神経とシナプスV
- 「神経とシナプスT&U」の解説はほとんどが運動神経と筋繊維間のシナプスに関する知見であった。中枢神経のニューロン間のシナプスにもだいたいそのまま当てはまる。ただしニューロン間の作用物質はアセチルコリンのほかにノルアドレナリン、グリシン、ドーパミン、セロトニンなどがある。その伝達方式はほぼアセチルコリンと同じらしいが、まだ十分には解明できていないようだ。
- ニューロン間のシナプスには情報伝達の方策を判断する機構が備わっている。一つは興奮周期と膜電圧立ち上がりの脱分極の加重特性の関係を利用するものだ。ニューロン神経末端は筋繊維に対する終板のような大きな面積がなく小さな信号であるため、加重性が伝達の可否に重要になっている。もう一つの判断機構は抑制性シナプスだ。今までは興奮性シナプスの説明に終始した。抑制性シナプスは歩行の半自律性で説明してある。旧陸軍第一線の主要な移動手段は行軍だった。兵士は半ば居眠りしながら行軍を続けたとよく聞かされた。関節を挟む屈筋と伸筋が、交互にいちいち脳味噌にお伺いを立てずに足を動かす。予言はされていたが、実験的に証明したのは、またもカネマツ研究所在籍経験のあるエクルス(1963年ノーベル賞)である。
- 抑制性シナプスの動作は後シナプス膜のCl-イオンチャンネルの開閉で行われる。開くと外のCl-が入ってきてそれまでの膜電位-60mvを-100mvへと下げようとする。この過分極はバイアス電圧をより深くしたことだから、興奮の活動電位が発生することは不可能になる。抑制性伝達物質は、ハーバード大の手により、ロブスターの神経節の巨大抑制性ニューロンから、ガンマアミノ酪酸と同定された。ネコではグリシンという。
- 筋肉には筋紡錘が埋まっている。筋肉の伸張状態を監督する感覚器官だ。筋紡錘は筋繊維の収縮が起こっている間反復して活動電位を発生する。屈筋と伸筋の感覚神経線維は脊髄においてそれぞれ双方の運動ニューロンと向き合い、それぞれの興奮性シナプスと抑制性シナプスに信号を伝える。1つのニューロンは興奮性と抑制性のシナプスが幾つも取り囲んでいる。そのニューロンが興奮するか否かは両信号の多数決で決まるという。
- 生体電気信号による情報の伝達と統御は、ガルバノ以来150年ほどでほぼあらすじの解明が終わった。世の研究の大勢は大脳生理学の研究に向かっている。細胞内微小電極法は視神経の解明に重大な貢献をした。網膜は視細胞、双局細胞、神経節細胞の3層からなり、神経節細胞からは視神経線維(軸索)が出て、大脳皮質に視覚情報を送り込む。網膜には底部に反射板があるがヒトではもう退化している。ほかに水平細胞とアマクリン細胞が補助的業務を担っている。
- 大脳皮質と網膜の神経システム構造はよく似ているため、網膜研究は、いまだ未知の大脳の物質化学的働きを解明する糸口と期待されている。多くのニューロンが狭い空間にびっしりと詰め込まれた状態で、互いにシナプスの化学物質によるアナログ的伝達を行うのであるから、情報に対する反応が出てくるまでのタイムラグは長くなる。1シナプスが数mmsだとしても重なれば長くなる。陸上競争でスターターの合図より、100mms以内で飛び出した選手はフライイング失格だ。どんなに訓練しても100mmsより反応が短くなることはあり得ないのだ。
- わざわざ視神経システムには「細胞内微小電極法」が応用できたと書いた。その他のシステムではダメなのだ。替わって登場した兵器の中のエースはPETとfMRIで、どちらも血液の活動状況を記録出来る高価なIT機器である。脳が活動すると血液が酸素補給、栄養(グリコーゲン)補給に走る。その流れをキャッチする。魅力的なのは大脳皮質連合野の関わり方が見られることだ。このHPでは、「心の脳科学」('09)、「脳と性と能力」('09)、「病の起源」('12)、「ゲノムが語る生命像U」('13)、「食欲の科学U」('13)、「こころの脳科学」('13)などに成果が出ている。NHKの自然科学番組でもちょくちょく取り上げられた。
