京都から丹後へT

法事の前後に京都と丹後を廻った。3泊4日の旅になった。丹後は太平洋戦争敗戦の年に集団疎開した思い出の土地である。先生の1家や寮母さんとともに、3年生から6年生までの小学校(当時は国民学校と云った)生徒が20名ぐらいづつ、お寺に分宿し、土地の小学校に通った。海岸線の行きは陸路戻りは海路だった。舞鶴軍港に近い場所だったから、何隻かの日本海軍の座礁艦が見えたのを記憶している。70年目になり、もうあと何度も機会がくるとも思えないので、この第2の故郷を旅する気になった。ほぼ10万円ほどを費やした。
以下は思いつくままの旅行記である。
富士山は戻りの新幹線から薄く霞んだ姿で車窓から眺められた。何と云っても富士山は日本人にとって特別のランドマークである。前回(「竹田城、備中松山城、姫路城」('15))は、旅客機からくっきりとした雪姿を見ることができた。今回では南面した山頂部には雪が筋を引いていた、東面が見える位置から望んだ富士山山頂では、まだ北面にはかなり雪が残っているようであった。
第1日目、ホテル到着後新京極を歩く。最後に見たのは何10年前だったか思い出せないほど遠い昔だったと思う。ホテルが四条烏丸と近い位置にあるのと、ブラタモリの京都編で、遷都後の京都の寂れを打開するために、中小寺社境内の真ん中に新京極通りを通したと云う話が気になっていたのである。京都には西京極はあるが東京極はない。実は寺町が昔の東京極で、その隣の新しい京極通りだから新京極と名付けられたようだ。歩いてみると、寺町の雰囲気の名残は、京都一の繁華街の真ん中にありながら確かに残っていることがわかる。でも寺社はまことに窮屈そうな姿で、商売人に軒を貸して母屋を取られたような姿になっている。先に腹ごしらえ。京都大丸の8Fのレストラン街で夕食を摂ることにした。大丸には和食の店が多かった。惹かれはしたが結局トンカツにした。一人旅の時の選択は二人旅、大勢旅の時とは異なってくる。小さなすり鉢に白胡麻が入っておりそれを適当に磨り潰し、あとテーブル上のソースを注いでトンカツ用のたれとする。喜界島が国産品の大半を作る島であった話(「春の南西諸島・島めぐりW」('15))をウェイトレスにしてやった。食い物の記憶は意外に長く脳裏の奧にしまい込まれている。新京極の屋台の寿司屋で3貫20円で食ったことを思い出した。今は回転寿司でも1貫100円は少なかろう。
お堂、参道、付属施設、立像など信仰を維持するのに最小限の敷地を残して、あと周辺360度を商売人の営業用建屋がぐるりと取り囲む。端的な姿は、ブラタモリが指摘した錦天満宮の鳥居だ。鳥居上部の横石が民家に突き刺さった格好をしている。この天神さんにお参りするには、寺町通りから鳥居を過ぎ、新京極通りを跨いで本殿に進む。本殿のほか手水や神牛、社務所らしい建物などが、その狭い一角に押し込められたような姿で存在する。善長寺(立江地蔵尊)、西光寺(寅薬師)、誠心院。誠心院にはかの和泉式部が初代住職を務めたと京都市の説明板に書いてあった。誓願寺は大きくもない和風コンクリート造りの建物だが、門前に総本山の石碑が建っていた。天性寺は唯一きちんとした境内を持ったお寺であった。矢田寺(矢田地蔵尊)、蛸薬師如来。
錦市場も歩いてみた。シャッターの降りた店はzeroではないが、たいそうな賑わいだった。観光通り化しているが、まだまだ市民の生鮮食品生活用品調達市場である。麩あるいは湯葉だけの店なんかは、他所では見られない専門店だろう。Movixというシネマコンプレックスがあった。新京極には私の若かった頃には幾つもの劇場があった。名はほとんど記憶にないが、漫才のやすし、きよしが出演した花月劇場の名だけは覚えている。天性寺を三条通、河原町通りと大回りして寺町通りに入った。この天性寺周辺には仏具店や、数珠店が数多い。休業している店も入れたら十指に余るのかも知れない。私は法要のための数珠をその1軒で手に入れた。和風の何となく落ち着いた雰囲気の店や住居は寺町通りとそれを十字に貫く小道の両側に結構残っていた。
