中華文明史(明清―近代)T
- 袁行霈ほか3名:「北京大学版 中国の文明7 文明の継承と再生[上](明清―近代)」、稲畑耕一郎監、松浦智子訳、潮出版社、'16を読む。全8巻の大きな著作の中の1冊で、「中華文明史」は原本('06)の題名である。第7、8巻で明代中期から清末期(16世紀から20世紀初頭)までを描く。第7巻はその前半の清中期あたりまでに注力している。原典が中国人研究者の手になる単行本であることは一つの注目点だった。私は今まで単行本の形で彼らの、彼らによる中国文明の解説を聞いたことがない。本書の主要参考文献にリストアップされた日本語文献(単著)の多さに驚く。中国よりも日本の方が中国史研究が進んでいると聞いたことはあったが、漢文漢語資料より数が多いとは思っていなかった。
- 明中期から清中期迄の間には、秀吉の朝鮮出兵という事件はあった。しかし貿易は別として日中交流の比較的淡かった時代だ。私には断片的な知識しかない時代だし、中国ブームで催される歴史文物展示も、古代はあっても中世より新しいものは少ない。むしろ琉球や台湾、中国旅行での見聞が理解のベースになっている。その断片的知識の一番新しいものは、「儒教とは何かT、U、V」('16)だった。本書の第7章「西洋学問の東洋への伝播と中華文明の外国への伝播」はキリスト教宣教師の活躍から入っている。宣教師は儒教、仏教との絡みで面白い行動を取っているので、ここから読書をスタートさせた。
- 日本で宣教師が歴史に顔を出し始めるのは信長時代だ。中国でもほぼ同じ時期だ。まず宣教師マテオ・リッチの活動が注目される。彼は僧形で西僧と称して中国に入ったが、中国政府の儒教重視の姿勢を知り、儒学者の服装で政権と接触する。彼の布教戦略は「適応」であった。彼は高級官僚である士大夫に親密なネットワークを張り、学術を利用した布教を行う。「儒教とは何か」にも再々顔を出した祖先祭祀とか孔子崇拝などの、民族に継承された典礼を宗教儀式とは考えなかった。キリスト教徒が孔子廟に詣でることを否定しなかった。当時の西欧の力では、フィリッピンでは出来た武力制圧と強制的帰依は中国では不可能と悟った結果である。
- 明末の西洋学問の浸透は著しかったのであろう。反キリスト教、反西洋の著作も伝わっているから、逆にシンパの隆盛ぶりが伺える。シンパ側から、エリート中のエリートである士大夫に非凡な見識のキリスト教徒を輩出した点が大きい。彼らの受容精神は「擬同」という。「東海、西海、心は同じく、理も同じ」と云うことだそうだ。清初になると「西学東漸」の流れは、宣教師と皇帝の関係になる。皇帝中でも康煕帝は西洋の科学技術の導入にひときわ熱心であった。だが明末の士大夫と異なり、キリスト教の教えには何ら関心を持たなかった。宣教の自由を得るために、宣教師は科学技術を餌にしたと言う構図のようだ。洋学はまず暦学天文学で、中国の「大統歴」とイスラムからの「回回歴」を打倒した。信頼を得た宣教師は宗教書131種、暦算書100種、ほかの理系書55種を刊刻している。「天文学を装ったキリスト教を使えば、高官に接近しやすくなるでしょう」というイエズス会宛の書簡が残っているそうだ。
- 反西洋派との抗争で宣教師側は何度もピンチを迎えるが立ち直り、康煕帝の信任を得てロシアとの境界線問題の「ネルチンスク条約」に貢献するまでになる。この蜜月関係はローマ法王の孔子崇拝・祖霊祭祀の禁止令により一挙に覆り、康煕帝は「和尚(仏教)、道士(道教)ら異端の小教に相い同じなり」とし、以後の「西学東漸」の勢いは急速に冷え込み回復できなかった。日本では信長・秀吉・家康に本心を疑われて禁教になった経緯はローマ法王に伝わっていたはずだと思うが、同じ轍を踏んだのであった。ローマ法王は、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝の改宗による栄光の瞬間の再現を夢見たのかも知れない。そのためにイエズス会の100年以上に亘る布教の努力を実らさない結果を導いた。
- 「中学西漸」は私には耳新しかった。18世紀のヨーロッパには空前の「中国ブーム」が出現した。美術ではロココ様式だそうで、清の工芸・美術品の影響だという。精神文明の伝達も本格的に行われた。儒教の四書六経が各国語で出版され、4巻の中国百科全書も出ている。大中華帝国史のような影響力の大きかった著作も出た。啓蒙思想家たちは、中国文化に見える「理性精神」に傾倒し、「寛教令」の異教に対する寛容に思いを馳せている。とにかく中国に理性が支配する理想の社会を空想した時代があった。しかし19世紀中期になるとその幻影は吹っ飛ぶ。西欧の工業文明が、経済力と軍事力において、中国の農業文明を圧倒するのである。彼らは競って中国の植民地化を図る。
