京都時代MAP
- 新創社:「京都時代MAP」、光村推古書院を見る。3分冊になっている。幕末・維新編が'03年、安土・桃山編が'06年、平安京編が'08年の刊行である。たまたま新聞広告に重版の広告が出たのでその存在を知り、千葉市立図書館から借りだした。大学院を出るまで住んだ京都への私の郷愁は深い。ヨーロッパなどのような石造りの都市ではないから、過去はどんどん焼失し、新たな都市開発で埋もれて行くのが日本である。幕末あたりでも考古学的手段を適用しないと、過去が浮かび上がってこない場合がある日本を、いつもいとおしく思う。
- 昔、私は時代劇小説と対比させるのを主な目的に、人文社の「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」('95)を買って、例えば鬼平の行動をトレースし、さらに実地に街の変遷を確かめに出掛けたりした。この京都時代MAPは過去の地図に薄紙に印刷した現在の地図が重なるように工夫してあって、「実地検証」の煩雑さを取り除いてあるなかなかの優れものだ。東京は嘉永・慶応の1冊でまずは足りるが、京都は1100年分が必要で、この3冊はそのニーズに最小限応えてある。京都時代MAPを見る主な目的は、私の生活があった場所の過去検証である。云っておくが、私は京都育ちと自称しているが、実際は洛外人であって、狭義の京都人である洛中人ではない(「京都ぎらい」('16))。
- どれほど洛外かというと、中学校までが北野天神と妙心寺の中間あたり、高校以上が東福寺と稲荷神社の中間の東福寺寄りの地域である。中学校まではそれでもお土居の近くで、中京区だった。高校以上では東寺の南まで来ていたお土居に、さて歩いて何分ぐらいだったろう。東寺と緯度は同じぐらいだが、東福寺はお土居の外なのだ。
- 妙心寺は時代地図にないので北野天満宮、平野神社あたりの地図を見る。このあたりの紙屋川の流路は不変だ。谷が深くお土居に沿った洛外だから川の付け替え(「京都の歴史」('08))は一度もなかったらしい。お土居の、紙屋川から外れた金閣寺前以北付近には、外側に濠か沼地のような防衛設備が桃山期にはあったが、幕末にはなくなっている。神官の住まいが作る社家町が幕末の地図に載っている。現代も残る上賀茂神社の社家町の雰囲気が北野さんにもあったと云うことらしい。上賀茂神社の社家町は塀の前を小川が流れている。同じような風景があったらしく、幕末の地図には2条の小川が描かれている。この小川は現存しない。
- 北野神社も平野神社も金閣寺も大徳寺もそれから千本釈迦堂も、幾分規模を縮小したところはあるものの、桃山時代と大きくはずれない社域寺域を守っている。それに反し中小のお寺はかなり数を減らした。桃山期の地図は全部が書いてないようなので幕末分と現代で比較すると、約4割が抹消されている。規模縮小も多い。跡地に公共施設が記載されている場合が多い。紫野高校は大徳寺境内だった。中学校に小学校もことごとくではないのだろうが、もとは寺域であったらしいものが多い。太平洋戦争の頃、戦勝祈願の裸足参りをやらされた大将軍八神社が、桃山期の地図に平野社と同じほどの大きさで載っているのに驚いた。平安末期の陰陽道の神を祀っていたが、明治維新で御祭神をスサノオノミコトに変えさせられたという歴史があるらしい。大将軍とは方忌に関わる星神を指すと由緒に書いてある。