- だがこの機器は応用生理学では有用だが、大脳皮質そのものの機構解析には役に立たない。なぜなら血流という間接信号でおまけに神経線維の細さに比べて機器の相対的解像力が低い。空間分解能は1mmが限度なのに対し必要なのはmicrometerのオーダーだし、時間分解能も数十msしかなくて、必要な1msに遠く及ばない。露出度の高い脳科学者がいろいろ喧伝するが、いまだエースの役割を果たしていないし、著者同様私も多分その機会は来ないと思う。
- 遺伝的に機能停止されたノックアウト動物による研究は、大脳皮質生理学に福音をもたらすようにも思える。ノーベル賞を貰った後、利根川進はある酵素を欠損するノックアウトラットを作り、学習能力が著しく落ちることを発見した。これをきっかけにノックアウト動物による研究が盛んになった。確かに電極挿入と同じく直接的解明法である。だが「生物と無生物のあいだ」('07)、「新しい発生生物学T」('08)にあるように、生物には主回路が遮断されても目的地への迂回路が備わっている場合が多くて、ノックアウトしてあるのに、見かけ上の機能は、あまり変化していないというケースが多いという。
- 著者は無脊椎動物研究に戻れと云う。複雑怪奇なヒトやサルの大脳より、はるかに単純で実験しやすい。彼らの脳である神経節には2万程度のニューロンが集まっているが、天文学的数字の高等脊椎動物より遙かに取り扱い容易だ。それに1本1本が巨大神経線維なのだ。アメフラシの鰓引っ込め反射反応を研究してノーベル賞になった学者がいたではないか。本書に微少脳の話がある。HPには「昆虫−驚異の微小脳」('06)がある。昆虫にまで来ると微小脳も驚くべき実力を備えてくるが、もっと下等で原始的な脳から勉強しようという著者の提案は、頷かせるものがある。
- さて視覚神経体系のあらましに触れて終わりにしよう。暗いとき網膜の視細胞のNa+チャンネルは開いており、細胞下部のシナプス顆粒から化学伝達物質グルタミン酸が放出されている。だからNa+暗電流がいつもは流れている。その他の感覚器官とは反対の状態だ。光が到達すると、視細胞内にcGMPが光化学反応で生成し、それがチャンネルを閉鎖する。回路もストップ。視細胞にシナプスで繋がっている双極細胞は、後シナプス膜のグルタミン酸受容体の性質の違いで互いに正反対に、すなわち過分極または脱分極に反応する2種がある。
- それに繋がる神経節細胞にもon型とoff型にわかれる。視細胞と双極細胞は1:1だが、双極細胞は隣り合う数個が1個の神経節細胞に対応する。デジカメの画素に対応するのがこの神経節細胞で、その興奮がニューロンで中継されて大脳皮質視覚野に送られる。on型とoff型が同じ光の状態を独立に脳に送るために、脳は明暗を感知する。視覚野における情報処理は高級である。映像はまず輪郭が線分の集合として処理される。さらに連合野のいろんな部位に送られ処理される。
- サルの側頭葉連合野では顔ニューロンが認められた。顔画像から眼を除くとサルは反応しなくなる。連合野でのいろんな高度処理の積算された形で、やっと全体像を認識するというのだろう。あまりよく判っていないせいか、今までの快刀乱麻的解説が俄にしどろもどろ的な話になるから愉快である。側頭葉の内側にある海馬は、記憶貯蔵部位として脚光を浴びている。しかしそのメカニズムは全く判っていない。海馬に位置ニューロンがあることは判った。野生動物にとって(食い物や生殖相手の)位置情報は生命活動の基本のはずで、それが位置ニューロンとの関連で蓄えられていると想像してある。とにかく大脳皮質は一体全体解明される時代が来るのか、一つ一つの直接的検証が可能になったとしても、複雑怪奇なニューロン・ネットワークの全体的な働きとどう結びつけられるのか、著者は、そして私もかなり悲観的である。
('16/01/21)