六国史

遠藤慶太:「六国史〜日本書紀に始まる古代の「正史」〜」、中公新書、'16を読む。続日本紀の存在はかろうじて記憶に入っているが、あとの4書:日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録は私には影が薄い存在だ。最近「神々」を読んだ(「神々の明治維新」('16)、「近代天皇像の形成」('16))。NHKブラタモリの#40伊勢神宮、#41お伊勢参りを見た。私の先月の「葵祭クルーズ」('16)は、伊勢外宮参拝がもう一つの目論見であった。西洋の「神々」には「聖書考古学」('16)で。なぜか今私は「神々」つまり「古代」に意識が向いている。タイミングよく日本古代史根本史料の総まとめの本が出た。
我が家の父祖は、伝わった系図によれば、宇多天皇第8皇子・敦実親王である。系図の史料的価値は低いそうだ(「系図」('00)、「安土から近江八幡へ」(08))。我が家の系図もそんなものだろう。でも話の種にはときおり使っている。この宇多天皇は六国史最後の日本三代実録の編纂をお命じになった。すると我が家はドーンと「国家編纂」の国史を通して天照大神に繋がっている、これ私のお伊勢さん参拝に箔が付くというもの。宇多天皇は第56代天皇だ。今上陛下が125代。六国史は皇国史の半分近くの天皇紀なのである。「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ・・・」と小学生(国民学校生)のころは昭和天皇までの天皇名を暗記し(させられ)ていた。今でも間違い間違いながらも、平安前期あたりまでは暗誦できる。六国史が編年体の天皇紀であることは正解だ。万世一系なればこそだが、紀年ではなかなか覚わらなくても、それとイコールに近い天皇名でなら歴史が有機的に覚えられる。
私は小学生の頃(1940年)に皇紀2600年を祝った記憶がある。奉祝歌「紀元二千六百年」まで歌った。皇紀とは神武天皇が即位された年を元年とする和暦である。日本書紀では即位をBC 660年正月1日と設定した。推古天皇・聖徳太子の辛酉の年の601年が古代中国思想にある革命の年であるため、その1260年を遡った同じく辛酉の年に設定したのである。なぜ60年周期の干支の21回分の1260年かについては、大革命の周期という説があるとWikipediaに載っている。日本書紀の基礎史料の一つは帝紀(今は失われている)である。まさか帝の数を削減したり水増ししたりはしないだろう、書紀の編集者が数えた天皇の数は推古天皇が33代だった。平均して1代の在位が38年に及ぶ。細かく見ると神代に近いほど長くなる傾向があり、第6代・孝安天皇など102年だ。旧約聖書でも父祖に近ずくほど寿命が延びて、アブラハムが175歳だった。族長以前では969歳の長寿の人も記載されている(「聖書考古学」('16))。
神武天皇の即位は本当はいつだったか。書紀と高句麗広開土王碑、三国史記の百済本紀に同じ内容を記載した部分(高句麗の平壌進出AD 397年)がある。両史料の年代は確実と云える証拠がある。書紀だけ120年昔にしてある。書紀の紀年延長が無くなるのは雄略朝の末年(AD 478年=皇紀1038年没)からとある。双方の間隔79年にたいし120年延長したから、1038/(120/79)=683年前が皇紀元年で、これはBC 205年にあたる。少し年月は明確でないが、神功皇后紀には物証(百済王の献上刀が石上神宮に残っている)があり、著者はその銘から干支2巡分120年のサバを考えた。同じ計算をすると皇紀元年はBC 439年である。百済史書は朝鮮では失われており、名残を日本書紀に引用としてとどめるのみだ。神代については「神々の明治維新」で見たように、「一書ニ曰ク」と異なる伝承を書き入れている。先発の史書あるいは部族伝承を引用付きで紹介しているのだから本格的歴史書だ。
私は浦島太郎と縁が深い(「京都から丹後へU」('15))。宇良神社の宮司さんの説明にもあったが、童謡「助けた亀につれられて竜宮城に来てみれば」の世界は後世の作で、原典(丹後国風土記)には玉手箱など出て来ない。だが書紀には浦嶋事件を(事実として取り上げて)地名(京都府与謝郡)と年代(雄略22年)までそえて記載された。その頃倭政府は、半島における高句麗南下に対応する百済援助に緊迫していたと考えられる。現代人には国史に浦嶋が出てくる意味が伝説としてでは分からない。面妖な「事件」に吉兆を感じ取っていたのだろうか。
