もの忘れの脳科学
- 苧阪満里子:「もの忘れの脳科学〜最新の認知心理学が解き明かす記憶のふしぎ〜」、講談社Blue Backs、'14を読む。本Webサイトには、「心の脳科学」('09)、「こころの脳科学」('13)など、心理学とか大脳生理学に関するお話をいろいろ入れてある。いささか古いが「なぜヒトの脳だけが大きくなったのか」('07)は、お猿の先生が書いた本に対する私評である。その本は進化論から見た脳の本質を説き、脳裏に残る内容だった。
- 本書は8章からなる。そのいずれにも題名に「ワーキングメモリー」という言葉が入っている。私には新しい概念だ。はじめの方にこの「仮説」を説明してある。実験心理学データ、脳損傷の臨床報告などを織り交ぜて、できるだけ具体的イメージがわくようにとの配慮が出ている。でももう一つはっきりしない。一般大衆相手の本ならPCとの対比で概説すれば判りいいのではないか。ということで「図2-6 2000年のワーキングメモリー(以下WM)のモデル」とPC構成要素を対応させてみた。図の長期記憶はPCのHDDなどの外部記憶装置対応だ。WMには制御・演算装置のCPUが含まれる。中央実行系と書いてある。
- WMの残りの3システム〜音韻ループ(短期記憶(言語性))、視空間スケッチパッド(短期記憶(非言語性))およびエピソード・バッファー〜が問題だ。HDDに蓄えられたソフトはスイッチが入ると「適切」にPCの主記憶装置(メイン・メモリー)に呼び出される。瞬間瞬間の操作はすべてこの主記憶装置が介在して行われる。だからこの呼び込まれたソフトが残りの3システムに対応する。スイッチがオフとなれば消えるから、短期だ。言語性対応はテキスト・スタイルのデータ、非言語性対応は画像データ。エピソード・バッファーには、長期記憶との対比検索統合保持という高級な働きが想定されている。ワープロ・ソフトを立ち上げているときに、過去の資料との対比が必要になると、ヒトが手動でキーボードを叩くとかマウスを動かしOSを挟んで検索する。このときはヒト+(OS+ワープロ・ソフト)がエピソード・バッファーになっている。
- WMの短期記憶容量は窮屈だ。五感に受け入れた刺激を、ササッと整理して次に備えねば、動きが取れぬ。何秒か後に残る記憶は僅か10%ほどという。覚えねばならぬと大脳皮質を働かせる記憶とは違う。言葉を聞いていて、直後に来る単語の具体的な意味を理解する。それまでに覚えておかねばならない記憶という意味である。私の現在のPCはもう購入してから5年になろうとしている。このPCは、主記憶装置に対応する実装RAMメモリーが4.00GB、HDDが500GBだ。いまでは「メモリー不足です」などという警告が、PCから発せられることはなくなった。だが20年も昔の、98 note時代には1MBしかないメモリ容量に神経質だった。
- 書棚にM&M企画:「まるごとメモリブック」、SOFTBANK BOOKS、'93が残っていた。だんだんソフトが膨大になってきて、いかにメモリー不足を逃れるかで1冊の成書が作られるほど問題だった。さしずめヒトの脳は98 note対応なのである。脱線だが、98 noteはNECの9801シリーズの1台だが、外部記憶装置としてはFDしかなかった時代に、1.25MB(1FD相当の容量)のRAMドライブを実装しており、あらかじめ例えば一太郎ダッシュのキモの部分をこちらに移しておけば、当時としては驚嘆すべき速度のワープロになると云う優れもので、それからのPCとOSの大発展を予想させるモノであった。
- 上手なconfig.sys、autoexec.batを書くと、1MBメモリーのPCでも性能は格段に上がる。メモリーをいじれるフリーソフトや、拡張メモリーを付け加えるとさらによくなる。「まるごとメモリブック」が云っていることはまあそんな事だ。WMを後天的に細工することは出来ないが、親が「子どもの脳のメモリブック」をうまく仕組んでくれると、個人差が出てくる。その測り方を読んでいると、昔受けた知能指数IQテストを思い出した。全生徒対象のペーパーテストだったから、聴覚からのテストはなかった。でも本書にある文章題、算数題、幾何題など全部あった。本書には聴覚からの結果と視覚からの結果は強い相関があるという。まあ当然だ。今は学力偏差値は大学入試関連で喧しいが、IQについて新聞に記事が出ることはなくなった。WMの高得点者は記憶のイメージ化に優れ、雑音に禍されない集中力があるという。TVゲームなどで驚くべき記憶術を開陳するヒトが登場することがあるが、手の内を聞かれると、たいていはイメージを物語化して覚えているという。あれとおなじらしい。WMがIQに対応するとしたら、長期記憶中心の能力が学力試験に対応するのであろう。
