神経とシナプスT
- 杉晴夫:「神経とシナプスの科学〜現代脳研究の源流〜」、講談社Blue Backs、'15を読む。本の帯に「科学新書No.1」と言う文字が見える。講談社は新しい新書シリーズと位置づけているのだろうか。著者:杉晴夫氏は、筋収縮の生理学が専門とカバーに出ていた。著者名でこのHPで検索すると、「栄養学の巨人」('13)が出てきた。幅広く自然科学の啓蒙書を書いているお人らしい。「栄養学の巨人」を読み返してみると、込み入った科学事情を描いて見事な筆致だったと判る。神経とシナプスで牽いてみると、「脳内麻薬」('15)が出てきた。ほかに「もの忘れの脳科学」('14)や「昆虫−驚異の微小脳」('06)があった。生命、脳神経、胃腸あたりが今の医学でもっともホットで進化の著しいテーマであるらしい。本書は改訂版で旧版は'06年に出ている。改訂版の緒言に、旧版が一部大学の生物学系学部の教科書になっているとある。
- 下級生を何人もずらっと並ばせ手を繋がせる。その片端に電極を触らせたら反対側もビリッと来るか。この無茶な実験は、私だったか兄だったかの中学校で語り草となった、上級生の私的実験である。人体はよく電気を通す。しかし神経の命令伝達が電気によるものだとはなかなか信じられなかった。
- ガルバニは、1790年、カエルの筋肉を銅線で縛って窓の鉄棒にぶら下げた。風が吹いて筋肉が揺れるたびに、生きたカエルのように筋肉収縮を起こす。「なぜ」からボルタの電堆が生まれ、電磁気学に発展して行く。神経線維付きの筋肉を切り出し、この神経の切り口を筋肉に当てるとまたまた筋肉は運動する。これが神経生理学の始まりという。神経生理学は進化が遅かった。電磁気学の基本式、マクスウェルの電磁方程式は1864年に確立したのに対し、シナプスという単語が我が耳に到達するようになったのは、私が定年を迎えてからずっと後になる。私にも覚えのあるガルバノメータなる検流計を頼りに、神経の働きを追っていたのだから仕方がない。
- 頭を強く殴られると、眼からピカッと火が出るとはよく聞く話だ。戦争が続いて、スパルタ式の教練を受けていたら、私も何度もピカッと感じねばならなかったろうが、幸か不幸か戦争が早めに終わったので、私自身はピカッを体験しなかった。ピカッのせいかどうか知らないが、神経の興奮は光や電気のような猛速度で伝わると考えられていた。でもせいぜい伝達速度は数10cm/s程度という。これはカエルだが、人では100m/s以上という。この実験は電磁気学の権威ヘルムホルツによって行われたと云うから驚きだ。その巧妙な実験法が紹介してある。現在ならどんなパルス電流でもITの発生器から簡単に取り出せる。市販品などざらにあるだろう。でもそんなものがなかった時代にヘルムホルツはハンマーとスイッチの組合せで、正確にパルスを作り出した。
- 神経と筋肉の基本的な生理学的な関係は19世紀には判ってきた。かなりデジタルな性格がある。オンかオフで中間の領域が狭い。加藤は、この性質を単一神経線維に分離して調べて立証した。神経束には、興奮の閾値が異なる神経線維が何種類もあって、神経に与えた電流値が高まるにつれ興奮の割合が増える。それに応じて筋の収縮力が変化する。細胞膜電気的二重層説は今では広く受け入れられている。その様子をボルタの電池と対比させて説明してあるが、明快で判りよい。損傷細胞では、細胞内のマイナスイオンと細胞膜外に拘束されているプラスイオンが移動可能のために、中和状態に入るから、電位が変わる。そのために損傷細胞と繋がっている非損傷細胞を導線で繋ぐと、電気衝撃を受けたときと同じに興奮が伝わる。神経細胞でも同じだ。細胞膜にはイオン透過に選択性がある。つまりイオン半透膜になっている。神経細胞の何処かで興奮が伝わりつつあるとする。その部分ではイオン半透膜機能が働かない。
