韓国併合の歴史的解釈T

呉善花:「韓国併合への道〜完全版〜」(12版)、文春新書、'15を読む。この著者の本は何冊も書店に並んでいることは知っていた。カバーに韓国生まれだが日本国籍を取得しているとあった。私は小学校時代には同じ日本人と教育された。確かに「よそ者」ではあった。でもそれは疎開先で私が感じた村の排他意識の延長線上のもので、決して異邦人ではなかった。今日では「つきあいきれない」を通り越して「つきあいをしたくない(嫌な)」異邦人になった。私の眼は最近とみに韓民族に対して厳しくなっている。韓民族に関する書籍としては6冊目で、本Webサイトには「野蛮人の階級」(’97)、「袈裟まで憎い」('99)、「つきあいきれない韓国人」('06)ほかいろいろ書いている。
君島、坂井、鄭:「韓国〜旅行ガイドにないアジアを歩く〜」、梨の木舎、'95は閔妃暗殺事件を景福宮乱入から暗殺に至までの経過を詳しく描いている。背景説明もあるにはあるが、日中ロほか多くの外国の介入を招いた内政の責任については触れず、瞬間の加害被害意識が覆っている。通して日本側の悪逆非道ぶりを浮き上がらせる構成になっている。著者たちは、帝国主義華やかなりし頃の、他の植民地化地帯と比較してみたのだろうか。戦争という非常事態での出来事について理解しているのだろうか。著者は全員が戦後の生まれで、少しでも同胞であった時代を知る人間としては、何か固定概念先行の観念的著作と受け止めていた。その点小冊子ながら糟谷:「朝鮮の近代」、山川出版社、'96は淡々と事実関係を提示し、大衆が当時の自虐的史観から抜け出すきっかけを作った。本書では閔妃暗殺に至るまでの歴史的必然性も、延々8章を辿って詳らかにされる。
日本と韓国のすれ違いは李朝あたりから顕著になる。根本は夷狄順列という中華思想に韓国がのめり込んで、韓国は中華の周辺国ゆえ夷狄だが、日本はもっと遠く離れていて韓国よりも順位がさらに下がる夷狄だというのだ。これは「野蛮人の階級」でも取り上げた。日本は少なくとも秀吉以降は中国には対等の姿勢で臨んでいる。外交使節への応対に両国の思想の相違が明確に出ている。
朝鮮通信使に関する記事:「こいさんにもてる」('97)、「近江八幡」('04)では彼らの饗応に払われた苦心の内容を偲んでいる。500人から大勢の使節団が、実質の首府江戸に到着し帰国するまでたいそうに歓待した。だが彼らの帰国後に残した日本文化への評価は、夷狄観を正当化する内容だったと聞いている。「横須賀散策」('09)にはペリー使節団の正確な日本報告書に触れている。先入観の重みが伝わってくる。では返礼使節はどんな待遇を受けたか。本書によると、対馬藩の然るべき地位の藩士が対岸の釜山の倭館に赴き、李朝政府役人と応対して終わりだった。
この夷狄評価は明治政府が李朝朝鮮に国交使節を送っても、彼らがハナから国書を拒否する理由(夷狄が国王、皇帝を名乗ってはいけない、王が適切だ)となった。日本にも中国思想は徳川期には浸透していた。でも取捨選択の中で、中華主義は当初から外された存在だった。
李朝朝鮮が、現代的国家感覚で云うと、どんどん歪んだ姿に変わってゆくさまを追っかけてみよう。朝鮮半島の地政学的環境はまことに複雑である。朝鮮民族は中国東北部(鴨緑江北縁に特に多い)、沿海州(今はソ連時代の追放政策によりロシア、ウクライナ、中央アジアに移住している)、日本などへと広く分布している。Wikipediaによると、民族内での遺伝子の均一性は、日本人より低い、つまり単一民族を自称出来るほどではない。歴史事情はそれを裏書きするように複雑で、ことにツングース系民族の血が多く入り交じっていると思われるものだ。
李氏朝鮮500年の前は高麗の500年足らずだが、ここらあたりからは朝鮮民族の国家という意味で安定する。高麗はKoreaの語源。しかし従属国家体質は小数民族の運命で、宗主国に朝貢を必要とする時期の方が、完全独立体制の時期よりもずっと長かった。高麗期の元朝はモンゴル民族、李朝期の明は漢族、清は満州族だ。国家を失い直轄化するときもあった。しかし高句麗、渤海、女真、契丹、金などと中世まで続いた満州族系ツングース系王朝が近代にいたってついに消滅した事態と比較すれば、理由はともあれ、大陸中央政権に併呑されなかったのは立派であった。
宗主国とはどういうものか。1882年(明治15年)の内乱にたいし、閔氏政権が清国の力で復権したものの、清軍首都駐留軍を受けざるを得なかった。駐留兵士は中国軍隊伝統の行為としてとあるが、略雑、暴行、婦女凌辱などの乱暴狼藉を当然のごとく繰り返した。同時期にやはり駐留してきた日本軍は規律正しかった。これは日本人の書いた記事ではない。中国人は宗主国の特権で朝鮮国内でまったく制約を受けることなく営業し、移住し、居住することが出来た。中国の租借地、日本の居留地でも外人の特権が問題になるが、清国の宗主権はそれ以上のものだったらしい。では駐留を呼んだ背景はどうだったか。
そのころの李朝の軍兵数は2500−2600名という驚くべき少人数だった。内乱対処すら思うに任せず、国家の対外防衛などとうてい考え及ばぬ。当時の朝鮮人口は1600万で、高麗時代はその半分、だのに高麗の中央軍は45000を数えたとある。高麗は北方からの侵攻に、あるいは戦いあるいは朝貢国の立場になり下がって和平を結ぶなどして国家の維持に腐心した。中国本土の王朝とも対立と朝貢の繰り返しであった。李朝に入ってからも弱肉強食の繰り返しである。これに新に秀吉の遠征が加わる。明軍の大規模応援が日本の干渉を排除した。
「韓国併合の歴史的解釈U」に続く。

('15/8/9)