大多喜藩廃藩の頃


大多喜城址に天守閣の姿に造られている県立総南博物館を見る。藩校・私塾・寺子屋−近世房総教育史−なる特別展を開いていた。
千葉の大名はいずれも小藩で大多喜城開祖の本多忠勝も十万石である。最後の松平氏は二万石だった。学は藩により奨励された。ことに維新前に競って開設したから藩校数は一県としては大変に多い。朱子学の系列が多い。しかし佐倉藩のように蘭学、医学を特徴とする学校もあった。
私塾寺子屋も700を超える数であったという。学制改革後の小学校の初期の就学率が3-4割程度と書いてあった。百何十年前の開発途上国としてはこれは異常に高い数字と云わねばならぬ。小学校の整備に土地の有力者たちが尽力したという記録があった。同様の記録を京都の市井の小学校の創立趣旨にも、宇和町や松本の開明学校の解説文にも読んだ覚えがある。我々の先輩は教育についての理解度は抜群であった。
大多喜藩の事業の中で特筆すべきは千葉県最初の水道を開削したことである。城下を流れる夷隈川の清流はあいにくと深く平地をV字状に浸食した渓谷である。お城に残る井戸は大きく深い。住民の方も同じだろう。水質も良くないそうだ。住民は川の水を汲み上げるためにたいへんな重労働を強いられた。明治に入り廃藩寸前の時期に藩主は水道工事を命じ奥谷より水を引いた。半年でやり上げた工事だそうで、その水トンネルの跡をお城の駐車場の近くに見ることができる。博物館のビデオは子供用でまどろっこいが親切に工事の跡をたどって説明してあった。山奥の工事跡は今は雑草に隠れて、辿るのも大変のようである。昔私が別子銅山の廃道跡を辿ろうとしたときの情景を思い出した。
大多喜藩二万石の侍の家は220戸だった。話は飛ぶが、私はいま琉球の植民地化の理由を勉強している。琉球は6-9万石であるから多くても1000戸である。日本は侍は文武両道であった。しかし沖縄では文官武官が分離し、文官が実権を握っていた。それが琉球王国版図一帯の諸島に分散していたから兵力上もまず島津とは対抗できなかったであろう。400年近い昔の話である。何を考えるにも実感が伴わない。その意味で、地理的に遠く離れしかも島津侵攻後250年は経た大多喜藩でもなにがしかの考える材料を提供してくれる。

('97/10/19)