神々の明治維新T
- 安丸良夫:「神々の明治維新〜神仏分離と廃仏毀釈〜」、岩波新書、'79を読む。この4月に先生がお亡くなりになった(「四月の概要(2016)」)。千葉市立図書館のリストを著者名で検索したらずいぶんと出てきたが、叢書でない中から、割と取り付きやすそうな題になっていると云う理由で、「近代天皇像の形成」、岩波書店、'92とこの本の2冊を借り出した。先日「日本神話」を読んだという因縁で、「神々の明治維新」から読み始めることにする。
- 本書のはじめに、明治の神道国教化政策に対し、面従しながらも、真宗(一向宗)はその宗教としての独自性を最もよく守り、真宗の存在こそが神道国教主義的な宗教政策を失敗させる根拠となったとある。たしかに本願寺は本物の信仰の強さを具体的な形で見せ続けてきたと思う。一向一揆や信長や家康との抗争は著名だ。明治期の「武士の娘」('15)には、新潟・旧長岡藩地で女人がこぞって頭髪を奉納する姿の描写があり、そんな頭髪で編んだ綱が本願寺の棟上げに使われた新聞記事を、戦後に見た記憶もある。
- 上記「近代天皇像の形成」を少しばかり先読みすると、昭和天皇独白録が出てくる。天皇が戦争責任をどう考えたかが書いてある。天皇は戦争拡大に反対であったが、立憲君主である限り、内閣や統帥部で決定した見解に、たとえ本心は反対でも天皇は拒否しないことにしていたとある。絶対の権限と権威をもって国民に臨んでいる天皇は、実は責任を取る立場でなかったという。だから退位はなかった。神道国教の論理も天皇無責任論も、世界に通じそうもないガラパゴス的哲学だと改めて感じている。それが日本を誤らせた根本理由であろう。
- 私が神仏分離と廃仏毀釈を意識し始めたのは、現役の終わりごろに、四国八十八箇所霊場巡りをやったときである。お大師さまの霊場だからだろう、逆風の中をお寺は無事残り、巡礼を迎えていた。習合のお社は隣接し独立していたが、社務所はあるのかないのか閑散としていて、お遍路さんで賑わうお寺と対称的だった。だが大分赴任で見た宇佐八幡には、神宮寺は消えたままで復活していなかった。昨年年末に香取神宮神幸祭絵巻を覧た(「「香取神宮」展」('15))。明治維新までは立派な神宮寺があった。香取神宮は関東の由緒正しい大社だ。中つ国平定〜祟り神排除〜に高天原から派遣される神々で、派遣回数が多い活躍神が祀られている(「日本神話U」('16))。宇佐八幡は衆知の通り応神天皇が一の祭神の、全国4万八幡社の総本宮で道鏡事件で日本史に名高い。神か仏か、どちらが主体かでその後の歴史は決まったようだが、主体の判断を権力側がやったから、割を食ったのは明らかに仏のほうだった。でも民の信仰を権力側が無視できたわけではないと思っていた。
- 明治期の廃仏毀釈の極端は奈良で起こっている。あの大寺・興福寺の公家出身の僧侶が還俗したり春日神社の神官に転じた話は有名(「一山不残還俗」)で、今は国宝の五重塔が25円で薪に売り出された。興福寺に縁の深い天理の内山永久寺は、かつては多くの伽藍を備え、大和国でも有数の大寺院であったが、徹底的に破壊略奪され今は影もない。本書には日吉大社で行われた廃仏毀釈が描写してある。市川雷蔵主演の映画「新・平家物語」(昭和30年)には、叡山の僧兵が日吉大社の御神輿を担いで御所に強訴に押しかけてくるシーンがある。日吉大社は比叡山延暦寺(山門)の鎮守神であった。日吉社の神職は山門の僧たちの指示に従って神勤していた。神道思想や国体思想が勢力を強める中で、神職身分のものの不平が高まり、彼らを中心に爆発した。仏像、仏具から経典まで焼き払われ、金具は奪い去られ、日吉社は山門の支配から離脱したのであった。地域住民が山門防衛に立ち上がったと言う後日談も書き入れられている。
