成田、博物館、お花見

関東から冬が去った。つい先日まで暖房が欠かせなかったのに、もう5月の気温になっている。東京の桜が満開になったとTVニュースが伝えていた。平均より5日ほど早かったそうだ。頃はよし。超高齢誕生日を迎える前のお礼にと成田不動尊への参詣を発起したのが切欠で、そのあと常設展示室リニューアルオープン(無料公開)の広告に乗って、江戸東京博物館を訪問、さらに恒例に近い千葉青葉の森公園の花見一周を実行した。
成田新勝寺参詣のもう一つの目的はうなぎである。11時半に快速で成田に到着、予定のうなぎ屋「三はし」に入る。。三はしの鰻重は関西風とウエイトレスのおばあさんに確認してから注文。この関西風うなぎは関東ではなかなか見つからないのだ。注文を受けてから焼く。20分ほどで出てきた。この店の半分は椅子席だが、残りは座敷席になっている。あといろいろ成田のうなぎ屋をのぞき込んだが、歴史のありそうな店は皆このような構造をしている。家内の鰻丼は私の鰻重の6割ぐらいの値段で、うなぎは私の半分の半匹だった。みやげの鰻重弁当と蒲焼きを別途買って8600円を支払った。別注品は帰途まで預けておいた。
成田に多い店はうなぎ、漬け物、煎餅、蕎麦、竹とか籐の網籠製品、漢方薬それに旅館だが、最後の2つは流行らないようで店じまいをしているところもあった。和菓子のなごみの米屋は建て替えたようだった。裏の成田羊羹資料館を見た。もう1軒柳屋と云う羊羹屋がある。羊羹は昔は名物だったのだろう。明治大正時代つまり手作り時代の、鍋釜に押し型と云った製造器具や原料一式が並んでいた。原料も鼻薬というか隠し味というかいろいろ混ぜるらしく14種を数えたように思う。新勝寺正面のうなぎの2軒:川豊と菊屋は対称的で、前者はマスメディアに取り上げられたことがあるとかのためだろう、長い行列だったが、後者には列など無かった。千葉の百貨店では前者がそごう、後者が三越に来るという。信徒会館前の広場に小規模だが骨董市が立っていた。いつも28日に開かれるという。参詣の人出は多く賑わっていた、昔より外人をたくさん見かけた。成田不動尊は特別昔と変わったところはないようだった。エレベータがあって階段を下りるのが苦手の家内に役立った。
次の日、江戸東京博物館に11時半頃到着、昼食時なので7Fの和風レストラン桜茶寮に直行し、大江戸弁当を食った。飯、味噌汁、香の物に松花堂式のおかずが付いていた。イヤホンを借りようと思って入り口の6Fゲートのお嬢さんに聞いたら1Fのインフォメーションにあるというので、下へ降りる。貸して貰っていざ流れる話を聞こうとするとそのイヤホンは英語だった。日本語にする方法を聞いたら、イヤホン取り替えだという。貸した人が悪いと思ったのか取り替えに走ってくれた。結局博物館見学は1時から2時半まで、あと博物館周辺の桜(ソメイヨシノ、ほぼ満開、なお亀戸天神近くの錦糸公園のサクラも電車で見た限りでは満開だった。)と旧安田庭園(桜はない)を見物して、我が家に戻った。今回は本HPの「3台目のデジカメ」('15)に書いた写真機Canon G7Xを持っていった。フラッシュ無しの撮影だが、細かな説明活字がばっちり取れていた。メモ代わりにと思いバチバチ取った。おかげでかなり見学時間が節約できた。
この博物館は何度も訪れている。「江戸東京博物館」で日記を検索した。'97年、'01年、'03年、'08年に訪問した記録がある。始めは常設展をしっかり数時間を掛けて見学し、あとは企画展特別展に重点を置いて見ている。老人優待が昔からあったことがわかる。企画展を入れて500円だったと記載している箇所があった。今回を調べると常設展有料時780円になっていた。レストランでも気付いていたが、少しづつ値上がりしている。
