写真展:水辺の記憶
- 写真展:「水辺の記憶〜写真家林辰雄のまなざし〜」を観ようと青葉の森公園を目指す。中央博物館の企画展である。林氏は大正生まれの地元のアマチュア写真家だそうだ。高度成長で失われていった水辺の風物が白黒写真として残されていた。水辺とは印旛沼であり、外洋に面した外房であり、内海東京湾の沿岸である。
- 最近は車の運転を止めたので行かなくなったが、印旛沼付近は私のお気に入りの散策コースだった。このWebサイトを印旛沼で牽くといろいろ出てくる。「印旛沼の畔」には、昔は一帯が鹿島の海という、琵琶湖の何倍もの面積を持つ汽水湖であったと紹介している。印旛沼公園は今はサクラの名所だが、中世の師戸城で、水上経済支配のための支城であった。ライン川の畔には数々の城や砦が築かれているが、同じ目的で幾多の軍事施設がこの沼周辺にも置かれていた。田沼意次以来の印旛沼−東京湾接続運河工事は難工事で、昭和に入ってやっと印旛沼放水路として完成した。沼の干拓は地図上でも確かめられるほどだ。印旛村歴史民俗資料館があった。もう10数年昔の見学だからはっきり憶えていないが、水辺の生活を物語る民俗資料の展示がされていた。県立大利根博物館(大利根分館)には佐原あたりの利根川−印旛沼もその延長−を中心とした民俗資料が展示されていた。
- でも博物館と云うところはモノの展示が主で、人間との繋がりで見せる場所にはなっていないのが普通だ。林氏の写真はその欠点を補っている。千葉に移り住んでもう半世紀ほどになるが、現在の沼漁業の実際を見たことはないし、ましてや昭和30−40年代のそれを目にしたことはない。ウナギ漁の写真がある。佐原に初めて出掛けたとき、まだ天然ウナギの蒲焼きを売りにする店があったことを思い出した。このWebサイトに「甚兵衛渡し」がある。義民佐倉惣五郎(宗吾)の霊廟を訪れた記録である。でもその渡しは見ていない。渡しは他にもいろいろあったようだ。舟は大勢の行商の女を乗せている。林氏は行商の女には特別関心が深かったようだ。決まりでは50kgまでだったと云うが、100kgを担いだ剛の者もいたらしい。角形の背負い篭姿は今となっては懐かしい風物詩である。私は行商の集団には、初めての北海道旅行(昭和30年)で急行(当時はまだ特急になっていなかった)日本海に乗ったときにお目にかかっている。
- 県立安房博物館(今は館山市立博物館分館になっている。)には、数多くの漁労関係収集品が並んでいた。勝浦の「海の博物館」(当Webサイトに同名の記事あり)は、自然の展示館だった。九十九里町のいわし博物館は、「いわし専科」で紹介した。地下から湧き出す天然ガスの爆発事故で、閉館になって以来、今はどうなっているのだろうか。外房のいわし漁は江戸時代から有名で、中央博物館にも魚油採取をしている現場のジオラマがある。漁猟の様子は大河ドラマ「澪つくし」でも何度か見せた。このWebサイトに「渡辺学の世界」がある。外房の銚子で人生の大半を送った日本画家で、漁民の生活に密着した絵を描いた。林氏の写真には海女の生態が数多く撮られている。砂浜が続くということは、海流で運ばれる砂で漁港が簡単には作れないことを意味する。砂浜から漁船を出し入れする曳船作業は危険を伴う重労働であったろう。主力は女たちだったようだ。水揚げ作業にも参加していたという。今は知能労働主力の時代だが、こんな肉体労働が半世紀前までは当たり前であった。