- 田崎は、大戦中に、神経の興奮が神経線維を飛び飛びに伝わる跳躍伝導機構を発見した。大戦中ではあったが、ドイツ学術誌に投稿できたために、戦後世界から先行研究であると認められる。ノーベル賞級と云われながら受賞しなかった。脊椎動物の神経線維は、神経細胞が電気抵抗の高い髄鞘を被った部分と、この鞘のない裸になったランビエ絞輪が対になって直線状に並んでいる。絞輪部にだけ興奮を起こすNa+イオン・チャンネルがある。興奮は絞輪の膜電位差異常になり、それが隣の絞輪と電流ループ(鞘の中を隣に向かって電流が流れ、鞘の外を中和のための電流が流れる)を作る原因になる。この研究は、テレビの出発点でもある陰極線オシログラフが発明されて初めて出来た仕事という。きわめて短い時間の反応をキャッチできたことが進歩の理由になった。
- 興奮は容量性電流として伝わる。コンデンサーとの対比で明快に説明されている。神経線維は膜が極薄で全体としても極細だから、体積比面積比のキャパシタンスは膨大なそうだ。さすがに膜を構成する主物質:リン脂質は膜を作らねばならぬし分子量も大きいので分極が難しいから、細胞膜を通って細胞に供給されるグリセロールや脂肪酸が分極の担い手になると云う。酸素や炭酸ガスも出入りするから分極に寄与するらしい。リン脂質の化学的証明には、バケツ何倍分もの牛の赤血球が用いられた。当時の化学分析の実力はそんなものだった。
- 紋輪と紋輪を繋ぐ導線に相当する物質は細胞膜内外の電解質である。髄鞘部も幾分かはキャパシタンスをもつから、副次的ないわばリーク電流が流れる。無脊椎動物には髄鞘がなく、興奮は連続的に神経細胞内を進行して行く。だから伝達速度を上げるには神経線維を太くする必要がある。ヤリイカのは巨大で、人の50倍もの直径がある。それでいて伝達速度は1/5以下という。膨大なニューロン回路の人の脳は、細い跳躍伝導機構の神経線維のおかげである。
- 興奮の実体は隣り合う絞輪の間の活動電流で、それが局所電池を形作り、順次隣へ隣へと伝搬するのだ。金属腐食とのアナロジーがあって面白い。ここに細胞内微小電極による電位差測定法(1949年)が登場する。科学は新しい測定法の登場と共に格段の進歩を示すものだ。微小電極と云っても0.1micrometerほどの直径があるから、実験はヤリイカの巨大神経線維がもっぱら使われている。細胞は生命の基本の基本だから、太古からあらゆる生物に対してほぼ共通の基本性格があると信じ、ヤリイカと人のgapを棚上げにする。細胞内外で電解質濃度は異なるから、細胞膜が半透膜であれば濃淡電池になる。神経細胞では、Na+は細胞外で140ミリmol、細胞内で10ミリmol、K+は細胞外で5ミリmol、細胞内で140ミリmolだ。膜電位は細胞膜がK+に対してのみ選択的に半透性を持つことが証明された。K+よりサイズの小さいNa+は通さないのである。まことに神秘的な半透膜である。
- 細胞膜がリン脂質の2分子膜である証明は実に面白い。今だったら膜厚なんか光学的に簡単にできるだろうが。古典的方法しか無くてもここまで定量化できるのだというお手本だ。この膜にタンパク質のK+only御用のイオンチャンネルが垂直方向に貫通している。細胞の濃淡電池としての特性は、電気的二重膜の膜容量と、チャンネル通過の膜抵抗を並列とした電気回路で容易にモデル化できる。だが活動電位にはそんなアナロジーが通用しない。
- 細胞内に差し込んだ電極から細胞外へパルス(長方形)電流を流す。電流があるレベル(発火レベル)以上になると電気回路が破綻を起こし、ビュンと大きくなって膜電位はマイナスからプラスに転じ、ピークに達した後、電気回路本来の値に低下する。発火は、化学反応でお目に掛かることのあるオーバーシュート現象の一つだと思えばいいのだろう。ピーク電位が活動電位でスパイク電位とも云うそうだ。ピーク値はNa+イオンの濃淡差に相当する電位になる。つまり一瞬(1mm sec)Na+チャンネルが出来てそれが細胞膜を支配したかのような姿になる。でも実験は細長い細胞の1箇所の興奮状態を示すもので、端から端までの電気回路は単位回路が無数に繋がった姿だ。その有機的な働きが「神経とシナプスU」で説明されるだろう。
('16/01/13)