- 大将軍社の前を真っ直ぐ西に一条通が伸びている。この道路は平安京以来ほとんど同じ位置にあり、桃山期の地図にはただ1本洛西に繋がる道として描かれている。妙心寺北門を経て仁和寺から嵯峨に達する。よく歩いた道である。千本通も桃山期と変わりがない。大徳寺横を北に延びているが、これも位置的には今と同じである。このHPの「武蔵と京都観光一日乗車券」('03)にこの鷹峯から紫野を歩いた記録がある。いまNHKにブラタモリという番組があって、タモリがユニークな視点で観光案内をする。その最初は昨年の正月で、鷹峯のお土居を紹介していた。お土居は長い間原形を留めていた。西大路と絡み合いながら南下していたお土居の断片の記憶が、幼い頃の記憶としてかすかに残っている。あるいは別な盛り土であったかも知れないが。調べてみると、旧二商今の北野中学のプール施設、北野天神御旅所前の、細長いという記憶のある児童公園はお土居のあとだそうだった。
- 平安京は今の京都よりかなり西寄りであった。前期中期後期と3期に分けて描いてある。その頃の地図は、大内裏の宮殿配置、政庁配置、碁盤の目の町割と有力皇族貴族の邸宅位置、官舎の位置、東寺、西寺、東市、西市以外の情報を殆ど伝えていない。私の住まいは平安京では洛中だ。西京極大路と一条大路が交わる北西の角が妙心寺である。西京極大路は消えて西京極という地名だけになった。上述の通り一条大路(一条通)は昔と位置は変わらない。東は京都御苑に突き当たるところまでが殆ど昔のままのようだ。そして京都御苑は東京極大路に接している。つまりまるまる残っている。妙心寺は南北朝時代の14世紀の創建だから平安末期を2世紀は過ぎてる。建設当時はすでに洛外意識だったろう。おまけの平安末期(平氏全盛期)の地図には京の西(右京)は全く寂れて、道祖大路迄しか描かれていない。西寺はあるが、後期までは描かれていた、東市と対置していた西市はもう無くなっている。
- 高校以降の住まいの過去を眺めてみる。戦後しばらくは京都政界を左翼が牛耳っていた。高校を学区制にした。過去の悪しき伝統を断ち切るのが狙いだったろうしそれはそれで成功だったが、古き良き伝統を後世に伝えるという意味では日本文化の破壊に繋がる施策で、そんな反省が今日の左翼不人気の原点になっていると思う。一夜明けたらクラブ活動の部屋は、同好の仲間と称する不良共の溜まり場になっていて、開校以来の伝統は行き先を無くしていた記憶がある。脱線はそこまで。
- 私は転宅により新しい智積院脇の高校に転校した。かなり距離のある高校に歩いて通った。自転車など高嶺の花で買って貰える家計状態ではなかった。おかげで通学路に東福寺境内のいろんなルートを使うことが出来た。紅葉の名所・通天橋は今では有料らしいが、まだ観光寺院などという言葉がない時代で、その頃はお寺を訪れるヒトも少なく、たまにアベックが並ぶ程度だったから、毎日美味しい空気を吸い景色を独り占め出来た。まだ占領軍兵士が闊歩している時代で、彼らをお得意さんとする、パンパンと言った売春婦が客を引き込んだあとを見かけることがあった。東福寺は桃山期の地図の端の端にちょっと顔を出す。
- 京都での生活で私の生涯に最も大きな影響を与えたのは、大学(京大)の6年間である。大学の吉田キャンパスは春日上通から北で、丸太町通を挟んで新平安京の白河エリア、今の岡ア地区と対峙する。平安京後期の地図から白河エリアが出てくる。白河エリアも平安京の都市計画に準じて、広幅の大路小路が碁盤の目を作っている。同じ時期の平家一門の居住する六波羅・法住寺エリアが、平安京から見て幾分崩れたあるいは平安京に拘泥しない道路配置になっているのと対称的である。私は当時まだあった市電に揺られて大学に通ったが、市電の走る東山通(東大路通)が、六波羅地区付近では、ほぼそのルートで、すでに東山に沿って細いが走っていたとは知らなかった。
