近代天皇像の形成U
- Uは安丸良夫:「近代天皇像の形成」の第5章 政治カリスマとしての天皇から終章までの読後感である。いよいよ明治維新に突入する。
- 尊皇攘夷が、革命を成功させたら開国して文明開化を唱える。なんともすっきりしない革命だ。岩倉具視が書き残した「今ヤ形勢殆ンド春秋戦国ニ類ス。権謀術策ヲ用ヰ大事ヲ成ス、亦怪ムニ足ラザルカ。」というマキャベリズムは、大政奉還に至る経過において、尊皇攘夷倒幕派の朝廷内での活動で遺憾なく発揮された。家茂上洛の頃の詔勅には偽勅の風評が絶えなかったほどで、攘夷には前向きだったが、体制急変革までは願われなかった、まずは穏健進歩主義の孝明天皇は、浪士と結んだ急進派公卿の三条実美らに露骨に嫌悪感を表明されている。孝明天皇がずっと健在であったら、維新ももう少し緩やかに進んだだろう。孝明天皇が大切な時期に崩御され、幼少の明治天皇が即位されたことは、急進派の意志が天皇の「叡慮」となって突き進む道を開いた。孝明天皇毒殺説が出るのも致し方がないほど、尊攘派に好都合に事態が展開した。
- 権謀術策が功を奏するには相応の有力なシンパ層が必要だ。それまでは志ある者の単発的よくて少数有志の自爆的行動である。草莽崛起期である。尊皇攘夷が日本の底流と化するまでの志士の獅子奮迅ぶりは、時代劇の定番的テーマになっている。昨年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の前半は、吉田松陰と久坂玄瑞らの塾生の過激活動を背景に展開した。「天誅」を叫ぶ暗殺は、指導層を沈黙させるあるいは消極化させるのに役立った。天誅は政治権力者から両替商、質商、米穀商、貿易商にまでと対象が広かった。金持ちや繁盛している大商人の天誅は、開港以来の物価高騰に悩む都市住民に対する尊皇攘夷側のいいプロパガンダになった。女でも容赦しなかった。NHK大河ドラマ「花の生涯」で村山たかは井伊大老のために働いたという「咎」により、京都三条河原で生き晒しにされた。史実らしい。ドラマでは村山たかを淡島千景が演じた。何か幸薄い顔立ちと演技がマッチして、印象深かった。もう一度見ようと、NHKオンデマンドで捜してみたが、見当たらなかった。100名ほどだったという天誅組は薩長連合前の先駆けである。
- 大政奉還の会議は西郷率いる薩摩兵が御所の全ての門を固めるという状況下で、公儀政体論者には実力行使も辞せずと言う姿勢であったという。「(王政復古号令は)悉ク宸断ニ出ヅ」と強弁された明治天皇は「不世出ノ英材」だったとしても、いまだ元服前の、白く化粧し画き眉をした15才の少年だった。「奸臣共陰謀」の声を沈めるべく打った手は、天皇の権威を伝統カリスマとして根拠づける方策だった。幕末の政治過程では傍流に過ぎなかった国学者や神道家が急遽登庸されて、明治初年の宗教政策を推進することになったのは、彼らの神道説と国体論に、維新の指導者たちの必要とする天皇の絶対的権威性の弁証が求められたからだったと本書は述べる。
- 五箇条の誓文は開明的性格が強い。しかし発布の儀式は、天神地祇に天皇が国是を誓い、率いられた百官が誓旨奉戴する。回りくどいが天皇に対する服属儀礼である。有力諸藩の発言力のある間は公論的であったが、議論百出、複雑な対立葛藤におよび、要人暗殺や反乱計画が持ち上がるなどで、岩倉、大久保、木戸らは集権権力の確立に邁進する。集議院を閉院し、薩長土の軍事力を集結して廃藩置県を断行する。その成功で、文明開化が、伝統社会を拠り所とする反政府政府勢力に対するアンチテーゼとして、前面に押し出される。
- 神道公認教義確立の努力は虚しかった。神道内部に各派があり、世界宗教に対抗する教義を一朝一夕に創設できるはずがない。海外に宗教視察に出た官僚や僧は信仰の自由の意味を悟る。神道は「野蛮ノ国同様ニ水火草木百神ヲ敬セヨト云、西人ノ賤笑ヲ思ハザルカ」、天御中主命などをたてて造化神の役割を強調する教義をつくってみても、それはキリスト教の物真似にすぎず、「耶蘇様ゴザレのご案内」となるだけだと真宗僧は看破した。
