春の南西諸島・島めぐりX
- クルーズ9日目の寄港地は屋久島・宮之浦新港で、空は昨日とは打ってかわって晴天で、朝19℃、午後23℃予想の盛春気候になった。この新港の火の上山地区岸壁は5年ほど前に完工した。我らには因縁の島で、2回風波のために寄港できなかった。最近では'05年に飛鳥Uでは寄港できず(「南西諸島・台湾 悠々クルーズ 」)、次の'06年ににっぽん丸で2回目の上陸を果たしている(「にっぽん丸春クルーズU」)。新岸壁になったから飛鳥Uももう風波の影響を受けずに寄港できるのかな。我々は今回が5回目のトライアルだ。岸壁付近は宮浦小、宮浦中などがある文教地区である。対岸に宮之浦フェリーターミナルがあり、帰船の頃に小さいフェリーが入港してきた。
- シャトルバスで屋久島環境文化センターに行く。有料。屋久島の概要案内と鹿児島県製作の20分ほどの屋久島の自然を讃えるビデオを見る。従来知識をリフレッシュし再認識したとは思うが、有料にする理由はないと思った。私は林芙美子の小説「浮雲」にあるトロッコ鉄道の路線を大きな立体模型で確かめた。屋久島は多雨で有名だが、その中でも年間8千mmを記録したというあたりの峡谷に沿って走っていたらしい。そう言えば映画「浮雲」で高峰秀子が死を迎える峡谷の営林署官舎(小杉谷)も雨に閉ざされていた。屋久島観光センター(お土産店)で家内が飛び魚主体の白身魚による練り物を買っていた。屋久島の周辺ではカツオやサバの魚影が次第に遠ざかり、今では飛び魚ぐらいになっていると聞いたのは、民俗資料館でであった。山の河川整備や下水道整備がプランクトンからの食物連鎖に影響を与えたのかも知れないと云っていた。トビウオ招きという風習が今も続いているという。トビウオ漁は近世はじめには行われているという古い漁業だそうだ。装飾品に使うラピスラズリの石が無造作に水晶と並べてあった。1本800円。
- 久本寺は小高い位置の法華宗のお寺だ。最近の浄財で建て直している。そこから眺められる一帯が昔からの集落なのであろう。そんなつもりで、旧宮之浦橋に向かって路地を眺めながら歩いた。家は現代風に変わっていて昔を偲ばせるものはないが、昭和初期に瓦葺きに変わるまで茅葺き、笹葺き屋根で板塀の家が多かったと資料館の資料にあった。小さな家が多かった。資料館付属の納屋は杉皮葺きで、屋根上に石が載っていた。現地ガイド付きの町探索のグループに出会う。さすがに屋久島ともなると植物相が我々周辺のものとよく似ている。シチヘンゲ、バンマツリ、キキョウソウ、キンポウゲ、トウネズミモチ、シャリンバイ、アメリカセンダングサ、イタドリ、タビラコetc、etc。でも南国らしくソテツや椰子っぽい樹木もある。文化村センターではヤシマシャクナゲの花を見た。1800m以上の標高の位置に自生するとか。この島は旧石器時代には大隅半島と地続きだったが、遺跡が出土するのは1万数千年前の縄文時代からだという。これは資料館で読んだ話。
- 幸運にも益救神社の祭礼日だった。益救でヤクと読ませる。資料館の屋久島史に、「824年・・益救郡・・」と言う文字が出てくる。次いで「927年・・・益救神社」とある。屋久より古いヤクである。大和朝廷の頃のヤクは?玖だった。種子(多禰)島も奄美(阿麻弥)大島も朝貢していたらしい。戦前の写真が資料館にあった。今は近くまで民家が迫っているが、昔は広々とした境内であったようだ。船で貰った資料には大救神社とあった。大救はほかでは見なかった。とにかくお賽銭を投げて型どおりの2礼2拍手1礼。それから祭見物。昔経験した祭礼の記憶が甦るような賑わいだった。これまで通った道があまりに静かだったので、こんなにも若い人たちが屋久島にいるんだと、少子化のスリートが遠退く気がした。少ないながら出店が並ぶ。ただし寅さんまがいのふうてん風なおっちゃんは見かけなかった。各集落ごとにテントを廻らし、そこには祭を楽しむ家族づれで満員だった。演芸舞台があって、幼小中ぐらいまでの各グループが懸命に自分たちの芸を競い合っていた。和風の出し物は見かけなかった。黒糖で甘味を付けたというよもぎ餅を買った。
- 資料館で見た先島丸の話は私には仏教系の思想に思われた。死後の魂は先島丸という船に乗って海の彼方の「先島」に旅立つという。
('15/5/7)