二十四の瞳
- この夏、製作年代の異なる壺井栄原作ドラマ:「二十四の瞳」3作が続けてTV放映された。最初が木下恵介監督、高峰秀子主演の映画('54)、次がCh6の松下奈緒主演のTVドラマで初公開の最新作、最後が黒木瞳主演'05年放映のTVドラマである。ブロッグ「ささなき通信」には、ほかに、私は見たことがないし、これからも見る機会はないだろうと思うが、TVドラマには1964年に香川京子(テレビ東京)、1967年に亀井光代(MBS)、1974年に杉田景子(NHK、全6回)、1976年にも杉田景子(第2部、NHK、全6回)、1979年に島かおり(TBS)、1980年に倍賞千恵子(フジテレビ・アニメ)の6作があるという。映画では田中裕子主演のリメーク作品('87)がある。これほど多く劇化された小説はほかにないのではないか。このHPで「二十四の瞳」を検索すると20件ほど出てくる。私の映画評論は「二十四の瞳と細雪」('02)に書いている。このドラマが訴えまた伝える内容は、私の頭脳に深くしみ込んでいる。以下主演者名をとって、例えば高峰版のような表現で、各作品を区別する。
- 原作も一度は読んだ。瀬戸内海のどこかの寒村が舞台で、小豆島と明記されていないのだが、ドラマは全てが小豆島で、それも岬の分教場から始まる。原作者は小豆島町の出身だから、明記せずとも原舞台であることは間違いない。苗羽小学校田浦分校が正式名だった。住居表示は苗羽村字田浦だったろう。自転車で50分という本校の位置は字苗羽だったろう。苗羽小学校は現存する。字(アザ)名はGoogle地図にも出ている。苗羽村は合併合併で今は小豆島町になった。
- 「醤油屋の煙突」は大石先生の実家がある場所のランドマークとして、また劇中で警察の赤狩りの証拠物件(作文題名)として重要な大道具である。高峰版では白煙を棚引かせる煙突の実写があった。黒木版では白煙は見えなかった。Google地図のストリートビューで確かめたが、現存するのか否かわからなかった。でも新任の大石先生が自転車で岬に向かうとき本校に通う5、6年生に「おはよう」と声を掛けるが、その背景になる醤油醸造所の土塀は今も健在であることを知った。私は'94年に小豆島の自動車旅行を楽しんだ。マルキン醤油記念館があって醸造工程を見せてくれた。当時は周囲の工場敷地にはまだ煙突が残っていたように思う。
- 自動車旅行は1泊2日だった。当時池田町といった町の町立の国民宿舎に泊まった。1日中田中版の「二十四の瞳」のビデオを流していた。田中版は、それまでにもTVで見ていた。田中版の評判は、高峰版があまりにも立派であったためもあって、芳しくなかった。「二十四の瞳」の主演と云えば大石先生を演じた女優だが、物語の主役は12人の子供たちだ。同情的評論を記憶している。大人はまだいい。かすかでも旧体制に対する触感を持っている。だが子役たちだ(アマばっかりだったろう)。戦後の一番大きな変革は小学教育である。敗戦後42年も経っているのだ。子供を取り巻く環境はまさに180度転換してしまった。よほどの才能を、時間を掛けて手取り足取りせねば、ただでさえ難しかった時代の色をある角度からの意図を持って表現するなど至難の業だと。
- 田中版以降の作品ではますますその傾向がが強まる。子役ばかりか大人も雰囲気を出せずに往生している。脇役陣も揃っているのに、なぜこの程度なのかと疑ったほどだ。ことに言葉。岬時代の昭和初期なら、方言が完璧に生きていたろうが、作品では標準語化してしまっていて、まあ一般に理解して貰うためとか何とか云って時代考証を避けたのだろうが、見るものをつまらなくさせる原因にもなっている。地産の人になりきれず東京人で出演している。私はもう一つ、あまり云いたくはないが、企画者から演出担当者までの凡庸さを不出来の理由に付け加えておく。