四条通に出た。直接的には祇園祭の鉾巡行に邪魔になると云う理由で、電柱電信柱が撤去されたと聞いている。電線やその支柱がない町の風景はすっきりしている。京都と奈良の歴史地域ではすべて早々に、この目障りな柱や線を取り去って欲しいと思う。ジュンク堂書店の専門書階にあがった。化学関係に4棚、化学工業関係に3棚であったか。さすがに医学、薬学、IT関連の書籍数が多いが、今でも「化」関係のこんなに出版が続いているのだと認識を新にした。ジュンク堂は私には馴染みのない書店である。
第2日。烏丸御池まで歩く。地下鉄東西線で御陵(ミササギ)に行きそこからは大津行きの京阪電車に乗り換え。ゴリョウではなく古い言い方のミササギという。大津から石山寺行きに乗り換え終点まで乗る。京阪電車はJRのようなトンネルによる直線コースではなく国道に沿ったカーブの多い峠越えの路線である。逢坂の関の「逢坂」の位置表示を見た。石山線に乗り換えたあともカーブの連続で、私鉄らしく集落から集落を繋ぐように路線設定をやったのだろう。
15時半頃の特急まいづる号に乗る。3両編成で1両だけが自由席だが、座席のない人が出るほどの混雑ぶりだった。綾部で連結のきのさき号を分離、今までとは逆の方向に西舞鶴に向かった。結局1時間半ほど乗ってホテルに到着した。亀岡ことに綾部以降の田舎は和風様式の家屋が建ち並ぶ集落が続き、車窓が目を和ませてくれる。新幹線沿線では今では関ヶ原から米原の手前あたりまでになってきた風景である。西舞鶴駅は近代的なビルだったが、売店、レストランの類はほとんどなかった。芸屋台が展示してある。芸とは子供歌舞伎を指し、~社祭礼の時に舞台になる屋台である。昭和8年を最後に歌舞伎は演じられなくなったようだ。秩父の夜祭りのような雰囲気の屋台だったと推察される。秩父の屋台では、それを中心に宮大工が長い舞台を継ぎ足し広場に固定して、大人の農村歌舞伎を演じる。芸屋台はそこだけの空間で演じたもののように感じた。
舞鶴公園を散歩する。田辺城跡の本丸あたりを公園にした。田辺城は細川藤孝(幽斉)が関ヶ原の合戦の時わずか兵500で、三成方の15000の軍を防ぎきったことで有名だそうだ。細川の次が京極、その次が譜代の牧野で、牧野家は200年ほど続いた。田辺藩は3.5万石の小大名である。通りに面した堂々の城門と城壁はふるさと創生事業の一環として建設された。天守台跡があるが、天守閣が存在したかどうかは判らないという。ぐるりと一周した。城門から見て裏の、線路伝いの貧弱な石垣遺構は、私のカンでは本来の城趾だろうと思う。
3日目は「京都から丹後へU」に記載する。4日目朝、西舞鶴の寺町を散歩する。地図には幽斉の城下町めぐりと印刷されているコースである。円隆寺には稲荷神社が併置してある。鎮守堂があって何故かその側面に八幡宮という扁額が置かれていた。朝代神社の参道に寄付者の石碑がある。明治初年に金100円を寄金するとこんなに立派な石碑になるのだと感心した。今なら100万円でもちょとどうかなと思う。お金の価値は1万倍以上だったろう。寄贈石灯籠に宿屋中と彫られていた。宿の組合の合同寄贈なのだろう。鳥居前に朝代会館が建っていた。別の赤い鳥居前を素通りして本行寺に行く。名前から法華宗だとわかる。その隣の桂林寺は規模では西舞鶴一番のお寺のようだ。石段の上に楼門があり、さらに石段が続く。老女が石段を過ぎる自動車道を降りてくる。石段はつらくてと何となく話しかけてきた。こちらも一気に上れず一旦休憩していた。初めての出会いの人と、互いに老境を慰め合って分かれた。
笑原神社の説明板に延喜式記載のお社とあった。ごくごく小さいお社になってはいる。その鳥居前に紺屋公民館という表札を見る。たまたま顔を出した人に、ここらは昔染め物屋が多かったのですかと聞いてみたら肯定した。金比羅神社前を過ぎると浄土寺。その脇道を上ると妙法寺。ここも法華宗だと名でわかる。でも日蓮宗となっている。法華と日蓮は全く同じと思っていいのだろうか。タニウツギが咲いている。丹後に来てよく見かける木本だ。沖縄で見たような厨子状というか祠状の墓が何基かあった。苔むしていた。玉岡稲荷神社、松林寺あたりから町中へ引き返した。10:34西舞鶴発の京都行き特急まいづる号に乗車、車窓を楽しんでいたが、保津峡を過ぎて京都に入ったあたりからの、無計画で景観などまったく考慮していない、てんで勝手の汚らしい家並み町並みにはがっかりさせられた。

('15/5/16)