台湾〜沖縄クルーズV
- 石垣島では昼からシャトルバスで町中に出た。公設市場、みんさー織の店、黒真珠の店、服飾品の雑貨店など石垣島で廻る店はいつも同じである。
- 沖縄の下船時は9時で、ツアーガイドが出迎えに来ていた。ツア−の人数は聞いていたより1人増えて7人だった。内男性は3名、86才、81才2名。私が一番年下だった。このメンバーは(我らの世代らしく)全員時間厳守で、いつも予定より早く集合し、最後まで気持ちよく旅することが出来た。初日は我らは最後尾の席に座ったが、次の日には最前列のヒトが進めてくれて交替してくれた。気配りもある人たちだった。
- ジャンボタクシーの旅行は初めてである。高速道でビオスの丘へ。途中春にきた中城のバス停を見た。桃白の花を付けたトックリキワタが目に付く。ビオスの丘は亜熱帯の植物園という。蘭の花が通路脇に並んでいる。カトレヤもあったが胡蝶蘭が多かった。花屋では高価な花だのに惜しげもなくずらっと並べてある。温室栽培で手広く商っているそうだ。人工の池だそうだが、遊覧船が3−4船繋がれていて、運転しながら植物だけでなく昆虫や魚の説明もしてくれる。水辺に繋がれた水牛2頭。やっぱり臭い。ヘゴ属のシダ植物が数多く水辺に見かける。小笠原で見たマルハチ(丸に八が入った紋様が幹一杯に並ぶ)に似たシダの木が目に付いた。シダ類と云えば石炭紀の主役と覚えているから、石炭になるほどの大型のシダは何か特別の感覚を私には与えてくれる。根っこにまるで自然に生えたように蘭が花を開いていた。蝶は中型の種(ヒョウモン類の一つのようだった)の判らぬ1羽を見ただけで寂しかった。イトトンボが群れを作って湖上を飛んでいた。ガイド兼運転手の船頭に聞いたらムスジイトトンボと教えてくれた。苑入り口にあるキョウチクトウに似た木はミフクラギ(オキナワキョウチクトウ)で、白い花を付けていた。葉も幹も花も猛毒だそうだ。ことに実は猛毒という、Wikipediaによると、毒成分はケルベリン(Cerberin)をはじめとしたアルカロイドの配糖体だという。キョウチクトウも毒性で有名だ。
- 昼食にANAインターコンチネンタル万座ビーチリゾート につれられた。高級リゾートホテルである。吹き抜けの広いスペースを居室を繋ぐ各階の廊下が取り囲んでいる。建物は垂直だが断面が歪なのがいい。万座のこの岬一帯がこのホテルの経営範囲であるらしい。いろいろのレジャー設備や散策コースを備えている。日本料理・雲海の料理は和琉料理というのだそうだ。和琉にはあちこちでその後お目に掛かる。結局沖縄では滞在期間の全食の4食とも和琉料理になった。琉球料理風の日本料理と言うのであろう。何処が琉球風かと云われるとちょっと困るが、魚や野菜は土地の品であり、獣肉に土地の豚を使っているところもあった。
- 京都や東京の日本料理とは味付けがちょっと違う。私には飛鳥Uやびいなすのコース料理の方が合っている。どこも食器に土地の窯で焼いた気の効いた器を使用していた。宿泊のザ・ブセナテラスの食事は選択できた。和風レストラン「真南風」にした。前に宿泊したときは時間の関係で立ち寄れなかったこのホテルの海中展望塔やグラスボートを今回は楽しむことが出来た。ここには朝市がある。家内がアテモヤなる珍果を発見。松ポックリぐらいの大きさの青い果物で、1個しか置いてなかった。350円とちょっと高価だった。熟すまで家に置いておけと云う。Wikipediaには、釈迦頭とチェリモヤのアイノコとある。いずれにせよ亜熱帯の果物だ。
- 翌日の昼飯も始めてから3年目という新しいレストラン百名伽藍での和琉料理であった。外装は和琉風、内装は和風洋風折衷でごてごてした装飾がなく清楚だが高級な印象は失っていなかった。庭にガジュマルの大木が根を張っている。レストランの廊下はその位置だけ凹ませてある。海岸を見下ろす位置にある。はるかに平和公園を望める。あのあたりは東に沈む段丘になっているのがわかる。海は遠くまで珊瑚礁が続いているらしく、白波が遙か遠方に見えた。これはザ・ブセナテラスも同様。ガイドさんの話では、勤める旅行会社の経営一族は社長を初めとして下戸が多い、その分料理をしっかり選択すると云うことであった。ちなみに女子社員には酒豪が多いそうである。