- このWebサイトには「浦安散歩」「青べか物語」その他浦安関連の記事がいくつかある。'02年に東京都写真美術館で「聴く、観る 山本周五郎の世界展」を見たのが切欠になったらしい。浦安市郷土博物館はなかなかユニークな展示場で、焼玉エンジンの実演も見たし、あさり飯も食えた。焼玉エンジンは、もうほとんど使われていないだろうが、私の中学時代では小型船舶用エンジンとして普及していた。電気スパークを使わず、ヘッドの焼玉でシリンダー内の噴霧燃料を爆発させる2サイクルエンジンだった。中学の教科書にチャンと作動原理まで載せてあった。あさり飯は漁師のファーストフードだ。千葉の貝塚からはあさりの貝殻がわんさか出てくるから、2−3千年の伝統があるのではないか。
- 今回展示ではべか舟の模型がよかった。「青べか物語」で活躍するべか舟を目で確かめたと云う思いだった。「べか舟は船尾から前に進める。」というキャプションの入った写真は、操船についての目新しい知識になった。浅草のりとして有名な海苔は実は千葉海苔である。それももう終わってしまった。千葉中央区の寒川に海苔干し場があったなんて信じられない。埋め立てで寒川神社も内陸に入ってしまい、浜で行ってきた神事は今では人工の浜で執り行われている。展示場の外に高さ2mほどの脚立が立っていた。釣り人は脚立を沖にまで運んで貰い、その上で日がな1日釣り糸をたれるのだったそうだ。
- 農民の写真は少なかった。流れ潅頂(かんじょう)は珍しい写真だった。産死者の供養という。死産流産が多かった時代だ。孩児の供養にこんな習慣があったとは知らなかった。それにしてもPCの辞書(ATOK)では潅頂も孩児も出てこない時代になった。昨夜見た時代劇にお産で死んだ母子の墓標に、母の名と合わせて孩児と刻まれていたが、その意味が分からない世代が来かかっているということだろうか。もう近くでは見られなくなったチンドン屋、朝市の風景。まつりの手古舞は、佐原や佐倉では今でもあるのだろうが、写真の船橋市ではさて伝わっているのだろうか。
- 常設展の歴史展示室に行ってみる。気がかりな展示があるのだ。江戸期の鷲野谷村の状況を記したジオラマ模型とそのキャプションである。人口233人に対し石高126石とある。都市の1人が食べる1年の米が1石と云われた時代だ。石高を米の生産量と考えると非常識に低い値だ。館員に年貢は「4公6民」あるいは「5公5民」だから、この石高を年貢と思えば正しいように感じると云ったことがある。それでも足りないはずから雑穀や芋、豆などの野菜で食いつなぐ。田と畑が3:1ぐらいと云う。農地面積と当時の収穫力(1反1石、今なら1反=10aで3.3石=500kg)からの推算も出来るはずだ。インターネットで調べてみると、検地帳と村絵図は残っているようだった。ジオラマもそれにもとづいて製作されたものだろう。館員は資料にそう書いてあるとの一本槍であった。歴史を数値で捉えることが出来る機会はあまり多くはない。農民の生活まで踏み込めるのに惜しい話である。
- 青葉の森公園は花盛りであった。早咲きのカワヅザクラはもう葉桜で、カンヒザクラもとっくに峠を過ぎている。イズヨシノ、コシノヒガンザクラは8分か。サクラの大多数を占めるソメイヨシノはその日が満開日であったらしく、園内の散策で今年1年分の花見を楽しんだ気分になれた。オオシマザクラも満開だった。カンザン、イチヨウ、紅華(ベニバナ?)、ギョイコウはまだまだ蕾が生長を始めた段階で、あと2週間はかかるだろう。遅咲き桜は纏めてソメイヨシノの山脇に植わっている。ばらばらに混植されるよりいい。形のいいオトメツバキが咲いていた。新宿公園にあったのを思い出した。椿の女王である。ヒュウガミズキとトサミズキが満開に近かった。ミツマタの黄色い花を見ることができた。モクレンにボケも満開だった。公園センター前の植え込みにワスレナグサ、ムスカリを見た。
('14/4/3)