を付与した。反英武闘を進めていたアウンサンらのパサパラ(タキン党・共産党)は、日本側のビルマ国軍に組み入れられ、アウンサンは国防相に就任する。
- 日本はビルマ侵攻当時は20万の陸軍と優秀な空軍力で、英印軍と植民地ビルマ軍を駆逐できた。だが空軍力が逆転し、インパール作戦失敗で3万を超す将兵を失った日本軍は、ビルマ内でビルマ国軍を中心とした抗日武装蜂起を受ける。日本が戦況が不利に傾いて行く中で、民衆の支持を失い見放される理由は数々上げられているが、もっとも決定的であったのが、苛酷な泰緬鉄道建設だったようだ。映画「戦場にかける橋」では、英軍捕虜の虐待が語られるだけだが、強制徴集に近い現地労務者の数は遙かに多く、死亡者数も3万はあったという。
- 義勇軍であれ独立軍であれ国軍であれ、或いは植民地政治体制に取り入れられた政治家であれ、ナショナリストたちは「抵抗と協力のはざま」を泳ぎながら、自己主張や抵抗のスペースを広げる姿勢は、レベルの差はあっても、フィリッピンでもインドネシアでも共通に見られる。今日のASEAN地域諸国が極端に走らないを暗黙の了解事項にしているように感じるのは、常に大国に苛まされてきた過去に学んだ智恵であろう。
- チャーチル首相はビルマの「将来(時期の明示はなかった)におけるドミニオン付与(連邦王国の一員としての参加)」は認めたものの、英国側の原案は、亡命植民地政権のビルマ復帰を起点とする英国の長期直接統治であった。それにもかかわらず、'48年に独立を達成出来た裏には、抗日戦線の将軍から政治家に転身したアウンサンと、時の流れに敏感であった英国総督の絶妙のバランスがあった。英国首班が保守党から労働党のアトリーとなり、非暴力の独立を唱えるアウンサンに妥協出来る英国側の環境を作った。アウンサンの人柄に対する英国側の評価は高かったことが、前進に役立ったように書いてある。
- アウンサンは行政参事会議長代行(首相級)として独立前の準備に忙しかった。その彼が行政参事会(閣議)開催召集席上で射殺された。他の参事も大半が殺された。歴史に「もしも」は意味がないが、独立寸前で大黒柱と屋台骨を同時に失った痛手がなかったら、アウンサンスーチー解放までの、ビルマ迷走の60年は、もっと短くて済んだことだろう。
- 暗殺は、戦前からの大物で、植民地政府首相を務めたこともあるウー・ソオの指揮で行われた。戦後監禁を解かれて戻ったとき、すでに独立運動はアウンサンの時代に入っていた。暗殺の真意は分からないが、アウンサンを殺害すれば英国はウー・ソオを抜擢するはずと考えていたと報じられている。
- ビルマ連邦独立後の初代首相は、アウンサンを継いだパサパラ議長ウー・ヌが就任する。彼は前年に成立した憲法に則り、議会制民主主義下での社会主義を理想としていた。現実には、共産党とカレン民族の武装反乱と、中国共産党軍に逐われて越境してくる中国国民党軍残党との戦闘に勢力を消耗することになる。一度はネィウィン(大将)の選挙管理内閣に国政を任さねばならなかった。実質は軍政で、国軍にとってはその後の半世紀に及ぶ軍政へのK/Hを獲得する試験期間になった。
- 日緬の戦後はこの頃からだ。ビルマ米の大量輸入は日本の食糧難を救い、賠償交渉のスムースな進展はビルマの復興に役立った。鈴木機関と書いてあったと思うが、ビルマの独立運動に真摯に携わった人脈が、交渉の裏側でおおいに役立ったとある。賠償額は低く抑えられた。その後のフィリッピンやインドネシアとの交渉が、日本にとってなんとかリーゾナブルの価格で落ち着いた基礎を作った。のちの賠償再交渉でビルマ使節団は「日本は兄、ビルマは弟」と明言し、諸外国の外交筋を驚かす。その後の日本はODA大国として、'88年の第2次クーデターまでに総計5千億円以上の援助を行う。
- '62年ビルマ国軍はクーデターに走り、ウー・ヌ政権を倒す。ネィウィンを議長とする革命評議会が全権を把握。彼はビルマ社会主義計画党BSPPを創立、既成政党は全党解散の一党支配になった。ビルマ式社会主義とは、物質のマルクス主義ではなく、反共の人間主体主義とあるが、理想はともかく、実体はうまく機能せず、ビルマは周辺から立ち後れることとなった。26年後の'88年に学生を中心に民主化運動が起こり、軍政が解除される。アウンサンスーチーがデビューする。だがすぐ2度目の軍によるクーデターが銃弾で民主化運動を押さえ込む。学生は全ビルマ学生民主戦線を作り、これまでの抵抗勢力のカレンやカチンの組織と共闘を始める。
- 新軍事政権はBSPPを解党し、ビルマ式社会主義の放棄、市場経済への移行を標榜する。国名地名をビルマ語表記に合われた。ミャンマーやヤンゴンはこのときからである。政党の結成を認め、'90年に総選挙を行った。国民の新体制への期待は高く、7割を超す投票率であった。スーチーは自宅軟禁されたが、書記長を務める国民民主連盟NLDは圧勝する。意に沿わない結果に軍部は議会無視の姿勢に転じた。
- NLDは事ごとに抑圧を受けながらも、非暴力を貫き、軍との忍耐強い民主化交渉を展開する。スーチーは2度目の自宅軟禁処分を2000年に受ける。その前の彼女の写真が出ている。20年ほど以前とは云え、今日の彼女の皺と白髪の多い写真と比べると、彼女の苦難が感覚的にも判る気がする。スーチーは2年後に軟禁を解かれるが、日に日に高まる彼女とNLDの人気に対抗して、軍は翼賛団体を使った襲撃事件を各所で引き起こす。集会に向かうスーチーは運転手の機転で難(ディベーイン事件)を免れたが、次の町で軍に「保護」され、3回目の自宅軟禁となった。
- ビルマ軍は軍備増強に精力的であった。兵員数48.8万は東南アジア第1位という。装備も中国やシンガポール経由で近代化した。辺境での戦闘や国内の強圧的支配に有効な増強であった。首都を内陸のネイピードーに移した。米軍の上陸戦を心配したからとも書いてある。学生運動対策に大学キャンパスをヤンゴン中心部から引っ越させる。資源国であるため財源に困らなかった。
- インド、ロシア、中国、タイが軍政支持に回ったのは、ビルマの資源と市場の魅力だともある。米国やEUは政治体制に反発し経済制裁を科した。我が国もそれに従ったが、支持側への空白地帯を儲けたようなものだった。インドには中国南下に対する心配もあった。ASEANは強力な足枷ではなかった。国民は一種諦めムードにあった。軍政は23年続いた。3回目の軟禁から解放されたとはいえ、スーチーの政治家としての環境は、重ねて指摘するが、いつでも合法的に軍政を復活できるという厳しいものである。
('17/09/20)