- 戦国時代の頃からの権力側と宗教側との葛藤が記されている。兵力民力経済力など全てを我が身に集中させたい権力側から見れば、宗教は別方向に人を誘うという意味で、ことに戦国の世では直接的に危険な存在である。16世紀中頃のこの目の上の瘤は一向宗と同義であった。祈祷師、占い師から山伏まで一向宗に関係づけている文書があるそうだ。本願寺が戦国大名の脅威であったことは、既出の通り、数々の宗教戦争の形で歴史の中で証明されている。キリシタンは一向宗を上回る脅威になった。一向宗は長いお付き合いの仏の一派だからまだ分かります、しかしゼウスなる絶対神を拝む一神教はなににもまして論外だというわけだったろう。家康以来の国是として江戸期はその禁令が徹底した。そのため明治維新の権力構築上の実質的な害毒にはならなかった。
- 江戸時代の仏教は体制上はうまく権力側に取り込まれた。檀家制度(寺請制度、寺檀制度)により民衆は体制に把握されるようになる。民衆はことごとくが本末制度の末寺を檀那寺とする。末寺は本山への上納など寺門経営に勤しむ。寺請証文(寺手形)がないと、キリシタンのレッテルを貼られたり、無宿人として社会権利の一切を否定されることに繋がった。また、後に仏教の一派ながら江戸幕府に従う事を拒否した不施不受派も、寺請制度から外された。仏教は事実上の国教であった。仏壇が祖霊礼拝思想とも結びついて心の具体的なよりどころとして普及する。それでも近年のイスラム問題におけるモスクの役割にも見えるように、さしあたっては反権力性や反秩序性を持たなくても、寺の集会は権力の埒外の人心把握装置である。報恩講、法談、念仏講などの例が示してあるが、定期会合の機会は権力者の疑いの対象である。
- 治政が安定していて世間が納まっているなら、権力側は、支配の大枠を固めるだけにしておき、宗教内容はむしろ放任する方が、民衆に心のクッションを与える意味でいい方向なのだが、幕府の土台が緩んでくると、精神的哲学的背景の引き締めが起こる。荻生徂徠あたりから祭政一致論が出てくる。祭の対象の天祖は天照大神である。「庶人ハ仮ニモ五人ト集ムルベカラズ。説法ハ勿論、寺ニ人ヲ寄スル事重ク禁ズベシ」などという、宗教に対する恐怖心と用心深さが叫ばれ出す。レッド・パージ時代の日本を思わせる。幕末の尊王攘夷論の代表作は金沢安:「新論」だとしている。「億兆心を一にして」という太平洋戦争のころ何処かで聞いた言葉はここが初出らしい。国家規模の祭・政・教の一体化の主張である。水戸藩、長州藩、薩摩藩、津和野藩などが寺院整理、淫祠(寺院とか村の小堂宇、小社、祠など)破棄へ行動する。
- 「キリスト教≧かくれ念仏・不受不施派≧一向宗・日蓮宗≧流行神や御霊≧民俗信仰≧仏教一般」という序列が反秩序的な他者、敵対者たり得る存在とされたとある。
- 薩長討幕派の官軍が佐幕派公武合体派を制して江戸に無血入城する。新政府が樹立される。新政府の基盤はまだまだ軟弱で、旧時代以来の諸藩は相応の武力を温存しつつ多くは去就に付き逡巡している。この日和見がいつ反対勢力となるか分からない。彼らは「幼い天子を擁して政権を壟断するもの」と暗に明(山内容堂)に非難する。この非難に対して新政権の権威を確立すべく打ち出されたイデオロギーが、天皇の神権的絶対性を導く国体神学である。尊皇攘夷とか倒幕までは明治の革命運動の中で共通のイデオロギーとして認識されていた。しかし神仏分離や神道国教化に走る理念が、全国津々浦々まで共有されていたのではない。
