城下町:結城
- 一昨日寒い冬日だったが、結城の町への日帰りの旅を楽しんだ。先月の大人の休日倶楽部誌に載っていたコースをほぼ忠実に辿った。4時間弱を結城で過ごした。振り返ってみて結城紬と寺社見物の旅であったように思う。最後に予定にはなかった結城城址公園訪問をやり、鎌倉時代からの結城の歴史を知ることが出来た。人通りが少なく、車もあまり見かけない落ち着いた雰囲気の町であった。
- 結城氏は秀吉の頃11万石ほどだったとwebにある。結城氏は後に福井に転封され、お城は廃城になるが、1世紀を経て水野氏が1.8万石で入部し再興される。土塁で出来た平城で、結城氏時代は勿論水野氏時代の遺構も、まったくと云っていいほどに残っていない。史跡調査で曲輪の位置や空堀が確かめられている。そう思って眺めると、空堀跡はなだらかな凹みになっている。ローラリークラブの立て看板に、結城城は結城合戦(1440年)で有名とあった。このHPの「歴博の新収資料」('99)に結城合戦絵詞(重文)を鑑賞したときの記事が出ている。幕府と地元侍の大戦で、落城までに1年有余かかったという。公園は本丸跡と云うが、大して広くはなかった。
- 倶楽部誌は見世蔵を中心に紹介している。見世は店に通じ、店舗兼住宅の木造建造物である。散策前は、藏とあるから土蔵タイプを想像していたが、土蔵風であったのは甘味茶蔵・真盛堂だけだった。倶楽部誌の推薦に従って、そこの2Fで休憩した。天井板はなく太い木材の梁が露出していた。町中の登録有形文化財の見世蔵には、金属板の文化庁のキャプションが建物の由緒を説明してあった。キャプションのある建物は殆どが明治から昭和にいたる頃の建築で、伝統様式に従った建物のようだ。今は事業からは手を引いて、住宅として使われている家が多い。駅に降り立ってしばらくして道に迷ったときに、親切なおばあさんが案内してくれたが、そのとき活気が無くなった町と自嘲的に云った。その印象はこの一日の間私の頭からも消えなかった。
- 見世蔵には結城紬関連の建物が多い。その焦点にあるのが問屋の奧順である。もう正確には思い出せないが、半世紀以上昔に奧順とその展示室を見学に訪れている。当時新幹線はまだだったし、結城駅は木造の貧素な駅舎だった。今回の訪問で駅に降り立ったとき、あまりにもモダンな姿に変身しているのでびっくりした。今回見た奧順の店舗は、日曜日だったこともあるのかも知れないが、他の結城関係見世蔵と同じく、人影が無く静かだった。半世紀前は店には活気があって、そこを通って奥座敷の展示場に通されたように記憶する。店舗の裏は、つむぎの館という和風博物館になっていた。そのパンフレットによると奧順の建物5棟が登録有形文化財の指定を受けている。これらの建物の中は見学できなかった。
- NHK朝ドラ「鳩子の海」のロケ現場であったと、離れの前に立て看板が出ていた。「鳩子の海」は'74-'75年のドラマである。先の訪問の時の記憶にはないから、今回はやはり半世紀ぶりなのだろう。つむぎの館の中に「手緒里」資料館がある。そこだけ有料になっている。「鳩子の海」で使用された紬の防空頭巾が展示されていた。「鳩子の海」は見ていない。原爆のショックで記憶を失った少女の物語だったようだ。NHKオンデマンドで見れないかと検索したが、さすがに古すぎるからであろう、出て来なかった。
- 資料館は小振りだが、歴史から製造工程などを要領よく纏めてある。文献上の初出は常陸風土記だから奈良時代だ。2000年の歴史があるという。?(文字情報では訓読み:つむぎとなっている。説明パネルでは「あしぎぬ」)が室町時代あたりから常陸紬にかわり、それが江戸時代に結城紬になったとある。領主結城家の育成保護のもとに発展し、国の重要無形文化財になり伝統工芸品に指定された。?があしぎぬ(悪い絹)と呼ばれた理由は、中国朝鮮との交易で輸入される絹製品が、精巧絢爛であったのに比較しての呼び名だったらしい。その?は東?で、中でも常陸国が中央政府に差し出す調としては他を圧していたという。
- 今でこそ結城紬は高級品扱いだが、今日のような美しくも見事な図柄に織り上げられるようになったのは、ごく近年のことである。もともと無地の男物として出発した。女物としてもて囃されるようになるのは明治後期以降で、縮織や絣(かすり)製織技術を取り入れ発展した。粋ではあるが一見木綿に見えるほどの地味さが、江戸時代の倹約令とか奢侈禁止令の難を免れさせたという。縮は衰退し今は結城の大半は平織という。機織りはイザリ機を使う。駅前の観光物産センターにはイザリ機が2基あって、その1台を織子が実演して見せていた。細かい模様だと1日10cmほどで、1反に2-6ヶ月かかるとあった。だがもっとも手間暇の掛かる工程は絣くくりで、絣糸に図案をもとに墨で目印を付けそこを木綿で縛って行く根気の要る仕事で、熟練者でも1日に2000箇所ほどしかくくれないという。
- 庭にマンサクの花を見た。花の少ない季節だ。こんな小花でも目立つ。
- 11万石の城下町である。寺社が集まっている。全部は見切れなかった。まず時宗の常光寺、13世紀の建立であった。門前に鋳銅阿弥陀如来像がおわす。室町時代という。次が浄土真宗の称名寺。結城氏初代から4代までの墓があるという。周囲を民家に削られてはいるが広い境内である。曹洞宗・孝顕寺。16世紀結城家の建立。のちの領主水野家の菩提寺でもある。地蔵尊の祠。きちんとした建物である。
- 浄土宗・弘経(ぐぎょう)寺は、結城家に養子となった、家康の3男にして秀吉の養子でもあった秀康の、息女追善のための建立という。訪問先では最も広いお寺だった。表門からの参道に隣り合って結城酒造があり、赤煉瓦の煙突を覗かせている。俳人・砂岡(いさおか)雁宕(がんとう)の句碑がある。彼は蕪村と同門だった由。毘沙門天の祠と門前の追分道標石灯籠2基。追分だから、もともとはもっと町外れに別々に立っていたのを、役目を終えたから、この地に移設したのであろう。
- 時宗・金福寺。真言宗・光福寺。幕末の佐幕派対朝廷派の藩内抗争や対官軍戦争の犠牲者を葬る墓があるという。愛宕神社。県社健田須賀神社。奧順店舗からつむぎ館に至る街角の地蔵尊の祠。その脇には二十三夜塔なる石碑があった。二十三夜塔については、本HPの「ワッフルランチ」('16)でコメントしている。庚申塔にも何処かで出会った。城址公園内の聰敏神社。地図を見ると寺社はまだまだあるが、少なくとも門前を通った寺社だけをリストアップした。
('17/01/24)