- しかし国家神道のための神社制度は着々と進捗し、天皇の神権的権威性を高める、目に見えるシステムになっていった。伊勢神宮内宮を頂点とする全国の神社の位階と神職の地位・補任方法が定められ、神道が国家に所属する立場が明確にされた。最末端の民家の神棚にまで天照大神を祀らせて、国民の精神生活の基盤に据えようとした。宮中三殿もこのとき成立した。これまでの宮中の儀式の中から仏教色の強い行事は廃止された。御所に安置されていた皇霊位牌も最後は泉涌寺に預けられる。
- 真宗4派の大教院離脱後民の教宣を目的としていた大教院は解散、業務を吸収した教部省は「治化ヲ翼賛スル」条件で「信教ノ自由」を認めた。大日本帝国憲法の信教の自由の原型である。これで我が国は曲がりなりにも、国制上、近代国家の形態を得た。神道非宗教説は、天皇を中心とする権威・秩序とこの自由との間に折り合いを付けた歴史的所産であった。もともとは真宗らの仏教側から出された、宣教「自由」獲得のための、権力側の国家神道との妥協案であるが、教義問題に行き詰まりを感じていたはずの神社側は、国家との特権的な結びつきの根拠として歓迎したようだ。
- 明治天皇は大がかりな全国巡行を行い民衆に国家の生まれ変わりを印象付けた。民衆は、天皇の食事の残り物、座所の敷物・玉座の下の土や装飾の杉の葉、通行したあとの砂利などを、災厄祓除、病気平癒、五穀豊穣の呪物として、争い求めた。酒田の行幸所には10万人あまりが押しかけたという。天皇は現世利益の生き神様だった。玉座の敷物を撫でた手で我が身を擦ると一生無病になると云った信仰が語られた。天皇だけではなく法主や出雲国造の千家当主も同じ受け入れ方をされていた。民俗信仰の神々を引証しながら天皇の権威を受け入れている。
- 文明開化に対抗するものとして、数々の民俗信仰、慣習、習俗や行事が禁止されている。それを拾って行くと民衆の社会生活精神生活の大枠が見えてくる。石鎚山先達の祈祷禁止が真っ先に出ている。私は石鎚山を何回か登った。旧登山道の中ほどに朽ち果てかけた部落があったのを思い出す。もとは多分山伏の御師部落だったのだろう。その零落した姿が、文明開化による新秩序が根を張る過程の化石的遺跡になっていたのだろう。祭礼とその行事、路傍の堂宇、小祠・仏像、盆踊り、節句、道祖神祭り、虫送りなどは神道国教化に対抗するものとして規制された。寒参り・裸祭禁止。青森ではねぶた禁止。大道での放尿、道路上での肌脱ぎ裸体、道やどぶ川に塵埃を棄てること、炉中へ唾・鼻水を吐き出すこと、ノミ・シラミを噛みつぶすことなど「愚民」の啓蒙的(上目線の)風俗矯正も地方政権の仕事だった。乞食禁止。大阪では男芸者が禁止された。
- 民衆は藩幕体制の下で200年以上を、不平不満はいつも燻っていただろうが、なんとか平穏無事に過ごしてきた。その体制が瓦解して、馴染みのない天皇の神権的権威を振りかざす新政権が、矢継ぎ早に旧体制排除の馴染めぬ文明開化策を打ち出してくる。弱い立場のものは常に身構えている。情報は悲観的に悲観的に伝わりやすい。誤解が誤解を生んで世情不安が醸し出され、基盤が固まっていない新政権は軍事力と警察力で実力行使に踏み切らざるを得ない。日本史上、一揆・騒動型の民衆運動が最も高揚した時代だとある。
- 広島藩前藩主が上京のため出ようとすると、浅野家代々治政のご恩を徳とした農民が城門で駕籠を押しとどめる。広島無政府化の始まりだった。広島の流言には、「太政官ハ異人ガ政事ヲ取扱処ニシテ、異人ハ女ノ血ヲ絞リテ飲ミ、牛ノ肉ヲ食トシ、・・」「女子十五歳ヨリ二十歳迄ノ者ナラビニ飼牛等異人ヘ売渡ニ相成・・」てなものまであったとある。このレベルの民衆運動は、秩序回復とともに、意識の底に曖昧に飲み込まれ抑圧されて、民衆の日常意識の表層からは消えてしまう。しかし民衆宗教:黒住教、金光教、天理教、丸山教、大本教などの教祖たちは、かえって弾圧をバネに彼らの神学大系を研ぎ澄ました鋭利なものへ鍛え上げて行く(本HPの「日本の新興宗教」('08)、「おんな太閤記(補遺)」('14))。
