痛覚のふしぎT
- 伊藤誠二:「痛覚のふしぎ〜脳で感知する痛みのメカニズム〜」、講談社Blue Backs、'17を読む。近頃理工系の一般教養書の出版が減っている。その中で割と健闘しているのが生物系ことに医系だ。物理や化学の進歩の恩恵を受けて、分子のレベルで生物を観察できるようになったのが大きい。著者は京大医卒の研究者。中高を真面目に勉強した人に判るように書いたという。確かに内容は高度だが分かり易い書きぶりだ。
- このHPには感覚器官を扱った私の妄言?が幾つも入っている。「伽羅」('95)、「生物たちのハイテク戦略」('02)、「細胞紳士録」('04)、「昆虫−驚異の微小脳」('06)、「においの科学」('10)、「酒とつまみ」('10)、「感覚器の進化」('11)、「こころの脳科学」('13)、「生命の行方を握る細胞活動」('14)、「なぜ皮膚はかゆくなるのか」('15)、「神経とシナプス」('16)、「脳・心・人工知能」('16)、「つながる脳科学」('17)などなど、検索するとゴロゴロ出てくる。本題の痛覚を主題にした本は読んだことがないが、「なぜ皮膚はかゆくなるのか」には痒み、冷暖覚、痛覚が隣り合わせの感覚だと記してあったことを覚えている。
- 将軍綱吉の「生類憐みの令」を知った頃、将軍も犬猫が人と同じ感覚器を持っていると思ったのだと感じた。私は犬猫よりさらに遠い魚介類や昆虫の類では、ことに捕食される寸前に、どんな感覚を持つのだろうかと今も関心を持っている。「まな板の鯉」の人間的解釈は信用できない。死の運命を従容として待ち受けるなんていう「心」が魚にあるはずがない。残念ながら数々読んだ教養書にはこの問題は出て来なかった。餌にありつくため異性を探すため或いは防衛のための感覚は、人との比較でいろんな角度から研究されている。
- 私は帯状疱疹を2度も患った。急性の侵害受容性疼痛と分類される。皮膚の炎症反応だ。原因は、後根神経節や三叉神経節などに子供の頃から何十年と潜んでいて、免疫力が落ちた時を見計らって出てくる水痘ウィルスであると教わっている。たいていは一生一度だと聞いていたが、高齢のために2回目が来たらしい。幸いだったのはどちらも帯状疱疹後神経痛が出なかったことだ。皮下の神経線維が侵される神経障害性疼痛の前に治療して貰ったおかげである。
- 急性疼痛は生物に備わる防衛信号だから、原因は突き止めやすい。場所のセンサーがない内臓であっても、ガスが抜けたらすっと直る場合がある。「男はつらいよ」の何作目かで、マドンナが大原麗子の時に、寅さんが仮病でこの腹痛を演じて、観衆を笑わせたことを思い出す。あれもすっと直ったことになっていた。でも痛みが続き慢性ともなると原因は単純ではなく、大脳の痛覚構造を含めた総合的診断まで必要になる。X線では見えない慢性腰痛は心の問題が深くかかわり合っているとある。腰痛は画になるのか、NHKスペシャルや「ためしてガッテン」などに数多く登場している。
- 心の問題であることを示唆するデータに、手術不能膵臓ガン患者の除痛処置のあるなし比較がある。内臓神経を化学的に切除された患者は、痛みから解放されて3倍以上生き延びたという。緩和ケア一般にこのことは当てはまるらしい。患者の生きる意欲が持続するためのようだ。
- このHPの「トウガラシの世界史」('16)にはトウガラシの辛さ(有効成分:カプサイシン)は、舌の痛覚だとしている。インカ帝国の人々はスペインの侵略軍に対してトウガラシの目つぶし(狙いは目の痛覚)を投げたそうだ。一方痛覚の刺激で人は汗を?く。辛さには慣れがある。熱いお湯でもしばらくすると感じなくなる。痛覚と温感は同じセンサーを使っている。カプサイシン受容体遺伝子がクローニングされ、イオンチャンネルのタンパク構造が明らかになった。これが熱風呂(43℃)を痛みとして伝える熱受容体にもなっている。そのノックアウトマウスが作られ証明された。
