ローマ亡き後の地中海世界T

塩野七生:「ローマ亡き後の地中海世界〜海賊、そして海軍〜T」、新潮文庫、'14を読む。彼女の歴史小説は「ローマ人の物語」、「海の都の物語」、「十字軍物語」までを読んだ。博覧強記の彼女が、ふんだんに歴史事実を紡いだ、見知らぬ外国を舞台とする物語は、私を惹きつけて止まなかった。今回の小説は、西ローマ帝国が滅び、東ローマ帝国が気息奄々の状態となり、軍事的に空白地帯となった地中海沿岸をサラセン人海賊が荒らし回る話で、「ローマ人の物語」と後2者の中間あたりの時代・中世前期に相当する。アチラには海賊に対応する言葉が2種ある。古代ギリシャ由来のpirateは我が身のためだけの本当の盗っ人であるが、corsairは中世ラテン語からで、サラセンのような国益あるいは宗教益を仮面にした海賊と云った意味らしい。のっけから面白いと感じた。
まず32p.に及ぶ巻末の地図と写真に驚く。イタリア全土に分布するサラセンの塔という表題で集められている。城と云っていいほどの立派な塔もあるが、だいたいが単独の背丈の高い石造りの頑丈な見張り塔だ。その数の多さは、村ごと町ごとに建立されたことを意味する。海賊は少数船団でそれに見合う町や村の不意を襲い、略奪、暴行、殺戮、拉致を繰り返す。その頃のイタリアは、東ローマ帝国の流れであるビザンチン帝国、ゲルマン民族大移動の末裔である諸公国、ローマ法王、神聖ローマ帝国それから地中海貿易で財をなした都市国家などに分割統治され、相互の境界線を巡る紛争が絶え間なく続いていた。本来なら海賊退治は国家の軍事力で制圧すべきところだが、公権にその余裕も意志もなかった。住民は一刻も早く襲来を発見し、内陸部に一目散に逃げるしかなかった。そのための監視塔である。
なぜにサラセン海賊は残虐非道の限りを尽くしたか。それはコーランの聖戦(ジハード)だからだ。神の教えを誤って信じている人々、つまりキリスト教徒とユダヤ教徒、の持ち物を奪うのは正当な行為であり、誤った信仰を持つ人々を捕らえ奴隷にするのも正当な行為になる。9/20のNHK:「週刊 ニュース深読み いま何が… "イスラム国"勢力拡大のワケ」では、「コーランに書いてある「ジハード」とは、アラーのために「努力し奮闘すること」という広い意味を持っているが、過去、イスラム圏の拡大には「闘」が最重要であったし、過激派でなくてもイスラム教徒に戦争手段を否定するものはいない。」と解説していた。"イスラム国"で拝火教の流れを汲む少数派が町を追われ殺害されているニューズは何ヶ月か以前にあったが、手向かう力が弱いと見た相手に対するコーランは、まさに狂気に対する油になる可能性を秘めている。
奴隷の行方は一番気になる。この春にイスラム過激集団によるナイジェリア生徒(276名)拉致事件があった。Wikipediaによれば、生徒たちは改宗と金銭を伴う(兵士との)結婚を強要されたようだ。旧日本軍の従軍慰安婦は、江戸時代以来の色町組織の延長線上にあった。中国や韓国にはもっと封建的な体制の売春システムがあったと思う。従軍慰安婦募集はそんなシステムに載って行われた。韓国民は当時は日本国民だから、朝鮮半島に於いてだけ、性奴隷狩りが行われたというような韓国の主張はまるで説得性がない。本書にはふしぎに女奴隷の話が出てこない。でも生死の極限状態にある兵士のための女がいないはずがない。