- ひめゆりの塔は2回目である。日記を繰ってみると前回は'97年に近ツリの3泊4日の旅だった。4万5千円弱の安いツア−だったようだ。今回も献花をする。資料館の犠牲者師範学校、第一高女の270名の顔写真を1枚1枚眺めて歩いた。顔写真のない犠牲者は名だけだ。幼年の頃の写真しかなかったヒトもいたようだ。きりっと引き締まった顔立ちが、エリートコースの生徒であったことを示すようだ。軍にとって機敏で使い勝手の良い生徒であったろう、それが他の義勇部隊に比べて圧倒的に多い犠牲を強いることになったのではないか。多くの歌碑の中に琉球王朝末裔のものがった。苑前のみやげもの屋でシーサーを買った。形で選んだ。小型だが作家もののようであった。魔除けだったら死に神も近寄りにくくなるだろう。この年寄りの冗談のニアンスは、店の若い子に通じたようだった。
- 沖縄ワールドはひめゆりの塔とセットになった観光コースである。ひめゆりの塔は霊の世界、こちらは生の世界で対称的だからきっといい組合せと業者ならずとも思うに違いない。お目当ての一つは鍾乳洞の玉泉洞。通り道がよく整備されている。頭が支えそうな鍾乳石の先端は折取るか注意標識が付けられている。自然の造形に対して「みがわり観音」とか「ガジュマル並木」といった名前が付けられている。高知の龍河洞のような古代の住居跡ないそうだから、洞窟発見は遅い時代だったのだろう。
- エイサー広場で実演を見る。エイサーはもともとは沖縄の盆踊りだと冒頭で紹介された。Wikipediaには、袋中上人が1603年から3年間首里に滞在して浄土宗を布教したのを契機に、沖縄では王家や貴族の間を中心として念仏が広まったのが起こりで、今とは違った念仏踊りであったらしいとある。盆踊りは民衆の娯楽という意味が強かったから、何処でも宗教色の薄い優美に楽しい踊りになっているが、ここのは勇壮で、身体いっぱいに表現する点が違う。衣装も独特だ。演目に獅子舞が出た。獅子は中国風の赤毛で演技もその流れを汲んだのか我らのよりももっと派手に演じる。場面替わって、翁と姥が仮面で出てきて獅子と掛け合う。こんな演目は伝統の中にあったのだろうか。とにかく見て楽しいようにかなり現代風にアレンジしてあった。
- 王国歴史博物館を見る。小さな博物館である。世界の獅子を展示していた。獅子舞の獅子はエイサーとは別系統のようで、13−14世紀頃に渡来したとあった。そもそもエジプトのスフィンクスが獅子像だ。中国には漢時代に伝わったとあった。地理からの必然でインドルートが東南アジアの獅子を作り、中国ルートが我々の直接的ルーツである。沖縄の車窓風景はもうほとんど我らの町と変わらない。ときたま沖縄式の家屋型墳墓を眼にするのと、我らの周辺には一般にはない亜熱帯特有の植物相に出会うときに、沖縄を感じる。沖縄ワールドには失われた戦前の家屋がずらりと展示され、それぞれが商店や体験工房などに活用されている。三線体験に使われている久米島の地頭の家(重文)の模築はそれ自体が見もので、周囲の付属建築物フールは豚の飼育小屋を兼ねた便所と説明板には載っていた。この春に中城城址を見た帰りに重文の中村家住宅を見学した。あそこにも石囲いの豚小屋があったが、同じく便所の役もしていたのだろう。私の「春の南西諸島・島めぐりV」('15)には、便所がどこだかそのときは判らなかったと記している。みやげもの屋に音階を芯の長さ調節で行う子供用の竹笛があった。それを買う。
- 沖縄は植物ことに花から感じるというのが私の流儀になった。トックリキワタとミフクラギはすでに書いた。ハイビスカスの八重咲き品種を沖縄ワールド入り口広場で何種類か見た。ブーゲンビリア。ザ・ブセナテラスの庭のサンタンカにはスーパーキングという名札が掛かっていた。ツワブキ、雑草としてのセンダングサはここでも普通に咲いている。スパイダーリリーがあった。7−8月が開花期と説明板にあったが、今でも花を付けている。ネムノキに似たギンネムは沖縄ことに南部で繁茂している。開花期ではないようで白い花は見られなかった。運転手の話では戦後の荒廃地緑化で移入した植物だそうだ。小笠原諸島でも繁茂して在来種を駆逐していたことを思い出す。本当のネムノキはザ・ブセナテラスの庭に赤い放射状の見事な花を付けていた。あと幾つか気付いた花があったが、名を記録していなかった。思い出したら付け加えよう。リュウキュウスギ、リュウキュウマツ、デイゴ、リュウキュウコクタン、フクギ。子供の頭ほどの実(まだ青い)を付けたタコノキ(アダン)、クサトベラ(トベラそっくりの葉だが大きくならないらしい)。芦にそっくりなサトウキビの穂がススキと共演していた。
('15/12/05)