日本型モノづくりの敗北
- 湯之上隆:「日本型モノづくりの敗北〜零戦・半導体・テレビ〜」、文春新書、'13を読む。著者は日立の技術者から学界に転じたヒトである。いまだにマスメディアでは日本を技術大国視している論調が目立つが、文系優先のお国は気楽なものだと苦々しく思う。私も現場を一度はやったが日本隆盛期であった。それでも技術の今に対する危機感は強い。筆者は落ち目の日々に熾烈な競争現場を経験した。研究所から始まりDRAMのエルピーダさらにSOCのセラードに出向、ともに壊滅状態に入り、勤め始めてから15年半で早期退職せざるを得なくなる。過去の栄光から来る観念論だけの人たち−政治家、中央官僚、マスメディアの諸氏に多い−が、現場からの警告に耳を傾ける日が来るのであろうか。とにかく生臭くて面白そう。
- 主記憶装置DRAMの日本のシェアが世界の8割を占めた時代があった。'91年のNHKスペシャルに「電子立国 日本の自叙伝 全6回」(本Webサイトを「電子立国日本」で牽くといろいろ出てくる)があった。本書の図2にその頃は半導体売上高ランキングのトップ3社はいずれも日本のメーカーであることを示している。その業界がなぜ今の見る影もない凋落状態になったのか。筆者はパラダイムシフト(需要先の製品形態の変化)について行けなかった、ついて行かなかった、「イノベーションのジレンマ」(さし当たっての顧客大切指向のあまり、安い、小さい、使いやすい破壊的技術により駆逐される)に陥ったことが最大の理由だと最初に総括している。いまだに技術力神話を信じている弊害も指摘している。革新原理、高品質、高性能、低コスト、対応の早さなど技術にはいろいろあるが、部分的にはいまだトップであるにしても、総合力では負けた。敗戦を認めなければ明日がない。
- 電子産業門外漢が技術の現状を知る機会は、新たな電子機器を買い入れるときに来る。我が家ではDVDだけだったところへBlu-ray DiscがTVにくっついてやってきた。PCのCPUはすでにデュアルコアになっていた。補助記憶装置はHDDが主流だったが、SSD組み込みPCも出ていた。ただしSSDはまだ容量は大きくなかった。今のPCを買った(4年前)ころはSOC(System on Chip)と云う言葉を聞いたことがないし、AP(Application Processor)ももちろん無かった。SOCはCPU、DRAMおよびSSDをワンチップ化した「システムLSI」だという。あとで実はSOCはニッチの集合で、SOCと云う半導体製品はないと説明されている。何千種類にも及ぶ特定用途向けロジック半導体のうち、ことに集積度が高いものへの総称だ。APはスマホやタブレットの、PCのCPUに対応するプロセッサーとある。SOCもAPもなんだかまぎらわしい。
- 私が勤めた化学会社は半導体集積回路LSIの製造会社と無縁ではなかった。本棚を見ると、「微細加工とレジスト」「感光性樹脂」「半導体評価法」といった結構専門的な本が並んでいる。日本隆盛期にはこれに類した本がいろいろ書店に並んでいたものだ。ときおり近所の三省堂を覗くが、近頃はこのての本がごく限られている。本Webサイト「「いいね!」の社会破壊」現象の1つかも知れないし、落日を象徴しているのかも知れない。内容はすっかり忘れてしまったが、第2章の「半導体とはいったい何か?」の説明について行く程度のことは今でもできる。私が現役のころマスメディアに漏れた、日本の歩留まり向上のキモとなったと云われる1つの技術は、工場の超クリーンルーム化であった。小さなゴミがLSIをオシャカにすると云う発見が、アメリカの半導体産業を押さえ込んだ。熊本NEC?工場のゴミ博士と仇名された女性従業員の記事を覚えている。
- 筆者は早期退職後、同志社大学教員となってエルピーダを研究対象にしている。エルピーダは日立とNECの合弁で、技術者は両社からの出向者と少人数の三菱からの出向者より構成されていた。会社の中にあっても、寄り合い所帯による新事業立ち上げなら各員が経験することだが、出向元が異なる会社のエルピーダのような場合は、えてして本書にあるように1+1=0.5になる。対象が技術開発だと、絶対的評価法がないから、出向元から担いできた会社の哲学を真っ向からぶっつけあって、収拾が付かない議論になって行く。ことにこの会社のように、たすき掛けの人事−部長がNECなら課長は日立−をやると、出身元の名誉を賭けた戦争が足を引っ張る。エルピーダ内では三菱社員の評判が高かったとある。三菱は半導体メーカーとしては日本で5番目ぐらいだった。彼らは、開発から量産さらには生産委託まで、広い担当範囲の仕事を持ち上げて行くという調整能力を必然とする文化に育っていたとある。同じ技術にかける技術者数はNEC:日立:三菱で10:3:1ぐらいだったとある。
