神々の明治維新U
- 廃仏棄却には地域差が著しい。大寺では奈良だった。興福寺と永久寺の例を「神々の明治維新T」で述べた。本山以下の中小の寺院では僻遠の地で、地域に国学者や神道家などの受容基盤ないし担い手がある場合に過激に行われた。ことに孤立した地域では、領民に対し地域権力が情報を独占しやすかった利点も挙げられている。隠岐、佐渡、木曽川北岸の山間部に展開する苗木藩、九州南端の薩摩藩などが、この条件にぴったりの位置にあり、神道国教化に突き進むことが出来た。以下に佐渡の例だけ引用してみる。私はクルーズで行ける場所にはだいたい出掛けたはずなのに、佐渡にはまだ旅行したことがない。佐渡は私にとって注目の観光地なのである。
- 佐渡は幕府直轄地で、維新後は朝廷直轄地になった。派遣の判事・奥村某は狂信的な神道主義者だったらしい。朝廷の権威と軍事力をもってすぐ寺院の廃合を命じる。「593寺を80寺に1ヶ月ほどの間に廃合せよ。僧侶は天下の遊民、寺院は国家の贅物。」廃寺の仏像、仏具は焼き払い、金具は大砲と天保銭に鋳直した。僧侶の布教活動とその仕組みの大半を否定し禁止した。真宗以外の僧侶は還俗するものが多かったが、真宗の僧侶は還俗せず、寺院廃合には従ったが、存続寺院、廃合寺院、その檀家の間に約定書が作られ将来に備えた。
- 決死の覚悟で島を抜けた僧侶が本山に訴え出、中央政権により行き過ぎた奥平の交代が行われた。中央政権はその前年に富山藩の廃仏毀釈に抗議した両本願寺の請願を認め、地域管庁の独走を禁止する通達を出していた。だが神道国教化のイデオロギーは残っているから、その後も緊張関係が続く。やがて廃寺の堂番(元住職)が、本人一代の間は仏事を勤めることが許される。廃合寺再興は粘り強く続けられた。東本願寺派の寺は15年後にはほとんど復興したとある。他宗との復興数差は大きかったようだ。真宗の寺檀は、正面からときの権力に逆らおうとはしなかったが、基本的にはその信仰組織を守り通している。
- 本書では本願寺の強さに対して宗教教義面からの解説はしていない。今NHKの「100分de名著 歎異抄」は、4回シリーズで、ゲストに浄土真宗僧・釈撤宗氏を迎えて親鸞を紹介している。念仏で「悪人(煩悩から抜けられない一般大衆といった意味)こそが救われる」という革命的な教えが、当時の社会常識による価値観との相違を際立たせた。歎異抄は何10年も昔のTVドラマ「花へんろ」で知った仏教書で、一度は触れてみたいと思っていた。僅か2-3年の間という短期決戦的な過激な廃仏を行ったが、そのあと民衆に仏に代わる宗教心を国家神道は残せなかった。寺檀制度に代わる民衆掌握の機構を作る、民衆に天皇の国家という意識を植え付けるのが祭政一致の実利的大義で、神道には聖書とか仏典に相当する心の教義などない。神道は宗教ではないとよく言われる由縁だ(「神道は宗教か」('13))。せっかくの神祇官も「昼寝官」「因循官」と蔭口を囁かれる存在で、省に格下げされさらに教部省と名を改めることになる。
- おかげまいりの頃の伊勢神宮では、産業の大神である豊受大御神の外宮が内宮よりも位が高かった。外宮の御師がお札を配り(大麻配布による宣教)ながら、参詣人(お伊勢講)を集め、旅を先導して伊勢の自身の経営する宿に宿泊させる。御師の家には祭壇があり、出発前の勤行が行われる。御師の家は今でも方々に残っている。関東の山岳信仰の三山:大山、高尾山、御岳山。私は3山とも登っているが、御岳山の御師部落の保存状態はよく、信仰(修験道)の雰囲気が伝わる(「高野山の紅葉」('01))。善光寺からずっと奧の戸隠神社の御師部落(元宿坊)も立派だ(「ナナカマドとホオノキ」('99)、ここも元は修験道)。
- 明治政府は皇祖神・天照大神の内宮を外宮の上に据え換え、民間宣教師の御師を廃止した。世襲の祭主職が召し上げられて、公家から新祭主が任命された。神職は内宮重視になり、思い切った昇格降格がなされた。新任神職を外部より登用した。頂点の伊勢神宮の改革に対応して地方の神社にも国家施策が及ぶ。まず序列の明確化で、官・国幣社を具体的に定め、その下に府藩県社、郷社、産土社をおいた。全ての神社の神職の世襲が禁じられる。~社と神職は国家機関となり、官・国幣社は神祇官の、他はそれぞれの地方官の管理に置かれる。高円宮家との婚儀で有名になった出雲大社宮司家・千家家は84代目を誇るが、立て前は一旦解任後に再任されたことになっているのだろう。新生児は産土神のお守りを貰い、死亡するとその守り札をお宮に返上する制度が、新しい宗門改めとして発足する。1村1社(村氏神、村社)、区ごとに村社を束ねる郷社があると言うシステムが作られる。国家神体系の受け皿だ。民間に根付いていた5節句などの俗行事を廃止し、あらたに遙拝式、紀元節とか天長節が始まる。