- 「こころの脳科学」('13)では、fMRIの解像力はたかだか3mmぐらいで、ニューロンの追跡には限界があると書いた。大脳生理学に使うその他の分析機器も同様だろう。しかしヒトの脳に関する限り、たまたま脳に損傷を受けた患者の行動解析で、断片的な脳科学資料が得られるに過ぎなかった時代に比べれば、新しい解析装置は、格段の進歩をもたらした。WMの中央実行系のダイナミックスは認知に関して一番知りたい対象だ。スパンテストの課題を被実験者に与え回答させると共に、解析装置が脳内の活性部位とダイナミックスを追跡する。スパンテストとはこんな目的の心理学実験手法で、例えば、意味のある短文を読ませ、ターゲット語を答えさせるが、おいおいと短文(独立の意味を持つ)数を増やし、脳が混乱に対しどこまで耐えられるかを見る。
- 今のPCのCPUはdual coreで、同時に2つの仕事を処理している。一般的ではないがtripleやquad coreのCPUが出現している。我らの脳はtriple core相当だという。ただその3個のコア(さらに副次的に働く脳機構があるが、模式的に表現した)が、互いにネットワークで強く結びついて、注意の維持、抑制制御、注意の切り替えと主とする業務の分担がある。だから見ようによってはsingle coreなのだ。
- 脳力の衰えを見越して、ワルが老齢者をカモにする。認知症域に入った老齢者は危ない。でも病ではなくても加齢と共に認知力は低下する。単語記憶のような単純な作業では若者とそう差が出ないが、二重課題の作業では差が付く。補償作用もあるから面白い。思考判断のCPUは左脳にあるはずだが、加齢でネットワークが縮まったヒトは、右脳に助けを呼ぶそうだ。脳溢血患者がリハビリに精を出すと、本来の位置ではない脳分野が、失われた機構をある程度バックアップする話は以前に聞いている。ヒトの脳は全くフレキシブルである。
- 老齢者と対極の乳児、幼児のWM発達模様は、子や孫を持つ身には身近な話だ。シナプス密度は生後10ヶ月でピークに達し、成人の1.5倍になるという。シナプスは神経細胞に繋がるシグナル伝達結合部位のことだ。神経細胞数は生まれつきのモノで、普通は増減しない(と思っている)が、神経回路形成に応じて余分なシナプスは刈り込まれる。刈り込みは10歳前後までは急激に、それからはゆっくりと思春期まで続く。本書では、刈り込みにより神経細胞は減少するとしている。刈り込みにより余分な回路が整理されて、霧が晴れたようにWMの中央実行系の注意制御能が確立し、スパンテストにおいても成人に準ずる成績を出すようになる。
- 乳児は「いないいない、ばぁ」で、見える位置に親がいないと不安がる。だが幼稚園児ほどになると、見えない親の居場所を確信している。私は、幼児期に親と乗り換え駅ではぐれた。でも兄がいたので兄を通じて親との繋がりを確信し、心配しなかったことを覚えている。逆に幼い吾が子(幼稚園前の3歳だったと家内は云う)を大型百貨店で見失ったときは青くなった。その子はどこをどう辿ったか知らないが、遠く離れた駐車場のマイカー前に戻っていた。吾が子の「刈り込み」は早かったらしい。
- 日テレに「はじめてのおつかい」という番組がある。幼児が一人または兄弟で買い物に行く。行き先は日頃親と一緒に出かける店だ。長期記憶に残っているからだろう、まず間違えない。だが買い物は大変だ。野菜と魚を取り違えることはまず起こらないが、その下の、品種に数量となると難しい。粗目の砂糖で何kg入りの徳用品と云った指示は、スパンテストで云えば4文条件ほどになるのだろう。でもそこそこに60点は取れるお使いをやる。注意を逸らすノイズがはまり込んでくる。ポジティブな情動だとWMにプラスに働くが、ネガティブだとマイナスだと本書に書いてある。TVには出てこなかったが、怖そうな大型犬にでも出会ったら、結果はずっと悪くなるのであろう。
- 我ら年寄りには、出不精にならずに日頃から社交を心がけ読書を行って、WMを鍛えよと忠告してある。人間活動は左脳的だ。だがWMの容量には限りがあり、左脳にある音韻ループによるリハーサル方略は頭打ちになる。右脳的なイメージ方略を使えるように訓練しておくと、WMの能力は意外と強化されるという。
- 本書が著者の心理学実験に拘った説明に終始しているので、私の経験を取り出して、本書の内容を当てはめて考えた結果をいくつか載せてみた。。当たらずとも遠からずだと思っているが、自信はない。一般教養書のつもりで出版された本であろうから、社会事象の解析に踏み込んだ内容にして欲しかった。
('14/8/17)