- 田中版製作は小豆島に思わぬ福音をもたらした。ロケ資材中心に二十四の瞳映画村が作られ、寒霞渓の秋の紅葉以外の強力な観光資源を提供することになった。それに松本版も黒木版もロケの主要現場にこの映画村を使っている。私も映画村を覗いている。覗くとは入場はしなかったと云うことで、本物の岬の分教場が隣にあるから、その方を見学して終えている。私は戦前戦中の小学生(国民学校生)だから、小さな机と椅子の懐かしさは今も思い出せるほどだ。3教室あった。小さな集落だ。ずいぶん子沢山であったわけ。この雰囲気は各版ともよく出ている。
- テレビ局の松本版に対するHPに、ロケ地マップがあった。自動車旅行で見聞し、うら覚えでも記憶に残っているものもある。私は大石先生の岬への自転車通勤路が不思議だった。家と岬の間には峠と云えるほどの場所はないのに、たいそう険しい坂道を自転車を押して歩く場面がある。足の怪我で休む先生の見舞いに家を抜け出した子供たちを、バスから発見する場所も坂道であった。それが長崎猪垣で撮られていた。猪垣とは、イノシシよけの垣根で、田畑を荒らすイノシシ退治に、昔は頑丈な垣根を作ったと旅行のときに聞いたおぼえがある。現在はイノシシは島では絶滅しているともそのときに聞いた。気楽に海岸沿いを大石先生に走られては「絵」にならないからの虚構であった。
- 黒木版でも松本版でも池田の桟敷が使われている。池田の桟敷とは農村歌舞伎遺跡で、中央の演技場を取り囲む青空石垣観覧席である。ほかに小豆島には農村歌舞伎場跡が2ヶ所あった。黒木版の映像は隣のお宮の祠を撮しているので、池田の桟敷と直ぐ解った。旅行に行ったときすでにもう歌舞伎は廃れていて、演じられなくなっていた。黒木版では小学6年になった男の子の今後を聞く場面、松本版では入営が決まって5人が揃って挨拶に来、それを見送る場面に出てきた。
- 昭和3年から昭和21年までで、高峰版の冒頭に二昔になるがで始まるから、最後のシーンからしばらくのちに回顧して語っている物語に思える。子役は成長と共に演者が交替するからいいが、主役は老けて行く様を細かに表現せねばならぬから大変だ。高峰秀子は云うことのない名優ぶりであった。メーキャップはもちろんのこと、泣き顔、笑顔、胸の張り方、背筋ののばし方、足の運び方まで神経の行き届いた演技であった。あまり配慮のない黒木瞳や松本奈緒を見ていると、少々オーバーに演じすぎだったのかなとさえ思ってしまう。高峰版がデジタル・リマスター版になって、くたびれた劣化フィルムによる映像で見ていた映画が、撮影当初の鮮明な姿に蘇った。それが彼女をますます際立たせることになった。これがカラー撮影であったらどんな印象になっただろうかとも思った。
- リマスター作業によって、大石先生お見舞いの集合写真を再認識させられた。撮影の一瞬に12人の子役のそれぞれが、個性豊かな表情と仕草を見せている。それからの12人の生き様を暗示してもいる。そもそも子役の選別のときすでに、他版との勝負がついていたのかも知れない。役に嵌りそうな体格顔立ちの子供が選んである。唯一中学校に進学した竹一の引き締まった顔と、お節介で憎めず景気の良い家のニクタの間延び顔、体格も先生が言うように大きいと来ると、負けず劣らず名優だったんだと納得する。この集合写真は、後々の展開で大きな役割をする。ことに黒木版と松本版では、小道具として多用される。町中はビルやプレハブ式家屋が多くなったし、帆掛けの運搬船、手こぎの漁師舟はもう海上どこを見渡してもいないし、背景を時代に合わすにはたいそう苦労したことだろうとは思う。でも写真は当時は高価な貴重品だった。夫の写真はともかく、祖母や娘の写真は仏壇では贅沢だし、出世する5人にあらためて集合写真を手渡すような余裕は大石家としては不自然と思った。時代合わせに無理をしている。