男奴隷はガレー船に鎖でつながれた船のエンジン、つまり漕ぎ手にされるケースが多い。砂漠の民は海賊船の建造などといった高級技術は持ち合わせないから、旧ローマ以来の造船技術は大いに役立った。アラーのために働くのにキリスト教徒では困る。全員改宗。改宗を拒んだ修道僧被拉致者は、皆首を切られたという記録があるという。捕虜収容所となったのが大浴場。なんとも理解しがたいが、キリスト教は、入浴を享楽の一種として忌み嫌った。中世のキリスト教徒は入浴習慣のない悪臭プンプンの人種であったのかも知れない。強い香水が開発された理由だろう。捕虜収容所の管理人は、奴隷を社会のニーズに合わせて労働に出す。儲けは、奴隷を飢え死にさせぬ程度のぎりぎりの食費その他の経費を除いて、がっぽり懐に入れる。
海賊行為はコーランに基づく正業である。船以外の元手は海賊の命。首尾良く襲撃できれば、奴隷を含めた宝物を満載して、意気揚々と胸を張って入港できる。1/5は首長とか地方長官の公的儲けである。広い裾野を持つ基幹産業として、海賊業は地中海南岸のサラセン地帯に根を張った。だんだんと彼らの目が肥え出す。教会とか修道院は敬虔なキリスト教信者の寄進で、宝の倉庫になっている。私はハンガリーだったかのさる寺院の宝物展示室を見たことがあるが、歴史の積み重なった寺院の宝物の厚みは、まことに見事だった。我が国では大寺院であっても今日に伝わる寺宝は、それらに比べれば金銭的には全く見劣りがする。イタリアの田舎の教会や修道院がまるで城塞のような外観を示す場合があるのは、海賊対策から来ている。同様によくTVで紹介される山頂に陣取った村は、住民の不便を顧みない悲しい防衛策であったという。
ここまでは小規模海賊の跋扈だった。だがシチリア島攻略とかローマ攻防戦になると、サラセンも烏合の衆では戦えない。農村漁村地帯ならいいが、中心は巨大防壁都市ばかりだ。バグダッド派遣の地方長官の総合指揮の下に2万3万の軍勢が攻撃に参加する。でもローマ軍やそれを引き継いだ中世騎士団軍隊のような統括的意図を持った軍隊ではなかった。ただし、コーランの合い言葉は単純明快に戦士の胸を熱くする。彼らは会戦に一旦敗れようとも「性懲りもなく」次の海賊行為を仕掛けてくる。旧来ヨーロッパ国家にとっては、まことに御しがたい「悪夢」の存在であった。シチリア島を領有するビザンチン帝国は衰退の一途を辿っていた。本国が南北から異民族の挟撃を受けシチリア島に割ける兵力とてほとんど無かった。サラセンの波状攻撃にたいし、かろうじて島の首府シラクサと近隣1都市をキリスト教側に持ちこたえる程度であった。
私は浅学にして、サラセン海賊のローマ攻撃という歴史事実を知らなかった。彼らは連戦連勝で、その姿を見れば逃げ散る姿を見て、キリスト教徒を「臆病なイヌ」と蔑視していた。このイヌの聖都攻略にいかほどの手間が掛かろうかと思っていたであろう。かってのローマ軍港をたやすく陥落させて、ローマに攻め入ったが、容易ならぬ反撃を被る。「窮鼠猫を噛む」と表現してあるが、私はちょっとその表現には違和感を覚える。聖都が危ないと今度はキリスト教徒が聖戦に立ち上がったのだ。自発的参戦の逸話がいろいろあるようだ。一神教では絶対に他の神を受け入れようとはしない。ヒンズーの神々が仏教の守護神として祀られ、逆にヒンズー教では仏教はその一分派となり仏陀もヒンズー神の一人だ。しかもヒンズー教は最高神を頂点とする一神教だなんて主張(本Webサイト:「ヒンドゥー教」('07))をされたら、彼らは全く理解できないだろう。「神」風が吹いて元寇そっくりになったというような幸運にも恵まれた。何千の捕虜は今度は法王庁の防壁建設の労働者として扱き使われる。必勝神話の崩れたサラセン軍では内部構成問題が噴き出す。キリスト教徒には、相手も人、本気で戦えば勝てぬ相手ではないという、負け犬根性からの脱却が芽生えたであろう。
