江戸300藩物語藩史(関東編)
- 山本博文:「江戸300藩物語藩史(関東編)」、洋泉社、'15を読む。私は、就職で京都を離れてから「藩」を意識し出した。私はここ40何年も関東は千葉県に住み、今や関東が第2以上の故郷だ。京都を出てからすぐ、京都をさらに云えば近畿一円をもっと精力的に見ておけば良かったという後悔が始まった。そのため関東では少し意識的に周辺を旅するようにしている。本書は関東地方史である。江戸城は壮大だが、その他の関東のお城は格段に質素だというのが実地に見物した感想で、今ではこの印象は確たるものになっている。よそ者として入ってきた徳川氏が、関東では特に念を入れて、一極構造を作り上げたことは想像に難くない。そこら辺を本書が具体的に示してくれるのであろう。
- 佐倉藩は独立の1章になっている。同じ扱いの藩がほかに8藩ある。我が家に近く、街並みを含めて史跡保存状態が良く、城址にある国立歴博がなかなかの展示力を持っているので、佐倉城址にはよく通う。このWebサイトの最近の関連記事は「早春の歴博」「お茶の科学」(共に'15)である。井伊大老に罷免された老中・堀田正睦が眠る菩提寺・甚大寺にも参詣した。百姓一揆の義民・佐倉惣五郎の宗吾霊堂にも出掛けた。惣五郎のたたりを怖れて藩が建てた霊廟だ。百姓でしかも刑死人の霊堂にしては立派すぎるから、本気で怖れたのだろう。順天堂大学のルーツの佐倉順天堂記念館には外科手術道具などあったように思う。正睦の先進性を物語る。版籍奉還後の旧藩主別邸が佐倉厚生縁にそっくり庭ごと残っている。武家屋敷が2軒だったか公開されている。周囲は中級武家屋敷街の雰囲気を残す。鏑木町という、いい名である。
- この佐倉藩は最大が土井家時代の14.5万石、幕末の堀田家は11万石だった。これでも千葉最大の石高で、次が関宿藩の6万石、あと44藩を数える。大半が表に載っているだけの小大名で、4万石を超えるのは5藩だけだ。城跡らしい城跡があるのは佐倉、関宿のほか大多喜(1.6万石)と久留里(1万石)だ。過去の天守や砦は一切ない。ただ近年に復元再建したコンクリートの建物が元の位置またはその近接地に立っている。昔の記憶だから確かではないが、久留里城には石垣は一切なくて土塁だけだったと思う。山城で、峰にV字型のノッチを入れた堀切で、城の防壁にしていた。
- 久留里城は戦を知らぬただの象徴的小城ではない。室町時代からの歴史があり、戦国期には北条氏対里見氏の攻防の最前線であった。城裾の村落には、今はどうなっているのか知らないが、造り酒屋があって小さいながらも城下町であったことを示していた。そんな小藩が40ほども千葉一県のあちこちを埋めていた。佐倉藩にしても分領地が10箇所もあり、税収は本領地と同じぐらいだったろう。佐倉の藩主家はめまぐるしくも13回変わった。最後の堀田家は6代125年続きやっと藩政も安定した。関東一円について云えることだが、とにかく武士から見れば統治しにくい、逆に言えば農民が逃亡しやすい反抗しやすい支配体系になっていた。幕府がお膝元で武士層からの反逆の狼煙が上がるのを極度に怖れた体系作りをした結果である。
- 忍城は、秀吉の北条征伐の時石田三成が2万の軍勢で取り囲み、秀吉の備中高松城の水攻めに習って城域を水浸しにしたが、陥落しなかった浮き城として有名である。ドチった三成は武将として名が上がらず、私は関ヶ原の西軍不統一の遠因になったと思っている。本Webサイトの「風土記の丘」('97)や「高崎日帰り観光」('11)にさきたま風土記の丘の印象がちょっとずつ入っている。あそこには忍城の平面図があったと記憶する。北条時代は上杉睨みの重要な支城であったはずだ。なかなか広大だった。三成は古墳の1つに本陣を構え、周囲28kmに及ぶ石田堤を張り巡らせて水没させた。どこまで水没したのか知らないが、高松城の地形に比べて明らかに平地部が広いから、水没させ切れなかったのではないか。その忍城は自動車の中からチラと見た程度だった。ネットで見るとずいぶん立派に復元しているらしい。本Webサイトの「秩父夜祭と寺泊 」('99)の秩父夜祭りは、忍藩領内の祭で、養蚕・絹織物で経済力を持った町人農民たちにより、派手に開催されるようになったのが始まりという。