- 維新政府の第一次官制の筆頭に神祇科が置かれ、次年の官制改革では神祇官は太政官の上にたつことになった。国学者や神道家が官位を占める。復古の官制ではあるが、古代のように官事を決裁することはさすがになかった。職掌は陸墓の管理と宣教に留められている。だが時を移さず神武創業の始めに基づかせる祭政一致、神祇官再興の理念を布告している。続いての五箇条の誓文発布は、天皇が百官を率いて天神地祇に国是を誓う様式となり、公儀政体派が抑えられる。僧職身分の神勤者の還俗の布告、神職者および家族の~葬祭への転換(昔は神職も仏式の葬儀を出し仏壇をもつ場合だってあったらしい。)の布達、神仏分離と進む。私は歴代水戸藩侯の眠る墓所を訪ねたとき、それが神式霊所であると初めて知った。ほかに神式に出会った記憶はない。大号令であったのにもかかわらず、その浸透はそれほどではなかったのではないかと感じていた。
- 神社も大変革に見舞われる。素朴な民間俗神はお呼びでない。「大忠臣」楠木正成の湊川神社は新神社創立の引き金であった。建武中興や南朝関係の忠臣功臣が神になり、戦国に名高い武将も神社に祀られる。家康の日光宮に対抗して、信長、秀吉も神になった。徳川旧支配体制を弱め、皇統繁栄に寄与する神のバーゲンセールになった。招魂社のちの靖国神社、護国神社は長州藩に源がある。ペルー来航以来の国事に殉じた人の魂は京都の東山に祀られた。東京招魂社(のちの靖国神社)はもともとは関東東北の内戦での戦死者を弔うためであった。私は神社には機会があるごとに参拝する。概して新しいお社は立派である。一番最近では和歌山城址にある護国神社に詣でた。人影はなく静寂だった。70年の平和が人の足を遠ざけた。でも木立の中に神さびた神々しい雰囲気は好きだ。私は神道に反発を感じない世代である。
- 幕末の宮中の祭儀や行事は、仏教や陰陽道あるいは民間の俗信に繋がるものなど起源は多彩である。護持祈祷のプロの出入りは当然であった。天皇その他の皇族の霊は平安時代以来、宮中のお黒戸(仏壇)に祀られていた。菩提寺は泉涌寺で、葬儀はその寺の僧侶により仏式で執り行われていた。明治以降皇室の祭儀は神式に改められる。位牌は泉涌寺に納められ、宮中の仏教的行事は廃止される。維新政府にとって神権的権威者としての天皇像の確立は、喫緊の要務であった。幼い天子の周辺からは女官や公家が遠ざけれられ、維新政府による天子の政治作品化が始まる。東京遷都のおりに伊勢神宮参拝が行われた。神宮鎮座以来天皇の親拝は史上初めてだったとある。「外教」の蔓延によって「皇道の衰退」を招いたとする皇道史観が出される。「外教」は暗に仏教を指す。
- 名乗り出たかくれキリシタンの処刑が列強の非難を浴びる。その頃の非難は、実力行使まで踏み込まれる可能性を思わねばならない性質のものだ。政府の窮地を察した仏教側が、長い民衆教化の実績を踏まえて、キリスト教防遏に仏教こそが相応しいと名乗りを上げる。西本願寺は維新前から長州とは気脈を通じ交流があり革命に財政的援助もやっていた。東本願寺も数日遅れて朝廷側を鮮明にしている。いくら神道国教主義と云っても仏教教団は強大で、新政府はその手を借りたい。仏教各宗派は廃仏に対抗して諸宗同徳会盟を結んでいた。政府側の廃仏意志への疑いは反政府側の煽動材料にもなっていた。北国門徒宛の檄文が出ている。新政府は廃仏否定の声明を出し、門徒慰撫を本願寺にやらせている。イデオロギーを先行させたが、各論に至っては妥協せざるを得なかったと云うことになるのだろう。
('16/04/14)