続日本紀は奈良時代を完全にカバーしている。桓武天皇の勅命で編纂が始まった。特異なのは「今皇帝」の同時代史が詳しく書かれている点だ。本書は桓武天皇の血統に触れ、彼が純皇統とは云えないために、偉大な「征夷」と「平安京遷都」の帝王像を在世中に固定したかったためとしている。この時代は史料豊だ。律令が整備され、それを補う詔勅などの法令(格)を集成した格集が参照できる。正倉院文書や木簡も貴重な一次資料である。このHPの「佐保路・佐紀路」('08)に、平城宮址資料館で広大な長屋王邸模型を見た感想を書いている。発掘で出てきた木簡のお陰で、長屋王邸址と確定したと説明されていたように思う。長屋王とは、聖武天皇のころ讒訴で自決に追い込まれた左大臣だと続日本紀に載っている。この事件は桓武天皇よりは5代昔の政変であるから、王は無実だったと書けるが、桓武天皇の実弟で皇太子の早良親王の粛清に対する記載は入念に検討された。実弟だけではない、父帝の皇后とその親王をも死に追いやった。英主出現の裏の血族に対する血生臭い歴史は、桓武の目の黒いうちに、正史の中に「正当」に評価されねばならなかった。
日本後紀は六国史の内で唯一全巻が揃っていない史書である。現存するのは全40巻中の10巻のみであとは逸失したままだ。江戸後期盲目の大学者・塙保己一がこの10巻を取り集めた。出所は明らかにされていないが、伏見宮家の秘蔵本だったらしい。未発見部分の逸文による補完が進み、今では日本後紀のほぼ全容が解明されているという。時代は桓武天皇の後期から平城、嵯峨、淳和の42年間である。平城天皇派は、都を平安宮から平城宮に移そうとし、嵯峨天皇派と争い敗れた(薬子の変)。在位3年の短い天皇であった。平城天皇の陵は、平城宮北隣にあり、古墳のリサイクルでやっつけてある(「佐保路・佐紀路」('08))。日本後紀の特徴は、人物伝での評価が厳正なことだとしてある。編集事業は天皇3代に亘り仕切り直しがあったが、藤原緒嗣だけは一貫して取り組んでいる。緒嗣は将来を嘱望された嗣子を病死させ、藤原の主流にはなれなかった。彼が評伝の中心にあると目されている。平城天皇に対しては、名君の素質を讃えながらも、弟とその子や母を殺しメンドリ(薬子)を政治に引き入れたと厳しい評価を与えている。正史の面目躍如というところだろう。
続日本後紀は仁明天皇一代記で、833−850年を記す。天皇は虚弱体質であったのか、医薬の話が多く掲載されている。編者に伴善男の名がある。彼はのちの応天門の変(866年)で告発され伊豆に流罪となる。名門大伴家としては旅人以来の大納言だった。次の日本文徳天皇紀は全10巻在位9年の記録である。この頃では奈良朝以来の「朝政」の建て前は儀式化し、日常政務は内裏で行われた。実質的な国政会議は、天皇の参加のない「陣定」で、「定文」に纏められて奏上された。そこで天皇、摂政、関白が断を下す。この内裏にも文徳天皇の出御が絶え、藤原北家の摂関政治になって行く。天皇は幼弱でも差し支えない体制が築かれて行く。
最後の国史「日本三代実録」は清和、陽成、光孝の三代30年を50巻に記す。光孝天皇の次代・宇多天皇の勅命で編纂が始まり、醍醐天皇の代で編纂の代替わりがある。光孝天皇は即位したときが55歳で、思い掛けない逆相続であった。即位に功あった藤原基経には頭が上がらなかった。宇多天皇はこの藤原家筆頭との折合いが悪く、彼の死後に編纂を開始、藤原以外からの登庸が行われた。菅原道真もその一人だが、醍醐天皇の代になって左遷され太宰府で亡くなる。「日本三代実録」には詔勅や上表が原文に近い形で載せられ、年中行事を詳細に記している。これまでの六国史では非日常的事件に記述の重点があったのと様子が変わっている。定められた年中行事を大過なく実施することが重視される、安定した平和な時代になったことを意味する。それまでの国史の分類作業が並行して進められ、「類聚国史」全200巻(現存62巻)が編集される。編者は道真だった。先例が政治や行事に重要な指針となる安定時代に入ったことを意味する。
勅撰による国史編纂はその後も続けられた。村上天皇のときは、「新国史」40巻が仕上がったが奏上前に焼失したらしい。道長の頃にも下問はあったが具体化しなかった。記録(日記)の習慣が公卿に広まり、そこから私の史書が編み出された。中世には源氏物語が醍醐天皇を桐壺の帝に擬えた歴史書と考えられていた。紫式部は「日本紀の御局」という仇名さえあったという。栄華物語は、宇多天皇から堀河天皇までの15代に亘る歴史文学である。
三高寮歌に名高い吉田山の吉田神社、桜の平野神社の神職はともに卜部氏の流れである。現存する日本書紀最古の写本は、この吉田流と平野流により伝えられた。卜部氏は亀卜専門の古代氏族で、「日本紀の家」として宮廷の祭祀に重きをなした。書紀の伝承は家の証であった。吉田流卜部氏(吉田氏)は、足利義満の時、公卿に列せられ神道の元祖となった。応仁の乱以降の戦乱の世の困難な時代に、六国史をはじめとする平安書籍を書写しまくり後世に伝えた、公卿・三条西実隆・公条親子の物語が載っている。
家康は、大がかりな古典書写を南禅寺で宮廷関係者等から底本を借り出し行った。江戸城に持ち帰った写本は内閣文庫に大半が伝わっている。編年体ではなく「史記」形式を目指した徳川光圀の大日本史は、約250年を経て明治6年にやっと完成した。明治天皇は初期には国史編纂事業に熱心であったが捗らず、今に続く「大日本史料」「大日本古文書」といった史料刊行事業のみが継承されている。

('16/06/16)