- 章立てで解説してあるめぼしい関東の藩のうち、前橋藩には縁がなかった。ネットで調べると遺構らしい遺構はほとんど残っていないと云うことで、敗戦時の市民の愛着の程度がわかる。市教育委員会の復元想像図では土塁の土台の上に石垣の立派なお城になっている。本書には当地が利根川に近く水害の多発する場所で、明治維新寸前に本庁が川越から移転したが、それまでは荒れ放題だったとある。移転は幕末のにわかの生糸ブームが切欠になったとある。川越の土塁防壁はほとんど見る価値があるほどには残っていなかった。ただ本丸御殿という建物が残った。お城の遺跡で木造建築物が今日に伝わるのは希だ。私が見学した範囲では、二条城の御殿以外に記憶に残るほどの御殿建造物はここ以外にない。
- 「高崎日帰り観光」には群馬の森の訪問途上に高崎城址を訪れ、博物館でお城の由来などを見た記録を載せている。利根川の西で東の前橋とはまあ対峙しているが、ちょっと利根川からは遠く、中山道への睨みという重要拠点だったし、歴代藩主家の交替はあったものの、まあなんとか遺構の一部が残った。三の丸外囲いの土居と堀が残る。埋め立てる時たいていは本丸の周辺の堀ぐらいを残すところが多いのだが、ここは三の丸の堀だからお城の規模をがっちり把握出来る。時間がなくて中には入らなかったが、今の三の丸内には公共建造物が多いから、過去の位置対比はできるのであろう。世界遺産の富岡製糸場もあるし、県立のシルクの総合博物館もある。この地方も養蚕と絹織物で栄えた。歴博には日本全体の養蚕業の歴史的展示があるが、中心地の一つであることを示していた。
- 本Webサイトに「宇都宮日帰り紀行T」「宇都宮日帰り紀行U」('10)がある。2日掛けて宇都宮を見物した。出発点が宇都宮駅の「宇都宮餃子小町」で、名高いB級グルメを味わっている。博物館、宇都宮城、二荒山神社、飛山城址などを目玉に見て歩いた。最後の飛山城址は、本書にはない中世の城跡で、土塁と空堀の城ながら整然とした広い城域を持つお館であった。再建された宇都宮城は昔の本丸のごく一部で、出入り口の清水門も省略されていた。安普請の再建というコメントを入れている。再建前まで残っていたのは本丸の一部の土塁と堀だけだったのだろう。古図では堀は3重で、面積は今の本丸公園の100倍はある。本書でもそうだが、公園の説明文にも「宇都宮釣り天井事件」は否定されていた。家康が重用した本多正純を秀忠が煙たがっていたところへ、将軍姻族からの讒訴があったというのが本当らしいと本書は云う。
- 水戸藩は御三家の一つ、さすがに城も別格で、佐竹氏を引き継いで拡張した縄張りは広い。でもそれほど印象に残る名城ではない。天守も造られなかった。斉昭の偕楽園には何度も梅見に出掛けた。末期の藩校で俊才を育んだ弘道館、大日本史の西山莊も訪問した。藩主の霊廟(瑞竜山)が神道に基づくことも水戸廻りで知った。藩の格とか気骨はいろんなところに出ていると感じた。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では、今まさに水戸藩の尊王攘夷派の暴走が始まろうとしている。井伊大老暗殺、天狗党の乱と鎮圧、佐幕派の諸生党の覇権と没落など近代の水戸は波瀾万丈で、しかし結局は時勢に取り残される。幕閣にあって中心になれず、維新になっても挫折した水戸の不運は、判官贔屓を惹きつける。
- 土浦、古河にも足を運んでいる。土浦藩は10万石までの中大名で、地理的に近い水戸徳川家の影響が強かった。本丸の堀が在りし日を偲ばせる。古河藩は7万石で終わった。交通の要衝にあり、古河公方以来の権威の象徴でもある古河城には、幕閣の重臣が詰めることになる。しかし遺跡は寺に移設された楼門とか、1-2箇所の土塁残土程度であり、町名も歴史ある名前を棄てていたりして(本Webサイト:「寒川神社大祭」('98)、「新しい公民教科書」('01))、市民の過去の重みを大切にする気概を感じさせなかった。
('15/4/18)