つながる脳科学T
- 理化学研究所 脳科学総合研究センター編:「つながる脳科学〜「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線〜」、講談社BLUE BACKS、'16を読む。「つながる」の意味は脳科学はもはや要素を追っかけている時代を卒業し、脳を有機的なネットワークシステムとして捉えることが可能になってきたと云うことのようだ。編者のトップはノーベル生理学・医学賞受賞の利根川進博士である。
- 最初にその利根川さんの記憶機能が遺伝子レベルまで詳細に調べられるようになったという話がある。海馬(記憶)や扁桃体(感情)のニューロンに遺伝子操作を施し、光に反応できる脳(オプトジェネティクス:光遺伝学)とし、恐怖とか快楽を人工的に操作できる(ただしマウス)ようになった。アルツハイマーほかの精神病に対する治療への展望が述べてある。
- 神経生理学の実験は、1ニューロンに1個の電極を宛てて、各個の神経細胞の発火を記録出来るところまできた。ただし今は1プローブの電極数は60本ほどに限られる。海馬だけでも何百万(マウス)、何千万(ヒト)のニューロンをもつ。数万のニューロンの興奮を同時に記録出来るようになれば、進歩に与える貢献は著しいものがあるだろう。大脳新皮質の一次視覚野では、網膜で受けた刺激が規則正しく投影される。でも海馬の情報処理はそんな1対1の単純処理ではなく高度に複雑だ。
- ノーベル賞になった海馬の場所細胞の発見は、海馬の機能解明の足がかりとして貴重であった。場所細胞はシータ波と呼ぶ10Hzほどのバックグラウンド興奮の上に、違ったニューロン上に一連の行動位置を記憶するが、場所細胞全体としては1つの波に順序正しく圧縮表現したような興奮になる。さらにもうひとつの100Hzほどのリップル波と称するバックグラウンド興奮で、行動前後で回顧リプレイさせているという。順序も前と後では逆さまになると云う。復習・予習をするとも云える。記憶強化システムであり、ある種のエピソード記憶であると言える。
- 空間情報に対応するものの認識が経時的に残っている。空間認知と同じようなシステムで、エピソード記憶のような脳の情報処理システム全般が動いているのではと、筆者は考えている。脳における空間性と時間性はある程度近いだろう。時間性はものの変化の順序性として把握されているはずだ。そしてその時間は波動の形で脳内で管理されている。
- 場所細胞は位置情報を絶対空間として覚える。空間情報は複数の場所細胞に記憶される。解像力に粗密があって、低い分解能でも広く把握できる場所細胞は、感情の扁桃体に結びつき空間の印象を表す。空間形状の認識に関わる閾値には個性があり、動物の主観に関わっている。脳内には地図の原型のようなものが備わっていて、その雛形で現実をまずは理解しようとするのだとか、夢に現れる場所細胞のリプレイが、レム睡眠とノンレム睡眠では異なるバックグランド波によるとか、面白い知見が満載だ。
- このHPに「神経とシナプス」('16)がある。本書の神経伝達機構の記事は全体としてのダイナミックス記述に特徴がある。ニューロンが発火してもシナプス伝達は10回に3回ほどで必ず伝わるわけではないという。1個のニューロンに数万のシナプスがあり、隣のニューロンと交信する。受信側が樹状突起にあり、送信側が軸索に犇めきあっていている。主な神経伝達物質はグルタミン酸である。隣り合ったニューロンは多数のシナプスで互いが結びつけられているが、それらは相互に何らかの統合協調がなされることが、シナプス小胞(中に伝達物質を包み込んでいる)の追跡で明らかにされた。
- 同じ樹状突起と結びついている軸索のシナプスは、同じレベルのシナプス強度を示す。たまたま1個のシナプスだけが強度が高くても、周囲が平均化してくれるのだ。不活性化すると逆に活性化するように導く。シナプスの信号伝達はシナプス前部から後部への一方通行ではなく、後部からのフィードバック信号が伴って安定化している。その機構の一部を細胞接着因子のタンパク質が担っていることは確かめられている。
- 異なる軸索相互間にはフィードバック機構が働くか。強く連続した刺激にさらされたシナプスは強度を増す(長期増強:LTP)。(逆の長期抑圧:LTDもある。ヘブの法則は有名な仮説。)ところが何度も強度を上げ続けるといわゆるてんかん様(ニューロンの過剰活動)を来たし、脳に有害だ。神経回路は各シナプス強度の関係を維持したまま、全体的に強度を下げることが出来る。神経回路全体における恒常的可塑性である。それを担うものとしてグリア細胞がクローズアップされだした。脳はニューロンとグリア細胞によって占められている。この実験はニューロン細胞の培養から始まる。分離したニューロンの2本とか3本といった単位での実験系で、シナプスの強度を化学物質で制御するという極精密な研究である。
- 感覚器の代表として嗅覚が取り上げてある。このHPの「細胞紳士録」('04)には嗅細胞の種類と受け持ち範囲を書いている。「においの科学」('10)や「感覚器の進化」('11)にはメカニズムに踏み込んで書いている。そのほか匂いの不思議についていろんな記事を載せてきた。本書は嗅覚機構をショウジョウバエを使って解明しようとする野心的な試みを紹介している。ショウジョウバエの利点は、何と云ってもニューロン数が少なくヒトの100万分の1ほどで、番号付けをして区別出来ることだ。一次嗅覚中枢は糸球体の集合である。同じ匂い応答をする嗅覚受容細胞は、同一の糸球体に収容されている。その数僅かに50個。匂いは一般に複数種類の匂い受容体と結合して、複数の嗅覚受容体と糸球体を興奮させる。
- TVの動物番組ではマーキング挙動をよく紹介する。オシッコを要所要所にかけて自分の存在を主張する動作だと解説されている。散歩していると、いつもは従順な小型犬が、飼い主に逆らってまで、懸命にオシッコかけをやっているのを見かける。糖尿のヒトの小便は別だが、我々は自分と他人を小便の匂いで区別することは出来ない。でも大祖先はそれが出来たのであろう。
- ショウジョウバエは嗅ぎ分けの原理を明らかにしてくれる。受容細胞から糸球体で受け取った刺激は、二次細胞の興奮に比例的に変換されるのではなく、飽和曲線に乗った変換で、微量成分に対応する頻度の低い刺激には、拡大率の高い興奮になって脳に伝わる。それで自他の微量成分差が把握されるというわけだ。
- 実験は極々細微の電極と二光子励起顕微鏡を用いて行われた。極々細微電極は体長3-4mmの中のショウジョウバエの300ミクロンほどの脳の3-8ミクロンほどしかないニューロンにあてがうのだから、技術的困難が良く理解できる。二光子励起顕微鏡は私の現役時代にはなかった道具だ。100ミクロンほどもない一次嗅覚中枢を輪切りにスキャンして、その3D像を600ミリ秒で作り上げるという優れものだ。匂い応答のトレース実験にはこれで十分という。
- 匂いに対して脳はどんな行動を身体に命じるか。二次細胞の集合として推理できる方向に実際に身体を動かすか。この実験がまた面白い。電極を脳に通し、頭だけハエを固定する。ハエの周囲を仮想空間で取り囲む。仮想空間とは飛行操縦士のフライトシミュレーションを行うような部屋と思えばいい。ハエは飛んでいるつもりになって羽根を運動させる。その運動を分析して、ハエの意志を確かめる。筆者らは、匂いに対する糸球体の活動を記録し重み付け加算を行った結果が、ハエの行動になると云う数理モデルを作った。この結果は、ニューロンの直接制御を行うオプトジェネティクスによっても確認されたという。
('17/02/02)