宋や明が倭寇に沿岸を荒らし回られた、実は倭寇は本物の日本から来る海賊などはしれていて、実際はその名に悪乗りする華寇、台湾寇、フィリッピン寇、ベトナム寇だったと云う話は聞いたことがあるが、地中海の海賊も本物のサラセン人(アラブ人)ではない新イスラム教徒のムーア人やベルベル人の方がずっと多かった。本物にはイスラム精神が骨の芯にまで染み込んでいる。海賊商店の主人番頭手代までは本物の原サラセンで、イスラム精神のお家大事派だが、丁稚に男衆、女子衆などの下働きは自分の取り分には熱心なものの、芯からのサラセンではない。手痛い敗北と代償は、少数派アラブ人の支配力にヒビを入れた。
後世地中海に覇を唱えるヴェネツィアの海軍力は、建国後400年の当時はまだ弱かった。危うくアドリア海の制海権まで奪われかねない状況だった。健闘した海軍は貿易が命の海岸都市国家アマルフィ、ナポリ、ガエタである。イタリア海軍旗の紋章にアマルフィの旗が含まれているのは、その歴史貢献を示す。ちなみにピザ、ジェノヴィア、ヴェネツィアの旗も含まれている。
北アフリカの最上席者のアラブ人首長は、シチリアに最後までキリスト教徒の橋頭堡として残っていたシラクサの奪取に立ち上がる。聖戦は9ヶ月の激戦の後完遂された。首長の権威も維持できたし、原サラセンの新サラセンに対する威厳も保つことが出来た。シチリアを領有しているはずのビザンチン帝国は、ついに最後まで援軍を送らなかった。陥落後の兵士に対する報復は激烈だった。生皮を剥ぐ処刑を受けた勇士もいたという。イスラム側は歓喜の声を上げる。キリスト教徒側はシラクサ陥落がシチリアの強大な軍事基地化に繋がり、ヒットエンドラン海賊の時代からさらに進んで、イタリアから南フランスの主要街道が分断される危機をもたらしたことにやがて気がつく。
法王はキリスト教徒の保護を皇帝、国王、領主に説いて回る。餌に神聖ローマ帝国皇帝の地位を国王に約束する。全員が乗ってきたら、皇帝が3人も誕生することになるのだったが、実際に呼びかけに応じる世俗権力者は出てこなかった。法王は自ら法難に立ち向かう決心をする。この十字軍以前の十字軍は、上述の海洋都市の援助を受けつつ、果敢に戦い、ともかくもさし当たっての危機回避に成功する。しかし喉元を過ぎたとたんキリスト教徒側は元の分裂状態となった。でも北アフリカで原サラセンと新サラセンの内部抗争が持ち上がったのが幸いして、海賊禍は一服状態になった。法王は在位12年で暗殺される。この時代の法王は再々暗殺にあっており、命がけの地位であった。
シチリアのキリスト教徒は全員改宗させられるか奴隷化されたのか。ノー。イスラム当局は現実的であったとも云える。イスラムは少数派だ、シチリアはローマ時代ほどではないにせよ農業で豊かな土地柄だった。人頭税を支払う第2国民として、第1国民のイスラム教徒には遠慮せねばならぬ事例はあるが、それでも信仰を維持することを許された平和な生活を与えられる。イスラムの寛容だ。キリスト教の世界ではいまだに異教徒は人でなかった時代での出来事で、まさに画期的な共生関係であった。それに対してスペイン同様シチリアでも今はもうイスラム教徒はゼロに近かろう。キリストの寛容は、どの土地でも行われなかったと言えるのだろう。

('14/10/5)