- 遺伝子の似たもの構造を追求してイオンチャンネルファミリーを取り出した。カプサイシン受容体を含めて合計5種に及ぶ。冷刺激で痛みを感じる15℃で活性化する冷受容器から、熱いフライパンにでも触ったら飛び上がらせる52℃以上で活性化する熱受容器まである。大根おろし(ワサビやショウガも)は15℃冷受容器、薄荷は23℃のもの、樟脳は30℃のものと対応していて、爽快感を口から味わう理由になっている。
- 皮膚の下には4種の触受容体がある。それとは別に侵害刺激に対する自由神経終末がある。触受容体は、温度受容器と同じく、持続的な刺激に対してすぐ反応を止めてしまう速順応性のものと、ゆっくり順応する遅順応性のものがある。運動野に結びつく主要な感覚だから、大脳内ではこれら機械的受容が統合されることになる。発見されたピエゾ2という機械刺激で活性化するイオンチャンネルは、ネズミのヒゲから発見された。植物界にも分布する凡生命界的機構である。ただ包括的なファミリーを作っていないために、まだ他の触や圧に対する遺伝子は発見できていない。ピエゾ2は痛みを伝える機械侵害受容器の役割を担っていない。機械的調理例えばお刺身のときの生魚の「苦しみ」の解明はまだ先の話になる。
- 胃潰瘍と虫垂炎は内臓痛の代表だ。内臓の感覚神経終末に低閾値受容器、高閾値受容器、サイレント受容器の3種が上がっている。一過性の強い刺激は高閾値受容器を活性化し、それが低閾値受容器やサイレント受容器を引っ張って、弱い内臓刺激にも敏感となり過敏性或いは機能性消化管障害をもたらす。健康なときは、消化管の煽動運動は、低閾値受容器を刺激しても自律神経により統御されて痛みにならないという。
- 内臓痛の機械侵害受容器はいまだ判っていないが、化学侵害受容器は解明されている。化学的な受容器タンパクには酸感受性イオンチャンネルとカプサイシンでお馴染みの熱の侵害受容器が関わっている。胃潰瘍は胃酸の刺激だ。過運動による筋肉痛は乳酸生成による、心筋梗塞或いは腎結石も乳酸生成のためという。
- 山伏の火渡り、快川和尚の「心頭滅却すれば火もまた涼し」など生理学的常識を超す行動をやってのける宗教人がいることは確かだ。話を聞くだけで身体が震える。だが、高温を感じない遺伝子欠陥を持つ家系が見つかっているとは知らなかった。先天性無痛症という。ナトリウムチャンネルの遺伝子ファミリーの7番目の遺伝子の欠陥だそうだ。フグ毒のテトロドトキシンは多くの種類のナトリウムチャンネルを阻害する。正座で足が痺れるのは、末梢神経の静止膜電位維持のために、ナトリウムイオンをくみ出すためのエネルギー源を産生するミトコンドリアが、血流不足で十分働けなくなったため、感覚が無くなるのだという。
- 固有知覚とは自分自身の四肢や頭部の位置、姿勢、筋肉の動きに関する感覚である。神経の伝達速度は4段階に分かれていて、新幹線並みに早く伝えているのがこの固有知覚だ。次が触覚圧覚で、自動車並み、その次が早い痛み、最低速が温覚とか遅い痛みである。最低速のは無髄だがそれ以外は有髄で、髄鞘(ズイショウ)を飛び越すように伝達される。高速ほど髄鞘は長く神経線維が太い。シナプスによる中継も含めたここら辺の機作は「神経とシナプス」('16)、「つながる脳科学」('17)に詳しい。
- 脊髄には下行性疼痛制御系と言う神経系がある。侵害情報を脳に送るかどうかの門番役として閾値のレベルを調節しているとされている。「ゲートコントール説」というのだそうだ。
('17/03/26)