- 彼らは、新政府とは別のコスモロジーを、あるまとまりと持続性をもって提示し続けた。たとえば丸山教は「文明は人倒し」とトータルに否定的にとらえたとある。近代化して行く日本社会の全体を、「悪の世」「獣類の世」「強い者勝ちの世」「利己主義の世」とした大本教の場合も、その批判は天皇に集約されたのであった。親が丹波の産であったからか、私は新興宗教の中では大本教に関心がある。強烈な弾圧を耐え凌いだことを知っている。だが綾部と亀岡の本部は、訪れた時にはもう静寂に包まれていた。
- NHK大河ドラマ「獅子の時代」の最後は、明治17年の秩父事件を蜂起側から描いていた。鎮圧に陸軍が出動せねばならなかった大がかりな一揆であった。この地域は慶応2年の武州一揆の地域に隣接し、幕末から明治にかけては夜盗・強盗が相次ぐ治安に問題の多い地区であった。関東は一般に幕領小領地相給地などで政権側の支配が行き届かないところが多く、村落支配者層の実力は高かった。
- 中農で神道国学に熱心であり、神官職となって神道国教化運動に積極的にかかわり合った人物の行動は、当時の地域指導層の平均的社会感覚を反映していると思われ、面白い。~葬祭を取り入れ、神武天皇祭、天長節などを司り、日記の年次を新暦の皇紀で記すなど、天皇制国家の権威と積極的に結びつくことで、自らを正統化する行動とともに、雨乞い、病気直し、金~除け、狐つき祓い、物の怪退け、虫除け虫封じ、家移り家堅めなど国家が対抗する民俗信仰的祈祷行為も行っている。一揆では消極的ながら脅しに屈して1戸1人の動員に参加し、事件後罰金を喰らっている。
- 大江志乃夫:「兵士たちの日露戦争〜五百通の軍事郵便から」、朝日新聞社、'88が引用してある。たまたまこの本は私の書棚にもある。出世兵士は福井県の羽生村の農民だった。出世数(16.3人に1人、全国平均は25人に1人)も戦没数(16.0%、全国平均は8.7%)も、何を意味するか分からないが、異常に高かった村である。手紙の中の兵士たちの主たる関心事は、留守宅の生活で、かなり民俗的な神仏への祈願がある。国家とか天皇への言及は殆ど無い。靖国神社など全く出て来ない。
- 本書の、民衆は生活者という視点は、なかなか説得力がある。生活者としての民衆は、国家の論理を受け入れるとともに受け流し、生活者としての自前の生き方を図太く守り抜いた。でも天皇制支配が表面的なものに留まったというのではない。天皇に権威中枢を置いて国民国家としての統合と発展を図るという至上の課題に、近代日本は全体として組み込まれていたのであり、それは様々の中間支配層を経て一般大衆を規制するところとなっていた。
- 最後の章「コメントと展望」は筆者の思想の総括である。私は最後に読んだが、この章から読み始めたら、言葉は難解で往生するだろうが、案外理解は早かったのかも知れないと思った。何となく意識の上で宙ぶらりんな現代天皇制についても明快に述べている。ちょっと長いが気に入ったところを以下に引用する。
- 「現代の日本では、企業や各種の団体や個人は、一見自由に、むしろ欲望のおもむくままに行動しているのだが、しかしじつは、その自由は国家に帰属してその秩序の中に住むことを交換条件とした自由であり、国家の側は、またこの自由を介して国民意識の深部に錨を降ろし、そこから活力を調達して統合を実現しているのである。・・・天皇制は、この基本的な枠組全体(日本人、組織の相互依存や保障の枠)のなかでも最も権威的・タブー的な次元を集約し代表するものとして、今も秩序の要として機能している。・・・乗り越えがたい存在であり、いつの間にか心身にからみつくように私たちを縛っている。」
- 奇しくも本日は昭和天皇の天長節に当たる日である。この一文の上梓には最適の日だ。
('16/04/29)