- 松本版はとことん経費節減でおもしろみが半減した。修学旅行は暗い影の多いこの映画では晴れ間の見える行事だが、ガイドが名調子で説明する屋島源平合戦場跡、かわらけ投げ、栗林公園、金比羅宮とたっぷり見せて、高峰版は観客に一息入れさせたが、松本版は言葉だけで済ませた。かわらけ投げは簡単でない。少々の修練が必要だ。子供たちが易々と投げるので私は感心したものだ。ただ黒木版では修学旅行の終わりの出航風景を入れていた。高峰版は多度津港だったが、黒木版では高松港のようだった。
- この港町は、小学6年途中で働きに出されたマッチャンの奉公先のうどん屋が出てくるので重要なのだ。このうどん屋での再会風景が見せ場なのである。高峰版では浪花千栄子が女将で、芸達者とはこの人のことかという演技を見せる。うどん屋風邪薬の話がさりげなく顔を出す。あのころうどん屋で風邪薬を売っていた。昨年だったか、NHKで取り上げていた。時代考証がよく出来ていると感心した。黒木版の女将は可も無し不可も無しの出来だが、松本版では女将が大石先生に店先で、無断でマッチャンを呼び出したと食ってかかる。関東ならいざ知らず、四国で客商売のうどん屋の女将がそんな喧嘩を店先で仕掛けるものか。
- マッチャンはしぶとく生き抜いて、昭和21年の大石先生の再度の分校教諭就任の歓迎兼謝恩会に出席する。女の子は7人中5人が出席できた。男の子は3人が戦死し、1人は失明して帰還している。その彼と無事だったキッチンの2人が出席する。皆生死の境を彷徨ったたくましい戦士の面持ちである。歓迎会の最後で会場料亭の女将になったマスノが浜辺の歌を歌うところは3版共通のシーンである。高峰版の月丘夢路は抜群の歌唱力だった。宝塚出身だそうだ。幼い頃から歌が好きだったという伏線があるから場面によくマッチしていた。
- コトエは最も学業の成績が良く、高等部に進学できない家の事情を先生が惜しんだほどだった。孝行娘でかつ妹思いだった。でも大阪の奉公先で肺を病み、実家では物置部屋に隔離状態のまま死を迎える。肺病は死病でかつ伝染すると信じられていた。高峰版でも黒木版でも松本版でも、確実な死の予感と共にお見舞いの先生に語るコトエの話は、諦めきっているのに命があげるうめき声として心に残る。黒木版では、骸のままの屍体を運び出す人たちが布で口を覆っていた。感染を恐れてであろう。大石先生のお見舞い品は自宅で作ったカボチャの煮物だったが、少し黒くなった状態で手つかずのままに転がっていた。そんなものしかお見舞いに持って行けない状態に、日本が落ち入っていたのである。コトエの描写では黒木版はなかなか見せる。
- 黒木版の戦場シーンは原作にはないし、なにか集合写真への懐かしさを強調し、写真を見つけてそれを破き土足で踏みにじる上官により反戦を表に出そうとしたようで、全体の流れに対して違和感がある。原作の、叙情的に、反戦ではなく生命の本能の叫びを正直に訴えるトーンをぶち壊したのではないか。
- 「高峰秀子 旅の流儀」を見た。新聞に書評が出たとか。養女の斉藤明美が編者である。彼女の母の描写がある。聡明で行き届いた気配りをだれかれになくするヒトだったとか。演技の幅をそんな地が広げていたのかも知れないとふと思った。(追記)8/24千葉三越の催事場の、安部朱美:「「二十四の瞳」と昭和の家族〜きずな〜」創作人形展を見た。本Webサイトの「日独文化比較論」にも小学校のきずなが人間形成上の両国の大きな差だとしている。だが人形展に取り上げられた昭和の家族は今いずこ。敗戦の年私は集団疎開先で、若い女の先生の間借り部屋をお訪ねした。担任でも何でもなかったが、親元を離れた子供を何人か呼んでくれたのであった。懐かしい思い出である。私が学校勤務を始めた最初の年には、実験室に配属の学生を我が家に呼んでみた。卒業以来音沙汰はないが、彼らは何かを感じてくれていたのであろうか。
('13/08/13)