バイオテクノロジーの教科書(下)T
- 下巻は上巻よりもなお分厚く、5百ペ−ジに近い。本(下)Tは「第6章 ホワイトバイオテクノロジー:化学・工業への応用」に対応する。
- 日本酒は醸造酒の中では飛び抜けてアルコール度が高い。アルコールはそもそも消毒殺菌に用いるぐらいだから、生命にとっては危険物質だ。だが清酒酵母は耐アルコール性がある。それでも20%にも達すると死滅して行く。原酒の広告を調べたら、25%ものがあった(大澤本家酒造 寳娘まぼろしの銘酒)。悪酔いして死にかかっている酵母の尻を叩き叩き、この高濃度に持って行くヒトは悪漢だ。蒸留酒の焼酎にはいろんなグレードがあるが、25%ものもある。蒸留酒並みの醸造酒なのだ。自然の中なら酵母はこんな生き方をするはずがない。
- パスツール研究所のモローらは、アロステリック効果でノーベル生理学・医学賞を受賞した。酵素の活性部位(触媒部位/基質結合部位)と制御部位(スイッチ)は異なる位置にある。細胞の代謝ネットワークでは、多酵素複合体が一連の生化学反応にかかわり合う。本当は清酒酵母のスイッチ機構を知りたいのだが、それはなくて、本書にはグルコース培地からラクトース培地に細菌を移し替えた場合の生化学が示してある。グルコースは生命にとってポピュラーな食い物だから分解酵素は常備していよう。ラクトースの分解は日常的でないから、細菌の分裂は停まってしまう。でもやがてスイッチが入る。代謝生成物がLacリプレッサーに結合して、ラクトース分解酵素のmRNA転写を許す。グルタミン合成酵素は複数のサブユニットから成り立っていて、サブユニットごとに環境を監視するセンサーとスイッチの働きをする。1つの信号が全体の合成能を支配する。
- グルタミン酸ソーダは、生産量という意味ではバイオテクノロジーを代表する製品である。コンブ味の味の素だ。味の素(株)は小麦グルテンの塩酸分解法で出発した。戦後の会社・協和発酵は、細菌内に蓄積するグルタミン酸を細胞外に浸出させることに成功した。細胞膜の構築に必須な補酵素ピチオンを自らは作れない菌株を選び出し、それを培地にピチオンを制限した状態で増殖させると、グルタミン酸を取り出せる。細胞膜合成を阻害する、あるいは不完全にして浸出を助ける方法はほかにもいろいろある。脂肪酸エステル形界面活性剤が有効だ。この菌はコリネバクテリウム属でグラム陽性菌のため、ペニシリンが膜生成を阻害作用を利用できる。かの有名なペニシリン開発物語がコラムとして取り入れてある。
- ペニシリンの培養液単位あたりの生産力は、発見者フレミングの時代に比して今では2万倍にも上昇している。新株の発見とその改良が主たる理由だ。改良は突然変異を促進させる方法の進歩による。放射線やある種の化学薬品を使う。優良株を交配し、遺伝子操作を行う場合もある。工業的培養は生物化学工学の進歩により促進された面も多いだろう。培養タンクについての記述がある。
- ストレプトマイシンは放線菌産生物質で、ペニシリンでは治療不能であった結核の治療薬として有名である。土壌微生物の産生物質は次々と新たな抗生物質を生んだ。日本で発見された抗生物質としてカナマイシン、カスガマイシン、イベルメクチンが紹介されている。藤沢薬品工業における天然物スクリーニングの画期的方法について、12pに及ぶコラムを設けて紹介している。単離した90個の新規微生物産物から6個の医薬品を創薬出来た。その内タクロリムス(臓器移植の際の免疫抑制に卓効)と、ミカファンギン(HIV感染症として代表的なカンジダ症に高い治療効果)は、画期的医薬品として監督官庁に認められているという。
- ビタミン-C(アスコルビン酸)をグルコースから純バイオテクノロジー的に得る巧妙な遺伝子工学手法が述べられている。反応は4段階で行われ、最後に培地の酸処理で目的物を得る。最初の3段階は外膜と内膜の中間のペリプラズムに存在し内膜にくっついている3酵素によって進行する。4段階目が本来は持っていない細胞質内の組み込み遺伝子による酵素によって行われ、その生成物(ビタミン-Cの前駆体)は細胞外に浸出する。ビタミン-B2と-B12も主にバイオテクノロジー法により製造されている。ほかに甘味料アスパルテーム(ジペプチドエステル)の例が目に付いた。私らの年層では人工甘味料と云えばサッカリンにズルチンで、癖のある甘さの故に砂糖不足の時代でもあまり用いられなかった。アスパルテームは「べらぼう」に甘い上に癖が無く消化容易でかつ砂糖置換量はノンカロリーに近いと来ている。クルーズ船の喫茶室に見かける人工甘味料の正体は、これかもしれない。あるいはキシリトールなどの希少糖なのかもしれない、次回乗船時に確かめよう。
- 微生物からは1万を超える抗生物質(広く生理活性物質と云うべきだろう)が単離されている。今では天然物スクリーニングによる新薬発見はもう限界と見なされている。作用部位と作用機構が分子レベルで解明されたことが、スクリーニングを加速できた。抗生物質は作用機構から以下の3種に大別できる。細胞壁・細胞膜阻害抗生物質(ペニシリンはその好例)、タンパク質合成阻害物質およびDNA/RNA合成阻害物質。かって大学初年の頃私はトラコーマなる眼病を患った。我が国ではもはやトラコーマに悩む患者は少ないが、未だに未開発国では蔓延が収まらず、失明に至る眼病として恐れられている。私の医師はテラマイシン眼軟膏を処方した。新抗生物質が珍しかった時代なので覚えている。これはテトラサイクリン類抗生物質で、広域スペクトル抗生物質だとある。生体のタンパク質工場リボソームに結合してタンパク合成を阻害する2番目の作用機構部類に属する。
- コレステロール低下剤スタチン薬の開発者・遠藤章博士(当時三共)の伝記が、19pにわたって記載されている。ノーベル賞に値する業績だと褒めちぎってある。高脂血症患者にとってはまさに福音の薬であった。本Webサイトの「コレステロール」('08)は低下剤としての効果は抜群であるが、コレステロール値を下げ過ぎる治療法は有害だという問題提起をしている。そのWebサイトも本書も、その他のコレステロール低下剤はあまり有効ではないとしている点では一致している。京都米穀商からの青カビから発見され、有効性を、そもそもコレステロール値の高い卵を産むニワトリを使った検定法で見出した。ラット検定では有意差無しの判定で開発中断があり、また毒性による開発中止も経験している。共同開発協定でメルク社に技術開示をしたが、メルクが同系統の新株をアメリカで先願したため、三共は後塵を拝することになった。私も研究屋で通したから、この1つの新薬が世に出るための、山あり谷ありの開発史は身に浸みて面白かった。
('14/07/02)