以前の見学の結果は本HPにある。「遊女の平均寿命」('97)、「和洋折衷」('97)、「近代銀座」('97)、「来年の恋人」('97)、「茄子のしぎやき」('97)、「富士講」('98)、「女郎屋の論理」('98)、「埼玉県立博物館」('98)、「歴博の水木コレクション展」('98)、「曾太郎、青児、県展、高校展」('98)、「川越祭」('99)、「勤番侍」('00)、「ゆめテク見学記」('00)、「勤番侍・酒井伴四郎」('00)('01)、「江戸の米屋」('01)、「弘前その一」('01)、「徳島県立博物館」('02)、「熙代勝覧(きだいしょうらん)」('03)、「浦安散歩」('03)、「武士の家計簿」('03)、「近江八幡」('04)、「薫風」('05)、「お江戸風流さんぽ道」('05)、「江戸幕末の食生活」('06)、「すべての道はローマに通ずU」('06)、「日本語の歴史」('07)、「ロートレック展と篤姫展」('08)、「鹿児島」('08)と間接的記事を合わせるとずいぶん書いている。
今NHK TV大河ドラマ「花燃ゆ」では、南蛮わたりのコレラが山口を襲いかかっている。江戸の疫病年表に長崎からの安政コレラは1858/7〜10だったと示されている。久坂 玄瑞が江戸に出たTVドラマの今は確かに1858だ。コレラの東方蔓延はあっという間だったらしい。本HPの「ウォーター・クライシス」('05)、「生命と記憶のパラドクス」('12)にコレラの蔓延は汚水の上水からの隔離がポイントとしている。リニューアルで江戸の上水道関連の展示はかなり強化された。玉川上水の系統図、その運営管理法、木樋と井戸の図、実物展示など、安政コレラが大事件に至らなかった理由、更には我が国の「きれい好き」の衛生思想が、当時としては「世界に冠たるもの」であったことを物語る。年表には屍体は焼却されたとある。TVドラマでもそうだった。これも好結果を生む理由だったろう。中世のヨーロッパでは屍体の路上放置した、そんな衛生観念の低さのために、黒死病流行の時は人口が何割も減ったと聞く。上水道の説明にさらに下水道の説明を付ければ上々なのにと惜しかった。
町民に関する記述がぐんと増加した。かってたいそう興味を持って眺めた勤番侍の行状などは姿を消した。遊郭吉原の説明パネルが更新された。遊女の平均寿命22才と云うパネルはなくなり、俗に言う投げ込み寺の遊女の慰霊塔の写真の入った遊女人口年表と、その平均的一日日課の円グラフがあり、過酷な労働条件であったと結論づけてあった。人形の置かれた芝居小屋、商家の大型精密模型はなかなかの出来映えだ。日本橋界隈の賑わいはTV時代劇のエンディングに使われたことがあった。
町の人口統計はかなりな精度のようで、江戸末期は町人54万人とあった。侍と寺社人は町人数を上回っていたろうから、江戸末期は100万超の人口だったのだろう。江戸末期での町民の男女比率はほぼ半々で正常だが、侍を入れると大幅に男の比率が上がる。1.8倍という数字を聞いたことがある。文政の頃の大工の年収が銀1貫587匁とあった。これ奉行所同心と同じくらいだ。1日5.4匁で相場の3-5匁より高いから腕の良い大工だったのだろう。1両が60-65匁の時代だった。1両は4-20万円。以上はネットの「一文と一両の価値」(しらかわ ただひこ氏)を参照した。全部中を取って計算すると、305万円。東京都のサラリーマン年収平均は590万円。200年前の江戸なのに今の中進国なみの収入だ。かなり高水準の生活をしていたと言えるのだろう。それがあればこそ明治維新に成功したのであろう。