- 農業文明そのものは明清にいたって最高水準に到達していた。14世紀末の明初人口が6500万、16世紀末1.5億、18世紀末清乾隆帝のころには3億をかなり突破していた。開墾地の拡大、品種改良、輪作多毛作の採用、肥料の多様化と施肥法の改善、農耕技術の進歩などのほかに、米国大陸から伝わったトウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモの生産が人口増加を支えた。北宗の時代にすでに全国の6割の人口が南方に集中していたが、江南長江流域に食料生産が集中する傾向はますます強まり、移民が北方から南方に向かいそれが長江に沿って散らばって行く。
- 品種改良では清代に泡500種、水稲3400種の記録がある。珠江流域では麦―稲―稲の三毛作を実現した。北の黄河流域でも二年三毛作が普通になる。肥料には10種が上げられるようになった。人糞や家畜糞、緑肥、堆肥などの発酵肥料、動植物の灰など戦前の日本農業で使われていたものはだいたい入っている。糞丹という混合肥料は日本になかったと思う。それは大便、麻のくず、黒豆、鳩の糞、動物の死体、内臓、毛血、黒ミョウバン、亜ヒ酸(除草剤、殺虫剤、殺鼠剤などに使うが、人にも猛毒だ。江戸時代の石見銀山は亜ヒ酸系殺鼠剤。)、硫黄を混ぜ合わせ、甕に入れて腐熟させたあと乾燥させて粉砕するという品物で、生産効果多大という。今の農家がやっているように生長時期に合わせて施肥種類を変え、しかも時に応じて大量に施肥する。何やかやで清代には明代の11%からの増産が出来たとある。トウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモは生産性の高さ栽培の容易さから普及が早かった。北方ではトウモロコシがコーリャンや粟の生産量を凌駕するようになる。移民の拡散方向と普及の方向が似ているという。貧乏人は芋を食えと云った現実があったのかな。
- 正倉院に越後の苧麻布が残っている(「ワッフルランチ」('16))。まだ綿がなかった時代は日本は苧麻布だった。中国も衣服の材料は主に苧麻だったが、南宋後期になると長江流域で綿花の栽培がはじまり拡大して行く。元代中期には黄河流域の乾地農業地域にまで広がる。苧麻に対する綿花の生産性の優位性は明らかだ。保温性にも優れている。宋代になると麻が製紙材料になったことも綿花の普及を助けた。次第に農家の重要副業になって行く。
- 私は観音寺市豊浜郷土資料館を見学したことがある(「お祭り会館」('97))。過去の綿花栽培から紡糸紡織までを学べる貴重な博物館である。綿は讃岐三白の一つで、豊浜地区はその中心地であった。紡織機は絹でも麻でも木綿でも原理は同じだから、あちこちで実際を知ることが出来るが、実取り機による綿の種取や綿打ち、糸つむぎなど綿から糸を紡ぐ工程はここだけでしか経験できない。本書には木綿工業の核心技術は種取にあるような既述がしてある。そこのwebページには豊浜に木綿が来たのは鎌倉時代で、日本の木綿工業は中国とほぼ時代を同じくして発展したようだ。
- 松江一帯の綿紡績業の隆盛と連動して、明清の江南地帯には多くの工商業都市が現れる。本書の時代にもっとも発展した地域だ。上海が巨大都市への歩みを始める。綿繰りから布織まで一軒一軒の家庭で行われていたが、綿布の商品化に伴い、農家が紡糸まで行い染色以下の工程は専門の手工業者が担当する紡績工業に発展する。マニュファクチャーと呼べるのであろう。江南はまた昔から養蚕と絹織物が盛んであった。絹織業は高度の技術が求められるために早くから分業的生産が行われていた。綿と絹を中心とした商業のネットワークが確立する。珠算は明中期には完全にそれまでの?算(数取り棒で計算する方法)に取って代わった。明代中期には銀が主要通貨、銅銭が補助通貨となる。商業規模の拡大により金融業が発達する。金融業者の信用に基づく紙幣の発行が盛んになる。金融市場規模拡大のために、国内鉱山の銀産出量では不足のため、日本産銀やアメリカ産銀が大幅に輸入される。
- 「天工開物」は明末の農業と手工業の生産技術百科全書である。日本では繰り返し出版されたが、中国ではいつの間にか忘れ去られていた。赤穂の塩も讃岐の和三盆も多分生産技術のルーツはこの本だったのではないか。私は赤穂で、多分歴史博物館でだったと思うが、塩田の模型を見た。今では新しい海洋科学館の屋外に実物大の展示があるそうだ。高松の四国民家博物館「四国村」ではサトウキビから砂糖を得る工程を見学した。「天工開物」の記述はそれとそっくりだ。製陶業は世界をうならせた。景徳鎮の白釉が、成分の高純度から来ていると説明してある。琺瑯器(七宝焼)は西アジアから伝来したという。採炭、採鉱、冶金にも近代鉱工業技術のはしりが散見される。我が国に渡来の書物としてはほかに「本草綱目」(医薬関係)、「農政全書」が著名だ。どちらも明中後期の、その時代までの科学技術の集大成である。
('16/11/17)