ガリア戦記T

ユリウス・カエサル著、中倉玄喜訳・解説:「新訳 ガリア戦記」、PHP研究所、'08を読む。我が家から往復8千歩程度の手頃とする散歩コースに入っているのだが、いつもは素通りの千葉市立中央図書館をたまたま覗いてみたとき、この本が目に留まった。高校で世界史を学んだときから、いつかは読もうと思っていた本である。図書館をあらためて眺めてみると、なかなか瀟洒な現代風の建物で、天井の高いモダンなエントランスに、幅広の階段が付いている魅力ある雰囲気に拵えてある。館内が四角と直線だけでないのがいい。
本書の解説ではガリア人とケルト人は同一視されている。Wikipediaで見ると、ガリア人は中央アジアの草原から渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族で、ドイツ、フランス、ベルギーに跨る欧州中央部に移民し、そこから東西へ拡散したようだ。盛期にはバルカン半島からライン川沿いのゲルマン民族との接触域、イギリスからスペインにまで跨る広大な地域に分布していた。ローマ帝国による征服、ゲルマン民族の侵略、それに伴う混血や文化的同化で、ガリア人と言う民族区分はあらかた消滅し、わずかに辺境と云うべきスコットランド、ウケールス、アイルランド、コーンウォール、フランスのブルタ−ニュにケルト系の言語が残っている。再びWikipediaを見ると、遺伝子研究によれば「島のケルト」に「大陸のケルト」との混血は見られない(大規模な移民は行われていない)という。ケルトとは文化面からの分類用語であるらしい。
ガリア人は基本的には文字を持たなかった。でも接触のあるギリシャやエトルリアには文字があり、その効能を知っていたはずである。ガリア人には大民族としての民族意識はなく、郡県程度の支配を行ういわば部族民意識しかなかった。結局はそこを突かれてローマに屈するのだが、ガリア人を意識する絆としての民族宗教ドルイド教は存在した。団結があるようでない中で、精神支柱になっていることはカエサルの認識に入っている。ドルイド教の僧侶がガリアの知識階級だが、彼らは祭儀や学問の独占のために、口承以外の方法つまり文字化を知識を伝える方法にすることを拒否していた。なぞの多いガリア民族について、征服側の記事とは云え、ガリア戦記が超一級の資料であることは間違いがない。
ガリア戦記は、後々の世でもラテン語の初級テキストになったほどに、分かり易い見事な文体で綴られている。高名の文章家で政敵でもあったキケロが手放しで絶賛したという。明日の戦闘に備えながら陣中で戦記を書いた事情が解説されている。当時のローマは共和政時代で、元老院が少なくとも形の上では国家であり政治の中心である。カエサルはガリア総督の総指揮官でもローマ軍団の支配は元老院側にあり、軍務を解かれて元老院に召喚され、糺弾される畏れは常に存在した。旧勢力貴族(元老院派)は台頭著しい民衆派に脅威を感じており、そのトップリーダーとしてのカエサルは標的であった。ガリア戦記はローマ市民へのプロパガンダを意図した報告書である。簡明平易素朴な表現とし、しかも文中の主人公をカエサルと書いて第三者の公平評価を装っている。ローマには最高議決機関として市民の直接参加の「民会」があった。実権は貴族のみが参加する元老院が普段は握っているが、民会が死んでいるわけではなかった。
カエサルは1年1章づつ7年に亘る遠征を一気呵成に書き上げた。最後の8章は8年目のガリア遠征と、最後の1年のガリア提督任期切れ前の緊迫した国内状況を、部下が戦記提出の後年に補作している。カエサルの次の著作「内乱記」と「ガリア戦記の7章」までを埋める、史書としての価値が高い部分だと思う。
