サピエンス全史(下)V

第17章「産業の推進力」にはお馴染みの話題が列挙される。本章最後の項目は「ショッピングの時代」で、資本主義がもたらす生産拡大の必然の受け皿としての消費主義の展開について述べる。私にとってインパクトの強かった話題は、先進畜産業の工業化機械化である。第2次農業革命の一つとして取り上げられている。家畜は畜産製品生産に無関係の生命力本来の活動を否定され、身動きならぬケージで強制或いは人工受精の子供や卵を産み、あるいは適度に成長したあとで計画屠殺される。かってのアフリカ奴隷に対する姿勢と基本的には同じだ。
「安寿と厨子王」は平安中期11世紀後半の物語である(「山椒大夫・高瀬舟他四篇」('02))。かなり「たが」は緩んでいたが、まだ上古からの政治司法制度は機能していた。それでいて山椒大夫の地域コミュニティに国家の警察力は及ばない。今やっているNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」はコミュニティ・トップの立場を描いているが、山椒大夫に描かれた状態からさして変化していない。本書には、生産力が乏しく余剰価値を殆ど生めなかった時代の国家体制は、そんなものだったと書いてある。日本に頂上権力が近代的息吹を打ち出すのは、織田・豊臣政権からであろう。
このHPに「家族進化論」('16)がある。お猿の時代から近世〜近代に至る家族関係の進化について詳しい。第18章「国家と市場経済がもたらした世界平和」は、産業革命が導いた国家と市場経済が過去2世紀の近代から現代に至る過程に於いて、過去の「家族と地域コミュニテティ」の絆を弱体化させ、ついには崩壊させ、強い「国家と市場」および強い「個人」を生んだことを立証する。決定権に関して、個人が家族と地域コミュニティを凌駕するようになった。
家族と地域コミュニティに置き換えられたのが想像上のコミュニティだ。国民は各国家に特有の想像上のコミュニティであり、消費者部族は市場の想像上のコミュニティである。国民のコミュニティはこの数十年で、消費者部族の前に、次第に影を潜めつつある。グローバリズムが否応無く視野を広げ、平和が続けば、国民を意識せねばならぬ事態は遠ざかり、阪神ファン、AKBオタク或いは環境保護論者と云ったチケットや同一行動からの部族意識が広がる。
現代の国内平和に対する国家組織の貢献を殺人率で示してある。中世ヨーロッパの王国では、10万人あたり年20−40人が殺害されたが、現在の中央集権化されたヨーロッパ諸国では、年間の殺人発生率は10万あたり1人という。日本は0.31で香港やシンガポールのような統治しやすい都市国家を除けば、世界でもっとも安全な国家だ。ましてやそれが億を超える人口の、バラエティに富んだ文化の島国である事を考えれば、驚異的である。選挙のたびに「慰安婦」で民族を強調せねばならぬ国(裏返せば地域コミュニティの力がいまだ隠然たる勢力を持ち続けている国だ)は0.74で、国家を強調する必要のない我が国とは対称的である。
太平洋戦争以来72年を経て、私はもう日本を地獄にする国家間戦争は起こらないと確信している。こんな楽観的な見解は、人間の歴史始まって以来のものだろう。本章最後の項「原子の平和」は納得の行く理由を提示する。広島、長崎は核戦争の代償の大きさを世界に確信させた。ノーベル平和賞は「逆説的に」原発開発者に贈られるべきだと書いてある。戦争に勝っても冨は奪えない。現在の冨は人的資源や技術的ノウハウ、あるいは銀行のような複合的な社会経済組織からなる。平和は貿易や投資を通じて対外関係の重要性を増加した。その絡み合いは解くに解けぬレベルに達している。見逃せないのは、指導層の平和志向だという。
本書の第19章が取り上げる、幸福の歴史というカテゴリーを意識したヒトは、世の中に殆ど無いのではないか。アンケート調査では、幸福はある程度までは経済事情が影響すると言う。所得がある水準を超すと冨の幸福度への寄与は減ってしまう。健康とか社会因子とかある程度客観的に把握出来る要素以外に、人間の期待が決定的に重要である。個人が感じる幸せは、飽和しやすいはかないものだ。到達すればすぐ次が欲しくなる。現世での家族とコミュニティの後退は、増加した物質的満足感を相殺している。持てるものに満足する方が、ほしいものをより多く手に入れるよりも遙かに重要だとは、古代の哲人の教えだ。
本書には取り上げられていないブータンの「国民総幸福量(GNH)」は、数百に及ぶアンケート項目により、事細かに心理的幸福を問いただしている。国家スケールの主観的厚生の把握を目指すものとして注目される。国連の世界幸福度報告は、自分の幸福度が0から10のどの段階にあるかを答える世論調査(ギャラップ社)によって得られた数値の平均値であり、主観的な値である。我らは世界トップクラスの長寿国、徴税額の6割以上が福祉費となる国の国民だ。さぞかし高い幸福度が出ていると思いきや、ずいぶんランクは下なのである。
1位のノルウェーから10位のスエーデンまで、所得が高く人口密度が低いキリスト教国が並ぶ。仏陀は、「苦しみは渇愛から生じる」と悟り、欲望からの離脱を説いた。国連調査ではそれがキリスト教国で実践されているかのようだ。でもGNHでは高い仏教国ブータンが日本より遙かに国連幸福度が低く出ている。主観的厚生の数値表現など調査方法次第だろう、まだまだあてにはならぬということか。
仏教はおそらく、人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視しているとある。主観的厚生を計測する質問表では、私たちの幸福は主観的感情と同一視され、幸せの追求は特定の感情状態の追求とみなされる。国連幸福度はそうだ。対称的に、仏教を始めとする多くの伝統的な哲学や宗教では、幸せへのカギは真の自分を知る、すなわち自分が本当は何者なのか、或いは何であるのかを理解することだとされる。今までの歴史書は、事件や進歩が各人の幸せや苦しみに与えた影響について語ることはなかった。これは、人類の歴史理解にとって最大の欠落と云えると云っている。
生化学的な幸せのメジャーは、脳内報酬システムの活動度合いだろう(本HPの「脳内麻薬」('15)、「なぜ皮膚はかゆくなるのか」('15))。物質的にはドーパミンの量で(快楽感はそれだけで決まるものではないが)評価できる。本書はセロトニンで説明してある。私のHPでは、セロトニンはニューロン間作用物質に変わりはないが快楽伝達神経物質としては脇役的で、「頭痛の話」('05)や「エピゲノムと生命」('13)、「神経とシナプス」('16)に出ている。はてどちらが正しいのであろうか。
端的に言うと、中世の水飲み百姓が干魃の饑餓状態の時に一束の稲、握り飯半分を手に入れたときの喜びと、現代の億万長者が望みの豪邸を手に入れたときの幸せ感は、ドーパミンで計ればさしたる差が出てこないだろうと云うことだ。もうひとつ大切なことは、同じ幸運に恵まれても、ドーパミンの出ようは個人差がかなり大きかろうと云うことだ。これは日常よく経験することだ。さきの国連幸福度の国別の大きな差は、ドーパミンの出方に民族差があると云うことだろうか。

('17/06/28)