- 私のPCはもう5代目だ。1代の寿命はせいぜい3−4年である。DRAMから先にやられたという記憶はない。ダメ部品はCDドライブであったり、HDDであったり、CRTであったりした。DRAMの寿命は5年で十分なのだ。でもPC以前コンピュータメーカーは寿命25年を要求し、それを日本の半導体メーカーが実現してしまった。パラダイムシフトにさしかかっていた時期の、次世代256Mbit DRAM開発に纏わる悲劇の背景である。高コストだが、高品質のLSIを100%近い歩留まり率で製造する技術文化から、解っていたのだが、寿命5年でも安いLSIにタイミング良くさっさと乗り変えられなかった。書いてはないが、当然対応する過剰品質を川下に要求しただろう。裾野が広い基幹産業であったから、日本全域に甚大な影響を及ぼしたことであろう。
- NEC挽歌が唱われている。戦後「初歩のラジオ」という雑誌を頼りに、ラジオ作りに夢中だったころがある。真空管時代である。同じ品番の真空管でもメーカー間に値段差があった。1級品が東芝製で、日本電気(NECの旧名)製はその次のランクだった。弱電界でのNECは、私の高校生時代にすでに確固たる地位にあった。入社した会社ではNEC製の大型汎用コンピュータにお世話になった。PCもNEC製から出発した。PC9800シリーズは圧倒的なシェアを保持し続けた。半導体売り上げ世界一も長年継続した。DRAMでも世界一であった時代があった。ガラケーの携帯でも日本では3割近いシェアのトップメーカーであった時代がある。この輝かしい歴史を持つNECがつぎつぎに半導体事業から撤退した。スパコン「京」の開発でも途中から離脱している。盛時には15万を数えた従業員も今は10万という。NECは一体どうなったのだろう。
- サムソン電子は今やトヨタ自動車を超す大会社である。その主力製品のDRAMは'90年代にNECのOEM生産(シャープからの技術移管工場)から始まって、今や世界シェアNo.1である。その技術開発思想にはNECの影響がたっぷり見られるそうだ。日本と明瞭に異なるのは、彼らの徹底した能力主義であろう。専務ともなれば、現場を十分に把握し果敢に決断できるそうだ。今はそうでもないだろうが、私が入社したころの悪口に、「何も専(セン=しない)」務と云う言葉があったことを思い出す。彼らは第3工場建設にあたり100人規模の日本人コンサルタント集団(顧問団)を組織した。参加した日本人は、いずれも日本有力メーカーのそうそうたるエンジニアであったらしい。彼らを通じての闇の中の技術情報流出についてはときおり新聞に出た。あくまでも闇の中なので、正確には分からないが、著者は自分の発表内容の異常に早い把握とか、試作で終わった日立1ギガDRAMが彼らに渡っていた事実?から、世に言う産業スパイもどきの嫌らしい活動を推量している。
- 本Webサイトに「メイド・イン・ジャパン 逆襲のシナリオ」('13/5)がある。同名のNHK SP内容の紹介である。日本半導体産業の退勢について、アメリカの外交力に負けたような言いぐさが取り上げられていた。本書にはそれが東大教授を含む「戦犯」たちの責任転嫁に過ぎないと厳しく批判してある。競争力回復のために官民挙げての協力体制を築いた。数多くのコンソーシアムを立ち上げ、巨大予算の国家プロジェクトを実施した。エルピーダやルネサスの合弁会社を設立し、その救済に公的資金を投入した。私に云わせれば、コンセンサス型の企業開発とはそんなモノなのだ。委員の諸氏が納得する方針が出るころには、もうアメリカも韓国もその先をまっしぐらに走っている。
- JAL立て直しの稲盛さんのような、1人の強いリーダーのリーダーシップのもとで、一気呵成に、集中してことに臨まねばことに敗れる。出演して敗戦の言い訳に終始する、それを言葉滑らかに言い続けるようなヒトを委員にしたとき、すでに負けていたのである。有象無象はしかし権限を集中したがらない。なにか自分の発言権限とか、成功報酬の取り分を確保できる体制を維持しようとする。それからもう1つ気がかりなことがある。立て直しの旗振り役が経産省の課長だったことだ。一般論だが、大学を出てから何10年にもなれば、現場の汚れ作業との出入りを繰り返さない限り、理系であって理系でなくなり、算盤だけは達者な、骨董的洞察しかできないヒトとなってくる。本Webサイトの「理科系冷遇社会」('11)でも警告している。本書は打つ手打つ手のどれ一つとして成功しなかったと嘆いている。
('13/11/16)