ガリア戦記のエッセンスは、塩野七生の「ローマ人の物語」で十分味わった。その「ユリウス・カエサル・ルビコン以前」篇に、たっぷり記載されている。ヨーロッパでは、白人とアジア人ほどの差はないにせよ、混血の進んだ現在でも、北方民族ほど長身頑強である。それはガリア戦記でも認めている。平均すれば、個人ではローマ人よりガリア人の方が肉体的に勝っていた。しかし重装歩兵のローマ軍団は、ことにカエサルに率いられた軍団は蕃地を征服平定するに至った。ガリア人は狩猟民族時代を終え農耕民族化し、すでに鉄器文明を享受していた。歴史小説家・塩野七生の解説ぶりはなかなかのもので、読者を納得させるに十分な説得力があった。原文を読んで私も同じ感想に至るだろうかという疑念が、本書を読む気になった一つのdriving forceである。以下塩野さんとはあまり重複しないように、気づいた点を書き上げて行こう。
本書はヘルウェティイ族の大移動から始まる。ヘルウェティイ族は今のスイス一帯に居住していたガリアの1部族である。膨張の余地が無くなり、ガリア中央部今のフランス中央部を目指して西進を始める。彼らは長年のゲルマン民族との抗争で鍛えられ、勇猛果敢であった。荷馬車に家財一式を満載し、老人女子供の全員を引き連れ、家屋村落余剰穀物など一切を焼却し、不退転の決意で新天地を目指す。狩猟民族時代の記憶を取り戻したかのような雰囲気だったのであろう。彼らはギリシャ文字で統計を残した。総勢36.8万。その7割強がヘルウェティイ族で、あとは彼らに付き従う弱小部族であった。
ヘルウェティイ族側の兵士が1/4の9.2万、対するカエサルは6個軍団と非ローマ人の補助軍団で、せいぜい4−5万だったのではなかろうか。大西進計画は、カエサルに木っ端みじんに打ち砕かれ、彼らは降伏しスイスの故郷に送り返される。戻れたのは1/3に満たない11万という。ヘルウェティイ族人口は今のスイス人口の4%弱、文化程度を日本に持ってくると、ヘルウェティイ族は飛鳥かもう少し以前に対応すると思う。鬼頭宏:「人口から読む日本の歴史」の表1には、日本の人口は弥生時代60万、奈良時代450万となっている。現在人口1億強と比較すれば、弥生と奈良の中間に4%の時代があったことになる。荒っぽい比較だが、こんなマクロの対比は、洋の東西でも案外成り立つものだ。
次の戦闘、その次の戦闘にはゲルマン民族が大きく関わってくる。ガリアのライン沿いの地帯は、有史以前から対岸のゲルマン人の侵略に悩まされ続けていた。匪賊海賊のようなヒットエンドランだけではなく、ガリア人を追い出し、その土地を占拠し居住地とする。カエサルに窮状を訴えたのが「ローマの友」ハエドゥイ族であった。ローヌ河中流西側のセクアニ族がゲルマン人を引き入れ、ハエドゥイ族を破る。だがセクアニ族自体がゲルマン人の好餌になってしまった。ガリアにはもう12万ものゲルマン人が入り込んでいた。ゲルマンの王との正面戦争になったローマ軍団の怖じ気ぶりが、実況アナウンサーが報じるような臨場感をもって書き上げてある。何しろゲルマン戦士は勇猛果敢残虐非道の噂はともかく、相対する戦士がローマ戦士よりでかくて、体力に優れていた。カエサルの軍はゲルマンの軍を打ち破った。ゲルマンの王はライン河を渡河して逃げた。ゲルマン軍は部族ごとの軍団構成で、1騎兵1歩兵がセットになって戦ったそうだ。荷馬車で囲いを作り非戦闘員の女子供を入れて、その眼前で戦闘を行った。先のヘルウェティイ族にしろゲルマンにしろ、草原を大移動したときの方式を、原理的にはそのままに踏襲して戦闘に望んだのであろう。
