非戦の自衛隊U

これまでの日本の自衛隊の現地での活動は、目立たないが賢明な方向だった。ときには国連のお墨付きでやった内政干渉モドキの作戦で、戦後の現地が、欧米の大好きな民主的で自由な平和で無害の国家になったか。金融マネーの稼ぎ場に成長したか。事態はほとんどの場合その反対だ。戦後の日本やドイツに対したように、思いの方向に指導できるという思い違いと言うか思い上がりが、派遣諸国にあると思い知らされるばかりであった。
アメリカvsイラン紛争で日本は、自衛艦による海上補給という形で集団的自衛権を行使してしまったが、人的損傷は免れたし、現地人の反日気分を煽ることも避けられた。イラク戦争ではついに1兵も失わなかった、1人の現地犠牲者も出さなかった。5千億円もの派遣費を負担しながら、復興プロジェクトの獲得件数は韓国の13件に対し3件に終わった。非派遣の諸国で日本以上の件数を獲得した国もある。でもそれでいいのだ。プライド高いイスラム教圏では火事場泥棒を蔑む(と思う)。ときおり世界における日本の評判と云ったヒマダネが新聞に載るが、紳士面の行動で我々はモテテいる。まあその一因にもなっているのだろう。それでも世界(国連)の大勢に従ったと云う大義名分だけは失わなかった。立派なものである。
毎日(1/3、5)によると、尖閣諸島周辺の領海外側にある接続水域で3日、中国海警局の船4隻が航行しているのを海上保安庁の巡視船が確認した。うち1隻は中国海軍のフリゲート艦を改造した船だった。大型兵装は取り外されているが、前部の37mm機関砲は残されていた。日本の最新鋭巡視船は、射撃管制装置FCS付きの40mm機関砲を備えているから、兵装ではまあ同等かそれ以上だろう。中国ではフリゲート艦はおろか駆逐艦のコースト・ガード化が進行しているという。日本巡視船に中国漁船が体当たりをしてきた映像はまだ記憶に生々しい。フィリッピンやベトナムのコースト・ガードは今では中国海警局の船を避けている。尖閣では避け続けることは出来ない。いずれ元軍艦が巡視船と争うことになる。自衛隊の治安出動の引き金が引かれる可能性もある。表向きは民間団体の「過激」行動としてことが始まるだろう。
集団的自衛権への憲法解釈変更のために、与党内では15事例の検証が行われた。上段落の事件には、事例1:離れ島等への武装勢力の上陸、事例2:武装集団の民間船への攻撃などが当てはまりそうだ。しかし本書では、それが解釈変更の蓋然性には繋がらないとしている。アメリカ軍、多国籍軍との協調行動には同類化の危うさがつきまとう。国連PKO活動であっても駆けつけ警護であっても後方支援であっても標的化され、それが兵装に反映し、9条離れに現地部隊がエスカレートさせられる畏れがある。15事例にはアメリカへの寄与が不要と思えるほどに数多く取り上げられている。ときにはアメリカを守ってやるぐらいの気概を持とうというのが「血の同盟」説の安倍首相だとある。日本有事の際に、アメリカが参戦するまでにどれほどの時間が必要かという感覚も述べられている。私は、戦いの悲惨さが拡大する速度に比べれば、ことの大小にもよるが、アメリカ参戦の決断は、おそらく間に合わないほどに遅いだろうと思う。だからこそ熱い最前線との関わり合いは、何を犠牲にしても徹底的に回避して欲しい。
航空自衛隊から見た15事例という元空将補の論文は、集団自衛権に関する政治家の議論が、陳腐で時代遅れであることを指摘する。(あとに出てくる加藤氏の論文では、個別的自衛権で解決可能な事項ばかりだと云っている。)陸なら警察、海上なら海保という非軍事対応部署があって、軍事衝突回避のバッファーとなるのに対し、空の守りにはそれがなく、航空自衛隊が40秒以内の判断と行動で事に当たる。勇猛果敢に判断するとときには大事件を招く。それを担うのは、要撃戦闘機のパイロットと要撃指令官という管制官である。レーダーがいかに高性能になっても「機種・機数・装備・不審な行動の有無」までは判別できず、最後はパイロットの目に頼るとある。高度な判断力が求められるのだから将校である。15事例には航空自衛隊は関連部署に出て来ないが、三軍連携で事に当たるのが普通だろう。