- 修験道は神仏分離政策の影響をもっとも深く受けた宗旨である。本山派が京都聖護院、当山派が醍醐三宝院に属すと云うから、元来は仏教の一派で修験者の支配には僧侶出身が多くあたっていた。吉野の金峰山寺に蔵王権現を神号に改め僧侶は復飾神勤せよとの通達が出される。金峰神社は鏡を掛け幣束をたてて形を整えたが、信者の講は蔵王権現像に参詣するばかりで、社殿の主神の地主神は無視され続けられた。結局10年以上経ってから仏教としての寺院の復帰が認められる。
- 出羽三山も信仰対象の権現が神に相当するとして神社へ転換させられている。権現を祀る修験が全国に多いから、神道国教化に強引な権現神論を打ち出したとされる。三山は仏教の様式を残していても、れっきとした神社に転換したまま現在に至っている。富士講、竹生島、秋葉山にも神道化が強要される。神田明神には、平将門の御霊信仰という面が強い。平将門は皇統から見れば逆臣で、明治政府が容認するはずがない。将門は一末社に祈り換え、少彦名命の分霊を迎える。町民は例祭をボイコットし神官は神をないがしろにした人非人呼ばわりされる。
- 地方の神社改めの徹底ぶりが描かれている。村々には薬師、稲荷、山の神、竈の神など諸々の神が小さな祠にお祭りしてある。1村1社令で31の祠が1村社に合祀された例が挙がっていた。さらに10年も経た頃であったろう、祠とも云えぬおそらく石ころに毛が生えた程度のものが1郡に何百と出てきたという民間信仰の実体が書いてある。民俗行事・習俗への抑圧は明治5年頃から活発になった。六十六部の禁止、普化宗の廃止、修験宗の廃止、僧侶の托鉢禁止、梓巫(女)(東北地方に顕著な民間巫女のこと。歩き巫女に属する。梓弓の弦をはじいて死霊や生霊を呼出し口寄せをする(コトバンク)。次の市子も同じ)、市子、憑祈祷、狐下げなどの禁止、祈祷・禁厭をもって医薬をさまたぐる者の取締など啓蒙的改革が次々と実施された。僧侶の妻帯・畜髪を許すとか、男女混浴の禁止とか今なら当然の改革も多い。
- ?教(キリスト教)の脅威は神道では対抗出来ない。「愚民」教化に実績を持つ仏教こそが中心的な役割を果たすべきである。「教義ヲ総ル」教部省が設けられ、その中に神仏混淆の布教所・大教院が置かれる。最大公約数として3条の教則が決められた。1.敬神愛国 2.天理人道 3.皇上奉戴。この3条は仏教のその後の国家より姿勢を決定づける。募集を入れての教導職が10万(明治13年頃)ほどで、8割は僧侶だった。真宗僧は最も多く、全体の1/4を占めた。神道出身は2割ほどだが、修験道者含み故、本来の神官はもっと少ない。神道派が、いかに国家権力頼みであったかが分かる数字である。本部は芝増上寺だが、そこでの仏僧側の無定見極まる神道への迎合ぶりが面白く紹介されている。でもこれで仏教側はやっと表だって布教活動できるようになった。大教院の下に府県単位の中教院、その下に末寺相当の小教院が作られた。説教活動が活発に行われた。僧侶に比べて神官のおこなう説教は、さっぱり人気がなかったという。講社も公認された。
- 明治4年の岩倉使節団は、各国でキリスト教迫害につき抗議を受け、欧米諸国は、信教の自由の承認を条約改正交渉の前提条件とした。キリシタン禁制は解かれ、神道に対する特別の保護が緩和された。祠官、神主などの給与廃止があり、氏子調べも中止になる。真宗4派の大教院離脱があった次の年に大教院は解散になり、以後各派は独自にただし3条の教則の遵奉を原則に布教することを許される。神道は宗教にあらずとして葬儀にも関与しないこととし、3条の国家イデオロギーが、仏教寺院ほかの既存宗教団体にバトンタッチされたような格好で、日本型の政教分離が行われた。
('16/04/19)