次の次とはベルガエ人との戦いである。ベルガエ人の住むガリア・ベルギカとはベルギーを中心とするライン河からセーヌ河に至る、ガリアの1/3を占める広大な地域を指す。古くからの先住のガリア人をゲルマン人が追い出し帰化した地域で、反ローマ軍の動員力は10数万を下らないと記載されている。対するカエサル軍は内ガリアで新につのった2個軍団を加え、8軍団になっていた。内ガリアは今の北イタリアでルビコン川以北である。当時はイタリアとはこの内ガリアを指していた。騎兵戦でのカエサル軍の優勢が描かれている。カエサル軍の騎兵隊はほとんどが属州出身のはずだ。ベルガエ人の親ローマ派が攻城戦を持ちこたえたのをきっかけにカエサル軍が勝利する。敵の総指揮官は部族隊の掌握と戦闘軍略に劣っていたらしい。各部族は、平素は互いにいがみ合っていて、いわゆる疑心暗鬼の仲だったのだろうから、急に統一戦略に乗ることは出来なかったのだろう。
ジュネーブからグルノーブル辺り一帯の中小部族の連合体の蜂起が起こる。兵員数1−2万の部族を中小と分類した。前出のヘルウェティイ族の統計数字は確実と思われるから、この戦記の動員数に関する数字は、ほぼ信頼してよいと思う。冬営地のローマ軍の手薄を突いた反抗であった。敵軍は3万以上だったがその1/3が討ち取られた。それが治まると大西洋沿岸各部族の討伐が行われる。ガリア人の反抗の根本的な理由が、彼らが自由を愛し隷属を忌み嫌っていることにあるとカエサルは看破している。カエサル軍は、フランスの大西洋に突きだした半島ブルターニュ地方の大部族ウェネティ族と、その協力中小部族の、220隻に及ぶ大艦隊を破った。長老全員は処刑され、残りは奴隷として売り払われた。
ガリア人の艦船は竜骨のある樫の頑丈な平底型で浅瀬や干潮に強く、船首船尾とも高くて高波や暴風雨を防げる。帆には獣の生革やなめし革が使われていた。木材の接続に親指ほどの鉄釘が使われ、錨を繋ぐ鎖も鉄製だったとある。「鉄づくり今昔」('04)に、三次風土記の丘で弥生時代のたたら場を見学した記事を載せているが、我が国ではこの時代に船舶にまで鉄利用が進んでいたとは聞かないし、太平洋や日本海を通れる船舶が建造されていたことも知らない。鉄生産量の差だろう。ローマの軍船は背が低くて戦いにくい相手であった。攻城鉤を帆綱に引っかけて引き寄せ、航行の自由を奪うような戦法で、1船ごとに攻略したらしい。
ノルマンディ地方のウェネッリ族を中心とする反乱は、親ローマのガリア人を使った謀略戦で片付けられた。民族意識のなさを利用してカエサル軍はしばしばガリア人をときにはヒト単位で、ときには部族単位で敵陣の情報収集や攪乱に使っている。ノルマンディ地方が治まると、カエサル軍はアクィタニア平定に向かう。アクィタニアはワインの産地ボルドーを中心とする平原でピレネー山脈に繋がり、ガリア人口の1/3はここに住まいする。かってローマ軍は手痛い敗戦を喫していた。カエサル軍が攻城櫓や移動小屋で攻めると坑道を掘って反撃してきた。アクィターニー人は、いたるところに銅山や採石所を持っていて掘る技術に長けていたとある。5万の敵軍で助かったものが1/4という戦闘であった。
オランダ、ベルギーの沿岸部の制圧は、森と沼を利用した各部族の戦略のために完了しなかった。ライン河河口の湿原地帯や2次大戦でドイツ軍と連合軍が戦ったアルデンヌの深い森をガリア人は利用したのである。カエサル軍は農家や穀倉を焼き払って冬営地に撤退した。
降伏すると人質が取られる。それが半端な数でない。塩野さんの著作の中に、人質がローマ文化の担い手となって、ガリアの開明に役立ったことが載っていたように思う。金銀財宝は勿論命を繋ぐ最小限を残して、降伏側は戦勝側に差し出す。カエサルの、軍ひいては民衆の間での絶大人気の一つの理由は、カエサルの戦利品分配のときの気前の良さにあったとある。

('16/02/17)