- 春日上通は聖護院前と熊野神社裏を結ぶ道路で、この両寺社は平安後期の地図にも幕末の地図にも、規模は縮小したが、その位置を保っている。幕末の地図ではその東端が黒谷の金戒光明寺に伸びている。そこらは聖護院村で、吉田キャンパスは吉田村だった。白川村と田中神社のある田中村に囲まれていた。鴨川側は耳隠森とあるから、林になっていたのだろう。キャンパスの敷地の大半は尾張徳川屋敷、土佐山内屋敷だった。両屋敷の中間を走る通りは今も存在し、今出川通になっている。その東に琵琶湖に抜ける山中越が描かれ、現在位置と変わらないことが示されている。昔は長めだがほどよい遠足コースであった。
- 鴨川対岸に京都御苑がある。御苑内外にぎっしりと皇族公家の屋敷が書き込んである。大名屋敷に比べれば小さい屋敷だ。中級クラスの旗本屋敷ぐらいだ。天皇家として10万石ほどだったと聞くから、位は高くても所得は少なかった。御苑内の屋敷は御所以外はすっかり取り払われ、今は公園風になっている。御苑外にただ一軒、冷泉家が残っている。庭で名高い平安ホテル(「葵祭クルーズ」('16))は幕末では醍醐家の敷地だった。相国寺との間の同志社は、御苑外北側の宮家公家屋敷と薩摩島津屋敷に位置する。
- 桃山期の地図の鴨川西べりを見ると、お土居から河原側には何も描かれていない。鴨川の河原は今よりはずっと広かった。河原芝居も成り立ったはずだ。今の河原町通はお土居の河原側に並行して走っている。お土居の内側では五条までは寺町通と鴨川の間を、全く隙間を明けずに、中小の仏閣が張り付いている。寺の土塀とお土居で多重にした鴨川洪水対策なのであろう。寺町もお土居も秀吉の都市対策だった。お土居は江戸時代にさらに川寄りに改築されたようだ。そのお土居は府立医大の中程で途切れている。それより南の群小のお寺は武家役人の屋敷になったり、大名屋敷と混在するようになった。京都全体に武家屋敷が目立つ。
- 最後に桃山期の伏見桃山を見る。あまり途中下車しなかったが、宇治キャンパスに通うときの電車(旧京阪)がその中を走っていた。NHK大河ドラマ「真田丸」では、今、家康と三成が決裂寸前になっている。場所は伏見城。三成の屋敷は2箇所、それに彼の名を被せた郭が大手門すぐにある。郭に名を持つ大名は長束以外は彼だけだ。いかに秀吉の信頼が厚かったかを示す地図だ。家康の上屋敷は宇喜多秀家と石田三成と小西行長の屋敷に挟まれている。家康襲撃の企てを三成が立てるシーンがある。上屋敷に家康がいたなら、風向き次第で、宇喜多、石田、小西のどれかの屋敷に火をかけて、家康邸を火炎攻めにするのが上策だったと私は思ったりする。
- 三成のもう1つの屋敷は上杉景勝に濠を挟んで向かい合っている。清正の屋敷はえらく離れた位置で、宇治川入り口にある。まるで河守のようで、いかに宇治川が物流の大動脈だとはいえ、他の豊臣シンパがお城近くに配置されているのを見ると、意図的に村八分的処遇を受けていたらしいと分かる。真田信之の屋敷は城近くの重要な位置に、小西邸を挟んで家康上屋敷に隣接する。昌幸も幸村もこの屋敷だろう。3万石足らずの大名・信之のものにしては広すぎる。東に組するか西に味方するか、屋敷の位置もたいそう微妙な位置にある。
- 最後の最後に、聚楽第を調べる。桃山期の地図に赤線で推定位置が描いてある。聚楽第は長い間幻の邸宅であったが、近年科学的発掘調査が進んでいる。広大な邸宅だから碁盤の目はかなり痛んだはずだが、今日に伝わっている道路は昔のままで、まるで何事もなかったような配置だ。秀次自殺、妻子眷属処刑抹殺後、聚楽第は徹底破壊されたとは伝わっているが、徹底的な旧状復活が行われたとは聞いてない。数ある洛中洛外図の中には聚楽第と、二条城が並べて描かれているものがある。史実としてはあり得ない、つまり二条城築城の時に聚楽第はなかったのだが、聚楽第を二条城よりも大きく描いてあるそうだ。推定聚楽第もその通りで、絵師の過去の記憶の正しさを示す。
('16/08/25)