現代の展示では東京都の年間ゴミ量の推移が目に付いた。バブル景気の1988年あたりをピークに年々減少しつつある。千葉市でも熊谷市長が音頭を取って、ごみ量圧縮に力を入れつつあり、その効果も上がっている。地方行政のやればできる1つの見本で、最近毎日新聞が力を入れている地方行政の無気力化には良い材料だ。多摩川に鮎が戻った話はTVで何度も見た。下水道普及率が100%となり、BODが著しく改善された図が展示されていた。戦時下のパネルの中に集団疎開児童の生活風景があった。私もその一人であったから懐かしかった。昔風船爆弾の展示があったがそれは取り除かれて、東京大空襲の悲惨さを物語る展示に変わっていた。
その翌日、青葉の森公園に出掛けた。まず県立中央博物館に入った。その日の企画展は「世界の遺跡から出土した貝」という題だった。5万年前のネアンデルタール人の加工貝殻は我らホモサピエンスの一つ手前のヒトの知能を示す。貝紫は数少ない動物性天然染料として有名だ。ローマ皇帝のローブを染めた紫だったので、あちらでは帝王紫と呼ばれたと記憶している。地中海にはその貝塚があるという。でも佐賀県の吉野ヶ里遺跡(弥生時代)の絹織物の染色にも貝紫が用いられていたという。これは知らなかった。種は違うがどちらもアッキガイ科だ。この博物館を昨年も丁度この頃に訪れた。常設展で何かリニューアルした箇所はないかと聞いてみた。本格的な改新はないようであった。国分寺が建てられた頃房総の各村落にも簡単なお堂が造られる。その遺物から復元された七重瓦塔2基が展示してある。今も敷地の一部に国分寺がある上総国分僧寺には、七重の塔があったと記録されている。私は瓦塔の七重にいささか重点を置いて眺めていた。2年前に千葉市美術館で「房総の美しき仏たち 半島仏像」(本HP「仏像半島」('13/05))という題の企画展を見た。千葉にも堂々たる仏像群がある。その展示に含まれていたかどうかもう記憶は確かでないが、重文の印西市松虫寺の七仏薬師の複製が平安時代の年表の下に置かれていた。この展示室は中央文化仏教文化のいち早い浸透ぶりを立証する部屋で、見るたびに日本の一体化が1200年来のものであると意識させられる。
昼食は博物館レストランのカレーライス500円。ここは値段が変わらない。あと青葉の森をまず付属植物園の生態園から散歩。シュンランがもう終わっていた。ツクシは残ってはいたがほとんどがスギナに成長していた。アオキの花があちこちで目に付いた。
お花見の人出は週日の割に多かった。開花している桜は、オオシマザクラ、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ヤエザクラ、コシノヒガンザクラで、ソメイヨシノは満開状態だった。このHPに「写真展:水辺の記憶」('14/4)、「青葉の森公園のお花見」('13/4)がある。それぞれの年のお花見を記述している。蕾状態の桜はカンザン、イチヨウ、フゲンゾウ、ギョイコウ、スルガダイニオイ、タオヤメ(手弱女、なんとも風雅な品種名なので、ネットで調べたら原木は京都平野神社にあると出ていた。)、マツマエハナゾメイ(松前花染井)、ショウゲツなどだったと記憶する。この公園は花の種類が多い、もう一度来ようと思わせる。NHKの5分番組「もういちど、日本」にソメイヨシノが登場した。染井村の植木職人がオオシマザクラとエドヒガンを交配して偶然に得られた1本だった。ソメイヨシノはオオシマザクラに接ぎ木する方法で全国に広がったという主旨であった。同じ話は昔「くらしの植物苑」で聞いていたが、必ずオオシマに接ぐ、挿し木ではないとは理解していなかった。接ぎ木あとは生涯残る、と聞いたのでソメイヨシノの幹をときおり眺めるのだが、たいていは完全治癒?していて、傷跡を残していない。だから私はむしろ挿し木の方が多いのではないかと疑っていた。エドヒガンはオオシマよりは大きくないから、オオシマに接ぐのは当然とは思っていた。

('15/4/2)