防空識別圏は、それ以上入り込まれると不明機に国家の安全に支障が出る限界線で領空ではなく、我が国では追尾、警告のための機銃の信号弾発射となる。実際はなんと沖縄の嘉手納上空にソ連機が飛来したときに打っただけで、その他の識別圏進入には、隠忍自重の姿勢で緊急発進して追尾だけというのが実際だ。忍耐の上にも忍耐というこの論文は、私の感覚にマッチしている。中国の防空識別圏はまるで領空と同じ扱いで、中国戦闘機は異常接近として報じられたとおりの理不尽な行動をとる。陳腐な15事例という項目には、最新のアメリカの軍事作戦に取り込まれているNCW(C4ISR:指揮、統制、通信、計算機、情報、監視、偵察を包含する米国の最新危機管理システム)がちょっと解説してある。政治家は、日進月歩の軍事技術を良くも理解しないで、空論で役に立たない議論に明け暮れるのは止めてくれといいたげである。
カンボジア派遣の第1次の施設大隊長(二佐)のPKO苦労話、中央即応集団司令官(陸将)の南スーダンPKOでの教訓話は、派遣者や指揮者のご都合保身に合わせながら、現地住民に真摯に貢献しようとする現地部隊の努力が伝わるいい話である。真面目で能率よく、相手方を思いやりながら行動する日本人の特性というか文化というかいい面を、彼らが実地に行動してみせてくれている。敗戦後、軍のシビリアン・コントロールを強調しすぎたために、普通の国なら現場判断で済むところでも、現場がほんの少し動くだけにも仰々しいお伺いや誤魔化しが必要になっているところもあるようだ。大雨で堤防が切れるから助けてくれという原住民に、ブルドーザーなどたくさんあるが、派遣趣旨に沿わぬ、しかし現地の懇請を無視できぬと、ときの首相にまでお伺いを立てたという話は噴飯的だが、自衛隊ならずとも現場代表を幹部から閉め出している組織には再々起こっているお話だ。
本書の最後に編著の「自衛隊を活かす会」の提言がある。大筋において私は賛成だ。アメリカの覇権が中国、ロシア、EUさらにはインドなどとの相対的なものになり、かっての絶対的な世界の警察ではなくなった。火種は絶えなくても、国家民族を消滅させる大戦にまでエスカレートさせる事態はもう想像できなくなった。だが冷戦後のテロリズムの蔓延は、勝利を収めたかに見える資本主義の弱肉強食が生んだ人社会に根本的な歪み問題となっている。テロ撲滅と戦うアメリカの実力行使姿勢は、燃え上がった火を消し止める方向には貢献しない、むしろ逆効果になる。勇ましい連中からは弱虫呼ばわりされようと、今までの日本が守って来た「専守防衛」のブランドは、世界に冠たる21世紀の指導理念である。アメリカにくっつきまわり、外地の活動にも火器を使える拡大解釈あるいは改憲は、許されるべきではない。
私はこの世界のブランドの強化にもう一つ提案したい。それは義務兵役制度の採用である。私は自衛隊には志願しなかった。だのになぜ義務兵役か。この問題を考えるたびに、昔のNHKドラマ「花へんろ」の1シーンを思い出す。太平洋戦争の敗色が濃くなり、中学校では派遣将校が生徒に目を閉じさせて軍学校への応募を促す。将校が手が上がった、そらまた手が上がったと囃し立てると、生徒は目を閉じているから、バッタ(〜イナゴ)のように釣られて、本心とは無関係に応募してしまう。このやり方に憤激した母親が吾が子をバッタと同じにするなと学校に抗議する。でもドラマの「吾が子」は呉の海軍兵学校を志願する。私ももう少し戦争が続いていたら、バッタになっていただろう。義務兵役は、自衛隊や国防を、一部政治家の手から国民全体にたいし、我が身の直接の問題に昇格させる。

('16/01/08)